第十二話、もっともらしく、醜く
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ぼくが住んでいる町も、学校がある町も、広い日本の中でもっとも救いようがない場所だったが、単線の電車を乗り継いで向かった地方都市も、やっぱりクソみたいなところだった。
心を震わせるような楽しげなもの、頭がくらくらするような愛すべきもの、何度だって見たくなるような強烈なもの、そういうものはなにひとつなかった。個性の墓場みたいな場所で、うんざりさせられた。緑がある分、地元の方がまだいくらか我慢ができる。
ただ、そこにいる人には一見して見所があった。
うるさい奴が少なくて、みんな一生懸命生きている、という感じがした。その点、ぼくの住む町は後塵を拝している。無力感、停滞、諦め。そのくせ、監視には徹底的に精を出す。老人がのさばって、殊更におっているのがぼくの生まれた場所の特徴だ。偉くもないくせに偉そうなやつばかり。ぼくは、偉かろうが偉くなかろうが、偉そうなやつが大嫌いだった。まったく、吐き気がしてたまったもんじゃない。
高尾レミに連れられて、駅前のカフェに入った。なんだかよく分からない、ふざけた名前のドリンクを勧められるがまま注文して、ぼくらは店の奥のボックス席に座った。
「進路調査票、どんな感じ?」
腰を落ち着けるやいなや、高尾レミが言った。尋ねておきながらスマートフォンをいじっている。
「モトマロくんは進学するの? 就職?」
ちらっと顔を上げた高尾レミは、しかしながら、すぐにふたたび俯いてスマートフォンを覗き込んだ。返事をするのに多大な労力が必要になると感じたぼくは、黙っていることにした。黙って、白濁とした液体に泥が詰め込まれたような色のドリンクに口をつけた。
「東京行きたいんだよねえ」
高尾レミが言う。
「なんか、読モやってたときの知り合いの子が東京にいるんだけどね。めっちゃ楽しいんだって」
ドリンクは思いのほか美味かった。時給の半分を出した甲斐があるってもんだ。
「遊ぶところも買い物するところも、なんでもあるって。よくインスタにあげてるんだよ。ほら見て」
高尾レミがスマートフォンをかざしてみせる。そこには、整った顔立ちの女やどこかの店の料理、服、バッグ、街角、海なんかが映し出されている。ぼくは、ぼんやりとそれを眺めた。
「ね、やばいでしょ?」
スマートフォンがひっこめられると、ぼくは店内を見回した。
むやみに明るい。清潔で、調和がとれている。人が多いのだけが難点で、ほかは及第点だった。
ぼくはこれといって特別なふうもなく、きわめて平坦に尋ねた。なんの気なしだった。
「いじめって、そんなに愉快なのかな。何か価値があったりする?」
不躾に疑問を投げてから、我ながらまずいことを言ったと自覚した。とはいえ、特に後悔はなかった。近頃、ぼくが知りたいいくつかの事柄のひとつであることは間違いなかったのだ。
「だって、考えてみろよ」
高尾レミはスマートフォンから視線を外さず、息を吞んでいるようだった。
「リスクだけ背負って、得られるものが少なすぎる気がしないか。褒められたことじゃない。そういうことを考えたことがあるか。なあ」
みっともない嫉妬心の顕れだとして、それをますますみっともない方法で解消しようとしても、あまり意味がないんじゃないか。少なくとも机に雑巾を突っ込むよりは、もう少し有意義で、労力を割くに値するマシな対象があるはずだと思わないか。それで、劣等感は消えるのか。
「……西ヶ原さんに何か言われたの?」
高尾レミは動かない。
ぼくは目の前に掲げられたスマートフォンに返した。
「単純に知りたいだけだよ。興味があるんだ」
「なに、それ」
けれど、それは、有意義な事柄ってやつは、人それぞれなんだ。だから、興味がある。いじめは有意義なのか、どうなのか。刹那的で、直情的で、非合理的な、まったく非合理的な手軽な手段に、お前は満足なのか、どうなのか。ぼくはそれが知りたかったんだ。
「いたって真面目なんだよ。教えてほしいんだ。いじめは楽しいのか?」
高尾レミは答えない。
どこかで聞き覚えのあるジャズが店内に流れ始めた。
ぼくらの間の静寂は、たっぷり五分は続いた。
ぼくは帰ることにした。無言の木偶の坊と仏頂面を突き合わせることに有意義を感じなかった。
背景はあるのだろう。しかし、そこにはぼくを、そして高尾レミ自身を納得させる解答はきっとないのだ。馬鹿馬鹿しい。いじめなんてものはそんなものだ。そこに理論がない。そこに熱望がない。かさついた気晴らしの後に残るのは、ぞっとするような空洞だけなのだ。
置物みたいにじっとしている高尾レミを尻目に店を出た。
駅に向かって、人通りの疎らな商店街を歩く。初秋の妙に乾いた風が肌に心地よかった。そろそろ制服が冬仕様に変わるだろう。衣替えはいいものだ。何か新しい人間に生まれ変わったような、愉快な錯覚を与えてくれる。どいつもこいつもわくわくした顔をする。浮き立つ心が透けて見え、はしゃいでいる様子を隠さない。そんな雰囲気をぼくは気に入っていた。
もう高尾レミのことはすっかり頭の中から抜け落ちていた。今は、ブティックの窓ガラスに映る己の夏服姿がそろそろ見納めになることと、中間考査を向かえるための生活スタイルをどう確立するかに気を取られていた。
だから、背後から右腕を掴まれて振り返った時、そこに高尾レミの姿があったことは、ぼくをひどく驚かせた。いったい何事だと、そう思ったんだ。
高尾レミは神妙な面持ちをしていた。
「待ってよ」
走ってきたようで、息を少し切らせていた。
「まだカラオケ行ってないよ」
なんだ、そんなことか。びっくりさせるなよ。
ぼくは店から持ち出していた、甘ったるい飲み物を口に含んだ。
「ぼくは帰るぜ。あんた、黙ってるだけで楽しくないんだ。本当に歌えるのか?」
「……そんなの」
「なんだよ」
「楽しくないに決まってるじゃん」
「は?」
ふいに高尾レミは、本当にふいにだ、目に涙をためて唇をかみしめたんだ。いわゆる豹変というやつだった。まさに爆発的だった。
「ぜんっぜん、楽しくないよ! バカッ!」
眼光は炯々として、潸然と泣きながら。
「ねえ、誰が楽しくて変な噂流したりさ、いちいち机汚したりするんだよ! 楽しいわけねえだろ!」
そうして、公衆の面前で――といっても大して周りに人はいなかったが、大声で喚き散らし始めやがった。
「お前に何の関係があるんだよ! だいたい西ヶ原のなんなの、お前は! ホント、ていうか、もうやだ……関係ないじゃん……ていうかなんでこんなことしてるのか私だってわかんない……そもそも、あいつが――あいつが! 西ヶ原がひとの男とるから悪いんだ! サイテーじゃん!」
そこまで大声で怒鳴られて、ようやく高尾レミがカフェの続きをおっぱじめたことに気が付いた。たぶん感情をみっちり咀嚼して、たまりにたまったそいつを、怒りを、ぼくにぶつけるための準備を存分にこしらえてから、身を焦がすような衝動に後押しされ、それでやっとぶちまけたにちがいなかった。だから時間がかかったんだ。であれば、少し遅れるくらい、鼻で笑って許してやるべきだ。
「だから私は! やられたからっやりかえして――そう、だから私は、西ヶ原をいじめてんだよ! 文句ある? あるなら西ヶ原に言え! ぜんぶあいつに言って! 私だってもうやめたいんだから! やめられるなら、ホント、いますぐにやめたい……もう、いい加減にしてよっ」
顔を真っ赤に染めて、涙を撒き散らして、腹の底から悲鳴を上げて、それでも高尾レミは、いつの日かの踊り場のときよりも、遥かに健全で可憐に見えた。なぜだかはわからない。言ってることも剣幕も瓜二つで、なにも変化らしきものはないのに。けれど、ぼくはそのとき、はじめて高尾レミという人間が、真正面で向き合うに値すると思ったんだ。
「ねえっ……何か言えよ。黙ってないで何か言って、お願い。私が一番サイテーなんでしょ、どうせ。わかってるから、そんなこと……わかってるもん、そんなの……」
しかし、ぼくは疲れていた。それはそうだ。こんなに近くで、それこそ目と鼻の距離で、満腔の嘆きを傾聴したんだ、元気じゃいられない。いられるはずがないだろう。まったくのところ、いいものを見せてもらった。それでもう十分。十二分に、今日は有意義だった。
「……楽しいわけないじゃん」
ぐったり、それこそ魂が抜け落ちたみたいに、ぐったりと結びの呟きを零して、高尾レミは停止した。しゃくりあげながら、鼻水を垂らしながら、已むに已まれぬ暴発を、暴走を、暴露を後悔しながら、それでいて、今、ここにあることに全力で。
「あっそう。わかった」
ぼくはそんな彼女を、風前の灯みたいな高尾レミを独り残して、さっさと引き上げた。じつのところ、何にもわかっちゃいなかった。わかっちゃいなかったが、かける言葉を探す気もなく、変に清々しい気分で、マラソンの後みたいな充実感でいっぱいで、そして、その日の夕暮れはとにかく綺麗だった。
いや、本当のところ、すごく綺麗だったんだよ。