第十一話、だからぼくらは
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日常が戻ってきた。
本当に戻ってきているのかどうか、それは定かではなかったが、少なくともぼく自身はそう思っていた。けれど、厄介事はいつだって予期せぬ形でやってきて、唐突に平穏無事な日常を侵食するのだ。あらかじめ対策を練ることなんざ、絶対にできない。そもそも対策できる時点で、それは大した試練じゃあない。地震みたいなものだ。ぐらぐら揺れてから慌てふためく。心構えなんてしている暇はない。
ぼくは、そういう不可抗力を恐れた。回避できない不運を呪った。というのも、悪意ってやつは、いつだってそんなふうにやってくる不条理そのものだからだ。
悪意だ。
気持ち悪くて、ぬらぬらしていて、粘着質で、息が詰まるほどの存在感を持っている。
そいつが、ぼくを苦しめるのだ。いや、ぼくだけじゃない、あらゆる人間を苦しめている。それはきっと世界が終わるまで続く。人間が人間の形をしている限り、延々と続く。遺伝子構造に組み込まれているのだから仕方がない。デオキシリボ核酸の、おそらく一番大事な、王座のある領域に、びっしりと汚らしいコードで悪意が刻み込まれているのだと思う。そいつは常にバックアップがとられ、厳重にファイアウォールで守られているはずだ。そうでなければ、こんなバグみたいなプログラムを破棄せず後生大事に保存しておく理由がないじゃないか。
きっと必要なのだろう。
人間を人間たらしめる要素のひとつで、これが欠けてしまったら、もうそれは人間ではなくなってしまうのかもしれない。
悪意のない世界。悪意のない社会。悪意のない関係。悪意のないクラス。そこはエデンのようなところだと思うのだけど、だめだ、まったく想像できやしない。想像できないところにぼくらの限界がある。 一方的な悪意の力になすすべがない。
悪意には対抗できない。その手段がない。
本当はあのときに、ぼくは気がついていたのだ。西ヶ原さんが4階の窓から飛び降りようとしたそのときに、彼女の自殺衝動が、単なる疾患や心の病ではないことに。
鮮やかな黒。見るも無残な黒。立体的な不条理を持つ黒。
悪意。
目を逸らした。今も逸らし続けている。けれど、きっと、そいつは、悪意ってやつは、必ず、あるとき、ある瞬間に、狙いすましたかのように、ぼくを襲うだろう。きみを襲うだろう。
ぼくはどうすればいいのだろうか。
言葉を失わせ、身を釘付けにしてしまう人類最大の敵に、果たして、ぼくやきみに何ができるのだろう。
コヨーテが暮らすほの暗い森の穴倉で震える子ウサギのように、ぼくは今もじっと逃走の手段を考えている。
〇
体育祭が終わり、中間考査が近づいていた。
校舎から、まるで潮が引いていくかのように活気が消えていき、生徒たちは徐々に落ち着きを取り戻しているようだった。
ぼくは相変わらず生物部でウミウシの世話をしていた。授業を受け、部室に顔を出し、後輩とUMAについてお喋りに興じて帰宅する日が続いた。
中間考査に備え、部活が1週間停止する直前の週末だった。
「カラオケいかない?」
高尾レミは、人好きのするような笑みを顔に張り付けていた。
ホームルームが終わり、放課後を迎えた廊下は賑やかだった。
「ね、いいじゃん」
普段なら、少し考えて断っていただろう。友人でもなければ、クラスメイトですらない。高尾レミのことなど何も知らないのだ。けれど、その日は少し考えて、彼女の提案を容れることにした。深いワケなんてありはしない。ただ、なんとなくそんな気分だったんだ。西ヶ原さんとの取引に一応の決着がついていたことも、後押しに足る理由だったと思う。
「やったっ。まずどこいく? とりあえずスタバいこ」
校舎を出る頃には、高尾レミはぼくの右腕に絡みつくように身を寄せていた。
無言で腕を払うと、高尾レミは頬を膨らませた。
「なんで振りほどくの? いや?」
「うん。気持ち悪いからさ」
媚びながらもナルシズムが垣間見える尊大な表情が凍りついた。唇がかすかに震え、妙な面持ちを浮かべていたが、ふいに曖昧に笑った。どうしていいかわからないから、とりあえず笑った、という感じだ。
「モトマロくん、ひど過ぎ。ありえないからね、そんなこと言うの」
「ああ、ごめん」
謝ると、すぐに気を取り直したのか、彼女はまた頬を膨らませた。
「今回はゆるす」
ふと猛烈な勢いで馬鹿馬鹿しくなり、いますぐにでも一人で家に帰りたくなったが、事態は意外な展開を迎えた。
「何してんの?」
校門の前で馬鹿げたやりとりを交わしていたぼくらに声をかけたのは、和泉だった。
ぼくは、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった高尾レミを見やり、それから棒のついたアメを咥える和泉を顧みた。
これからどうなるのか考えるのも、誰かに気を遣うのも非常に面倒で、ぼくは肩をすくめた。
「連れ?」
和泉は高尾レミを顎でしゃくり、ぼくにたずねた。
「そうです」
「ふーん」
和泉はじっと、ほとんど睨みつけていると言っていいほど目を細めて、高尾レミを観察しているようだった。
「だれ?」
「高尾さん」
いつだったか、ぼくら三人が階段ですれちがったことから、あとになって高尾レミの名前を伝えたことがあったのだが、この女に数カ月も前の記憶をたどらせるのは酷というものだった。単純で愚かなやつなんだ。興味のあること以外は蚊帳の外。眼中にないというより、存在に気が付かないし、受け付けていない。そういうところは好ましくもあり、ときおり、ぶちのめしたくなるほど苛立たしくもあった。
「前、言いましたよね」
「そうだっけ。覚えてない。それで?」
和泉は続きを促しているようだった。
高尾レミは相変わらず蛙だ。
「――それで?」
「だから、ふたりで何してんの」
「べつに。ただカラオケに行くだけです」
和泉が目を見開く。本当のところ、やっぱりぼくは面倒だった。高尾レミのような自己顕示欲の権化みたいな女と出歩くなんて、考え直してみれば、ほとんど拷問のようなものじゃないか。
「なんで?」
ぼくは肩をすくめる。
「誘われたから」
「……それで、ほいほいついていくんだ」
「まあ、そうですね」
がりっ。音がした。
和泉がアメをかみ砕いたのだ。そうして、ぼくと高尾レミを交互に見比べる。
高尾レミの方も、やはり微動だにしないで、うつむきがちに和泉とぼくを見比べている。さっさとこの場を離れてしまえば、ぼくだってついていくのに、彼女は動こうとしなかった。
だから、しばらく無言が続いた。
「あたしが誘っても、滅多に付き合わないくせに」
やがて和泉が恨めしそうな、いや、ほとんど怒気を孕ませた声で言う。
「だから、なんですか」
「……っ」
和泉は見比べるのをやめて、今度はぼくを睨みつけていた。
面倒だな、とぼくは思う。
思うようにならないことなんて、この世には腐るほどあるじゃないか。すすんで都合を取り計らってくれるお人好しなんて存在しないんだ。期待するだけ無駄だ。たまたま、今日は遊んでみたい気分だっただけで、相手なんて誰だっていい。それが和泉じゃなかっただけで、それだけなんだ。目くじらを立てるようなことじゃあない。ようするにタイミングなんだ。万事が偶然に左右されるんだ。
「もういいですか。これからスタバに行くんですよ」
ぼくはそう言うと、高尾レミを振り返った。
「ほら、行こうぜ」
高尾レミは恐る恐る頷いてから、小さな声で言った。
「あ、でも、や、やっぱり、今日じゃなくても……」
「行きなよ」
和泉が無感動に言う。不自然に表情が削げ落ちた顔だ。
「あんたが誘ったんだろ。だったら行けよ」
「え、えっと……モトマロくん」
決定権をぼくにぶん投げるようにして、高尾レミは上目遣いをしている。じつにいくじのない態度だ。自分で誘っておきながら、選択と責任を他者に迫る、それも無理矢理じゃなく、相手の良心や勇気に任せるといった具合。はっきり言って醜悪だ。
まあ、いいや、とぼくは思う。
「じゃ、さよなら」
ぼくは和泉に別れを告げて、高尾レミを促した。
校門をくぐって、学校と国道をつなぐ並木通りをしばらく歩くと、高尾レミが言った。
「まだ、立ってるよ」
ぼくはいつもの癖で、鞄から煙草を出そうとしていた。が、止めた。いまは連れがいる。
「ねえ、和泉さん。まだあのままこっち見てる」
「ああ、そう」
ぼくは振り返って確かめる気もせず、ただ、ガムを口に放り込んだ。