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自殺少女と陰気なななめ少年  作者: イワブチ
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第十話、喜劇の終幕

          〇



 ときおり、人間がものすごく怖くなるということがあるか? 

 ぼくはある。しょっちゅうってわけじゃない。ときおりだ。だから、べつに心配には及ばない。ただ、人間賛歌とかヒューマニズムとか、絆とか――そういう耳触りの良い言葉が巷で猛威を振るってるとさ、ぼくはたまらなくなるんだよ。

 知ってるか、本気でそれを尊いものだと思ってるやつがいるんだ、この世にはさ。信じられないだろう? しかしね、さらに恐るべきことは、そいつがただのマヌケじゃないってことなんだ。知ってるんだよ、人間がどんな存在かって。それでいてまだ、人間をこの世で最も高貴なものだと、疑義も挟ませないんだ。

 どう思う? 歴史を紐解かなくたっていい。テレビをつけさえ、新聞を開きさえ、その手にあるスマートフォン(どうせ割れているんだろう?)をタッチさえすればいいんだ。誰だって人間が愚かで醜くて乱暴で意地悪でイカレているか、空っぽの頭を使わなくたってわかるはずさ。だって溢れているだろう、そういうニュースがさ。

 恋人に愛を囁いていたその口で、悪魔だって躊躇するようなことを平気で言葉にする。子どもの頭を撫でたその手で、半径数十メートルを吹っ飛ばすミサイルのスイッチを押す。痛みの苦渋を知っているくせに、あえて傷つけようとする。

 いいんだよ、べつに、何をしたってさ。けどね、私たちは尊いんです、何にも代えがたい存在なんですって面が、態度が、主義が表舞台で光を浴びている現状は、やっぱり狂気だよ。狂気が大手を振るって世間を練り歩いているんだよ。気でも違っているのかって話だ、まったくのところ。

 人間が残酷でろくでもない存在だってことは周知の事実だし、そんなことは怖くないんだ。ただ、そういう欺瞞が、人間性を捨象したおためごかしが、自覚的な変貌が、ぼくは、ときおり、たまらなく怖くなるんだよ。

 あんたにはわかると思うんだ。

 そういうときって、あるだろう?



          〇



 その日の秋空はからりと晴れていて、まったくもって体育祭日和というやつだった。

 歓声と熱気は旧校舎裏まで伝わってくる。その場にいると、やる気の押し売りと汗臭さに辟易としてしまうものだけど、こうやって少し離れた場所で喧噪を感じるのは、なかなかいいもんだった。

 ぼくは裏方仕事を一手に引き受けることで、出場種目を免除することに成功していたから、ロンドンスモッグみたいな砂ぼこりの中、トラックを全力疾走する羽目にだけはならなくて済んでいた。だから、こうして空いた時間に旧校舎裏で油を売ってられるってわけだ。


「なぜ手のひらには線があるんだ? いったい何の意味があるんだ、これ」


 ぼくは、一緒に体育祭からいったん距離を置くことにした浅木に声をかけた。

 浅木は持参した爪切りで一生懸命に右足の爪をやっつけている最中だった。

 ぼくらは雑草の生い茂るフェンス際に腰を下ろしていた。


「気になり出してさ。昨日の夜眠れなくなっちゃったよ」

「……また、無駄なことに大脳を働かせているな。いい加減にしないと頭がおかしくなるぞ」

「いいから答えてくれよ。なぜ手に線があるんだ? しかも、なんだか思わせぶりな形をしてやがる。そのせいで手相なんてクソくだらないものが生まれちまってるんだ」

「知らねえな。俺が何でも知ってると思うなよ」

「本当に知らんの?」

「だからそう言ってるだろ」


 浅木はこっちを見もしなかった。


「そうかい。なあ、気づいてるか。おまえが爪を切ってる姿って、見ようによっちゃ、最高にかっこいいぜ」


 浅木は一心不乱だ。一心不乱に右足の小指をメンテナンスしている。皮肉も効力を発揮しない。

 ぼくはこういうとき、話しかけずにはいられないタイプだった。殊に浅木が相手だとなおさらだ。じつは結構な能弁家なんだ、ぼくは。能弁家なんて言葉があるのか知らないが。

 しかし、実際のところ、ぼくは手のひらにどうして線があるのか、ものすごく気になっていた。これは本当のことなんだ。べつに会話の糸口ってわけじゃない。とにかく猛烈にその謎が知りたかったんだ。


「指紋とおんなじで、ひとりひとり形が違うんだよ。長さや傾きがさ。個性だわな、たしかに面白い。しかし、そもそもなぜ線があるんだよ。真っ平じゃなぜだめなんだ? ものを握るためか? 汗腺のためか? くそっ、全然わからない」

「俺はおまえがわからんよ。そんなことどうだっていいだろうが」

「どうだっていいけどさ――おい、浅木、知ってるか? おまえが爪を研いでる姿、マジで面白いぜ。絵なんかにしたら、市の美術館が奥まったところに飾ってくれるんじゃないかな。タイトルは、そうだな――爪を切る午後、なんてどうかな。いや、だいぶダサいな」


 ぼくは煙草を取り出した。

 浅木にも勧めたが、断られた。毎度のやり取りだ。浅木が煙草を吸うのは雨の日か、おそろしく脂っこいものを食べたあと、そして、この世で最も素敵なことに類する出来事があったときだけだった。ぼくはわずかに躊躇して、それから煙草をしまった。

 断続的に聞こえていた校内放送で、浅木の名前が呼ばれた。


「なんだおまえ。千メートルなんかに出るのかよ」

「立候補したんだ。俺は俺がどれくらい走れるのか知りたいんだよ」

「それこそ、どうだっていいだろう。足をケガしてからじゃ遅いぜ。普段走ってないだろ」

「まあな。じゃ、俺は行く」


 浅木はケツについた雑草を払うと、急くでもなく、のらりくらりとロンドンスモックの中へと歩いていった。

 ただ一人の友人に置き去りにされたぼくはというと、ペットボトルのコーラを飲みながらフェンスの遥か向こうのいわし雲を見上げていた。空が高く、空気は澄んで、わりと気持ちのいい日だった。

ふと物音がした。

 ぼくはおもむろに音のした方へ顔を向ける。

 次の瞬間、ぼくは西ヶ原さんが本日学校へ復帰したことと、あるメールを受け取ったことを思い出した。


 西ヶ原さんが学校へ戻ってきたという鮮烈なニュースは、かなり離れたぼくのクラスはもとより、学校中に、それこそ一斉送信されたかのように広まった。

 朝のホームルームが終わると、これから体育祭が始まるというのに、教室内では猫も杓子も彼女のことを話題にして、大変な騒ぎだった。もちろん、みな面白おかしく手前勝手な脚色を加えて楽しんでいるようだった。まあ、学校一のマドンナというのだから、是非もないって話だ。

 ぼくは西ヶ原さんがその日登校するってことを、あらかじめ知っていた。というのも、彼女から前日の夜に連絡を受けていたのだ。

 夜中の十一時、西ヶ原さんはこんなメールを送ってきた。


「こんばんは。

 夜分遅くにごめんなさい。

 突然ですが、お医者様の許可が出たので、明日、登校するつもりです。

 体育祭の日に重なるなんてびっくりですが、三田先生にもぜひと言われましたので。

 つきましては、明日、ほんの少しでいいので、お時間をいただけませんか? お話したいことがあるのです。

 野方くんは忙しいでしょうか? なんの種目に出場する予定ですか?

 お返事は、明日の朝で結構ですので、よろしくお願いします」


 むろん、ぼくは無視した。

 話したいことってのは、大方、自殺衝動に関する近況だろう。そんなもの、体育祭の日に辛気臭い顔を突き合わせて話すべきことじゃあない。彼女には抜き差しならぬことかもしれないが、ぼくとしては全然乗り気になるような代物じゃないんだ。日を改めるべきだ。彼女の事情だけで世間は動いていないし、ぼくも動いていない。

 ともかく、そういうワケで、ぼくは西ヶ原さんが学校にやって来たからといって、べつに何の感慨もなかった。もっとも、あらかじめ知らなかったとしても同じだろう。ひとつ気になるのは、彼女は入院中に例の衝動に襲われなかったのかどうかってことだ。まあ、生きてるってことは、つまりそういうことなんだろう。よかったじゃないか。


 ぼくは物音がした方向――いま、余計なことを思い出した元凶に視線を送った。


「野方くん」


 旧校舎の非常階段、その脇にある、大きなクスノキの下に、西ヶ原さんは佇んでいた。彼女の頭でゆらゆらと木漏れ日が揺れている。

 西ヶ原さんは、おそるおそるといった様子で雑草を踏みしめはじめた。そうして、座り込み、すでに膝の間に頭を落とし込んでいるぼくの前へ立った。


「さっき、ここへ来る姿が見えたから、悪いと思ったんだけど来ちゃいました」


 ぼくは顔を上げず、彼女の真っ白い外履きのシューズを見ていた。


「野方くん、あの、メール見てくれたかな……話があるんだけど、いま、ダメかな……?」


 白いシューズの縁はわずかに砂や土で汚れていた。


「どうしたの? 大丈夫、野方くん」


 ぼくは、このまま無視し続けるのもいいかもしれないと思った。ただ、その場合、この一方的な会話が次回に持ち越されることになる。大して時間のないいまの小休止を使った方が効率的だと考えを改めて、ぼくはようやく顔を上げた。


「大丈夫。で、話ってなに?」

「あ、うん」


 西ヶ原さんは体育着ではなく、夏期用の制服を着ていた。どうやら本日は見学らしい。ギプスやら包帯やらは取っ払われていた。


「野方くんは何に出るの?」

「それが話したいこと?」

「あ、いや、違うけど」


 慌てたように両手を振って、西ヶ原さんはふいに形容しがたい奇妙な表情を浮かべた。たまに見かける類の顔だ。


「相談なんだけど、ね。あの、ことなんだけど」


 困ったように眉を寄せて、しかしながら口では薄ら笑いを隠しきれていない。繕い、本質を隠したような道化の笑み。見ちゃいられない。ぼくは、そういう顔が大嫌いだった。へらへらするなよ、そう言いたかった。


「もう大丈夫かなって。これ以上、野方くんに迷惑はかけられないから」


 おや? 


「入院中もとくに問題なかったんだよ。なんだか、おさまったのかもしれないの」


 予想外の展開だが、どうだろう、本当だろうか。

 いや、そもそもぼくは何を予想していたというのだろう。


「だから、もう大丈夫だって、そう思うの。どうかな?」


 あるいは本当かもしれない。

 西ヶ原さんは、これ以上自殺しようとしない。それは取引の終了を意味している。

 それは自由。ぼくの生活にずっとつきまとっていた煩わしさからの解放。外出時に鍵を閉め忘れていないかどうか気になって仕方ないような、常に生活に引っかかっていたあの不快感からの脱出。


「なにが?」


 ぼくは訊ねた。何が、どうかな、なのか。


「あ、うん」


 西ヶ原さんは、やっぱり気味の悪い笑みを浮かべたまま、小さく頷いた。


「だからね、えっと……」


 唇が震えていて、目は泳いでいる。なのに、どこかはにかむような面持ち。

 関係がない。ぼくは、彼女が嘘をついていることに気が付いたが、そんなことは関係がなかった。関係は相互的なもので、関係だと一方的に思い込むのは執着だ。


「取引は無効になったということでいいんだな」

「……え」

「だって、そういうことだろう」

「う、うん」


 ぼくはケツに着いた雑草を取っ払って立ち上がる。


「じゃあ携帯を出してくれないか」


 ぼくが言うと、彼女はようやく別の表情を浮かべた。怪訝というやつだ。


「どうして?」

「消すんだよ。ぼくが煙草を吸っていた証拠だ」

「……あ」

「なんだよ」


 西ヶ原さんはじっとぼくを見つめていた目を伏せて口ごもった。

 重要な局面かもしれない。だから、ぼくは辛抱強く待つことにしたのだが、意外にもあっけなく答えは返ってきた。


「……ごめんね、野方くん。あの写真はもうないの」


 黙っている。意味が分からなかったから、疑問を挟む余地もなかったってわけだ。


「はじめからないの。あのとき屋上で、野方くんと約束をして、それからすぐに消したから」


 意味は分かった。だけど謎は深まるばかりだし、信用するにはその謎を解く必要があった。ようするにこいつが嘘をついているのだと思った。


「そうか。それはうれしいね。とりあえず中身を見せろよ」

「だから消したの。もうないんだよ?」

「それを確かめたい」

「う、うん」


 本当だった。本当に彼女の携帯端末には、あのときの、あの阿呆面を浮かべて煙草を吸っているマヌケの姿はきれいさっぱりなくなっていた。


「なんで消した」


 もちろん、データをどこか別に保存している可能性はあり得る。普通は疑うだろう。けれど、奇妙なことにそれはないとぼくは確信していた。そんな些末なことよりも、いまは彼女の動機が知りたかった。


「……ごめんなさい」

「べつに謝らなくたっていい。なぜ消したか知りたい」


 西ヶ原さんは、さきほどのむかつく表情とは打って変わって、ひどく申し訳なさそうに狼狽えた顔になった。


「私、そういう取引みたいなの嫌だったの……」

「どういうこと」

「だって、卑怯だと思ったから。それに全然見合わないように感じたの」

「煙草とあんたの自殺衝動が」

「そう。でもね、やっぱり罪悪感は消えなかったよ。野方くんに、悪いなって、私、すごく卑怯だなって」


 なるほど。ではぼくは、人質のいない誘拐事件で身代金を払った、とんだお笑いものってことになる。いや、もうすこし喜劇的だ。なにしろ誘拐事件の被害者にはほとんどの場合存在しない非ってやつが、少なくともぼくにはあったのだから。

 可笑しくて、ぼくはすこし笑った。


「ごめんなさい」


 彼女は頭を下げた。


「いけよ」

「え……」

「もう、いいから。いけよ」


 もう、いいから。心底そんな気分だった、だいだい事情は呑みこめたんだ。

 ただ、期待は裏切らなければならない。謎の正体は彼女の裏腹だ。結局、否定したところで、卑怯なやつにほかならない。期待しているのだ、ありもしない、ぼくの良心に。だから、こっちはこっちで得心しながら残酷な回答を与えてやる。そんなもの知るか、ってね。


「で、でも――」

「ぼくはべつに良いやつじゃないからな。何を考えているのか知らないけど――ちがうな、何を考えているのかわかるから言うけど、縛るものがない限り、ぼくは何もしない、できない」


 みるみるうちに彼女は絶望していく。勝手なやつだ。


「これで、あんたとの関係が終わった。疲れるんだよ、神経がさ。もういいだろ、はやくいけよ」

「……」

「いや、いい。ぼくがいく」


 秋空は依然として突き抜けるような青色で、ロンドンスモッグは濛々、生徒たちの歓声は耳を劈くばかりで、そして、ぼくは気分が良かった。


「……野方くん」


 病室のときみたいに、ずっとうしろの方で小さな嘆きが聞こえた。


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