第三話、パーラー・ビブリオ
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半年ほど前から、ぼくは隣町の小さな本屋で週に数回働いていた。
学校では学べないことだとか、社会性の獲得だとか、人間的成長をうんぬんするためでは全然なかった。単純にお金を稼ぐためだった。世の中は、そいつでぐるぐると回っていたし、地獄の鬼たちもそいつには頭が上がらないって話だから、金を稼ぐ理由はもう十分すぎるくらいだろう。
本屋の店主は五十がらみのひょろひょろっとしたおじさんだった。店の名は「パーラー・ビブリオ」(略すとパラビ)という。
面接でぼくを採用してくれたのはこの店主だったが、彼はいつも店にいなかった。代わりに店主の娘さんが、常時店番をしていた。サボっているわけではないらしく、娘の水脈さんがいうには、なんでも他に怪しい仕事をしているとのことだった。
近隣に本屋がほとんどないからか、大した品ぞろえでもないパラビにも客は多かった。ぼくはだいたい店の清掃や、万引き警戒、あるいは立ち読みばかりしているガキどもを注意する役目を担っていた。ぼくはたった半年で、すでに五回もコソ泥を挙げていた。才能があったんだ。将来は万引きGメンになれると本気で思っている。
店内から客が捌けると、水脈さんはレジカウンターから手招きでぼくを呼んだ。
「おつかれさま。ケーキあるから一緒に食べよう」
ぼくは礼を言って、ありがたく頂戴した。
年齢を聞いたことがないからわからないが、水脈さんは二十代半ばくらいに見えた。ショートカットの黒髪がよく似合っていた。たまに気合を入れてお洒落しているときは、ものすごくきれいだったが、していないときは、まあ、ようするにそこそこって感じだった。
きょうの水脈さんはそこそこの日だった。彼女は本屋の娘らしく、本が好きだった。ちなみに、以前、東京でOLをしていたそうだ。
「めぼしい植物図鑑は見つかった? 言ってくれればいつでも注文するからね」
ぼくは曖昧に頷いた。そのときは美味しくショートケーキを頬張りながらも、仕事中こんなことしてていいのかよ、と思っていた。
植物図鑑はぼくが生物部で緑ばかり育てていることを知って、水脈さんが勧めてくれているものだった。正直、植物図鑑なんかいらなかった。たかだか高校の生物部だ、仔細な情報は不要で、端的なインターネットからの情報だけで十分だったのだ。一度、その旨を伝えたのだが、水脈さんは忘れっぽい人で、それがときどきぼくには大閉口だった。いい加減メモくらいしろよ、と言ってしまうのも時間の問題な気がした。
ケーキを食べ終えても客は来なかった。窓の向こうの商店街は徐々に薄暗くなりつつあった。もう少しすると、古ぼけた駅舎から吐き出されたサラリーマンや下校する学生たちで忙しくなることだろう。
ぼくらはカウンターでぼんやりとしていた。
「学校でさ、何か面白いことある?」
「いや、あんまりないですね」
「そ? いいなあ、羨ましいな。学生ってだけで面白いもんなあ」
短絡的だ。そんなわけあるか。
ぼくは黙っていた。
「恋とかしてるの? 学生の本分じゃない?」
限りなく朗らかな笑顔に見えるような苦笑を浮かべるのに、ぼくは苦心した。この話はもう百万回くらいしていると思う。
「私はさ、三四郎と美禰子みたいな恋がしたかったな。ああいう一筋縄ではいかない悲恋っていうの? いいよねえ」
水脈さんはよく文学に喩える癖があった。先週はたしか、恋の話で『戦争と平和』に出てくるナターシャを散々に口汚く罵倒していた。本当にどうでもよくって、ぼくはうんざりしていたと思う。
「水脈さんは学生時代、恋人がいたんでしたっけ」
吐き気がするようなクソくだらない質問を、ぼくは厭々ながら投げかける。これも仕事の内だと思えばこそだった。
結果は爆釣だ。勝手に面白おかしくひとりでしゃべり続ける。こちらは客が来るまでただ黙ってへらへら笑っていればいいだけ。簡単な仕事だ。
水脈さんの一人相撲はおよそ十五分続いた。そのうちに客がやってきて、彼女の恋愛遍歴は幕を閉じた。
「いらっしゃいませ」
ぼくはほっと安堵しながら声をあげた。
しかし、次の瞬間、入ってきた客を見て、はっとする。
西ヶ原さんだった。制服を着て、鞄と一緒にスーパーの袋を提げていた。
彼女はすぐに気が付いたようだったが、ぼくは知らないふりをした。
すると、西ヶ原さんは察したように、そそくさと店の奥へと歩いていった。
「ねえねえ、野方くん。あれ、きみのところの制服じゃない。知り合い?」
「いえ、知りませんね。違う学年じゃないですかね」
クラスは別だが、西ヶ原さんは同じ高二だった。
「ふうん。すっごい美人さんだったねえ。声掛けてみたら?」
ぼくは思わずほかほかの馬糞を見るような目つきをした。慌てて取り繕うように、「勘弁してくださいよ」と笑ってみせる。冗談じゃなかった。余計な接点をもつ可能性は、すべからく排除すべきだった。
水脈さんがまだ何かごちゃごちゃ言っていたが、適当に相槌を打って黙殺する。
ぼくはふと首をひねって考え込んだ。
あれ、と思う。
取引を円滑に履行するためには、西ヶ原さんと関わる機会が多いに越したことはない。なにせ、内容が内容で、一分一秒を争うのだから、そばにいる時間が多ければ多いほどいい。しかし冷静になって、首を吊った彼女がその直前にぼくの喫煙を教職員に密告しなかった事実を思い返してみる。
なぜだ? これは何を意味するのだろう?
たんに忘れていたのか、あるいはそんな暇がないほど自殺衝動に駆られていたのか、そもそもはじめから密告なんてする気はなかったのか。
もし最後が当てはまるのであれば(ずいぶん甘い考えだとは思うが)、もはやぼくが東奔西走する必要なんてないのかもしれなかった。つまり、さっき考えた通り、余計な接点なんて邪魔なだけってわけだ。
じつに、ありがたいよ、それならね。非情だと謗られるだろうが、彼女がどこか知らないところで死ぬことがあっても、きっとぼくの心は痛まないと思う。
しかし、結局それはぼくの大して賢くない頭で考えたことであって、真相は西ヶ原さんの胸の内に秘められていることを忘れてはいけない。次はしっかりと密告するかもしれないし、されてから文句を言ったって遅すぎる。なにせ相手は墓の中かもしれないのだ。石に文句を言って返事があるのは、おとぎ話の中だけだ。
とまあ、なんだかぐずぐず考えてみたものの、そもそも、ぼくは約束したことは守る主義だった。言葉に責任を持てないインチキ野郎を軽蔑していたし、そいつに成り下がるのはなんとも我慢ができなかった。すくなくとも自分に正直でありたかったんだ。
レジで鉢合わせることを避けたかったから、ぼくはそこから離れて、窓際の雑誌コーナーの整理をすることにした。
少年漫画の週刊誌を並べていると、背後に気配を感じた。
小声で話しかけられる。
「野方くん、ごめんね。ここで働いてるなんて知らなかったの」
ずいぶんけなげじゃないか。けど、話しかけるなよ。
西ヶ原さんはぼくの知らんぷりから察して、こんなことを言ったようだ。
「あのね、私、この辺に住んでる。けど、たぶん、もうこの本屋さん使わないと思うから……」
ぼくはなんとなく、西ヶ原さんがいじめを受けている、という事実を思い浮かべた。
しかしながら、そんなことはぼくとなんの関係もなかった。安っぽい同情に価値があると思うか?
ぼくは西ヶ原さんの途方に暮れた目を一瞬だけ見つめてかすかに頷いた。
「あ、お客様、そちらをお買い上げですか? でしたら、レジはあちらです」
即座に声のトーンを変えて、ぼくはレジカウンターの方を示す。
西ヶ原さんは怯んだような表情をしたが、すぐに頭を下げて、レジへ向かっていった。手に持っていたのは何かの参考書らしかった。
店を出るとき、彼女はちらっとぼくに視線を寄越した。あれは、なんの思いが込められた目つきだったのだろう。ぼくにはそれが縋りつくようなものに見えて、なんだか気味が悪かった。
「西ヶ原って名前らしいよ、あの子」
午後八時、最後の客を見送って、店じまいに取り掛かっていると、水脈さんが言った。
「やっぱり、野方くんのこと知らないみたいだねえ。同じ高二だって言ってたけど、きょうたまたま寄っただけで、遠くに住んでるからもう来れないかもしれないって。あらら、野方くん、もったいないことしたかもねえ、近くで見るとアイドルみたいな顔してたよお」
ぼくは、そうですか、と少し残念さを装って笑った。
それから水脈さんは、ぼくが帰るまで能天気に「残念残念」と節をつけて口ずさんでいた。絶妙な節回しがぼくの気分をひどく害させた。
「きょうもありがとね、おつかれさまでした。ざんねん、ざんねん。ふふふっ」
帰路の道を歩きながら、ぼくは携帯電話を取り出した。
これはさすがに公平だとは思わなかった。だから、西ヶ原さんにメールを送ることにしたのだ。
わざわざ店を避ける必要はない。そのような強制を科す権利をぼくはまったく持たないし、このことが取引になんらかの影響を及ぼすことは断じてないものである。以上のような内容をなるべく簡潔にして送った。
返信は早かった。
「夜分遅くにすみません。
ありがとうございます。近くに本屋がパラビしかなかったので、そう言ってくれるととても嬉しいです。でもやっぱり申し訳ないので、頻繁には使わないようにします。
私は野方くんに甘えてばかりではないでしょうか。
何か私にできるお礼がしたいです。野方くんはお昼、いつも食堂だったと思うのですが、お弁当を作ったら迷惑ですか?
お返事待っています。」
ぼくは無表情ですみやかにメールを返した。
「はい。
迷惑なので、結構です。」