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自殺少女と陰気なななめ少年  作者: イワブチ
1/12

第一話、ぼくと西ヶ原さん


 その日は曇天だった。鈍色の空からはいまにも雨が降ってきそうで、蒸し暑く、気が滅入りそうだった。


 ぼくは両手にゴミ袋を提げて、旧校舎の脇までやってきていた。

 ゴミ集積所にはハエがたかっていた。陰気で臭くておまけに空気がこもって他より暑い、最悪の場所だった。無造作にゴミ袋を投げ捨てると、ぼくはさっさとその場を離れた。


 旧校舎の裏手は崖になっていて、シケた町と蛇行する川、その向こうの山が見渡せた。ぼくは崖の手前の柵に背中をあずけると、ズボンのポケットから煙草を取り出して火をつけた。

 校内で一服できる場所を数か所知っていたが、なかでもここはかなり気に入っていた。教員はおろか他の生徒や用務員などに見つかるおそれがきわめて低かったのだ。だから落ち着いて頭を空っぽにできた。何も考えず、ただぼおっと虚空を見つめることができた。耳を煩わせる喧しいおしゃべりを置き去りにできた。とにかく静かな場所だった。


 ぼくはきょう一日の疲れを肺から紫煙とともに、曇り空へと吐き出した。立ち上った煙草の煙は、上空一メートルも過ぎれば大気へ溶け込んで見えなくなる。しばらく真上に煙を吐いてはその行方を目で追っていた。


 ふと視線の端で何かを捉えた。それが具体的にどんなものであるのか把握する前に、ぼくはくわえていた煙草を吐き出して、すかさず火を消した。見咎められるのは避けたかった。というのも停学も退学もご免こうむりたかったからだ。人並みに卒業式の日を迎えるつもり満々で、ワルでも不良でも落ちこぼれでもないつもりだったんだ。


 旧校舎の屋上。四階の上、そこに誰か生徒がつっ立っていた。

 迷惑な奴だ。なんのつもりだろう。見られただろうか?

 ぼくは舌打ちすると、仰ぐようにして屋上を凝視した。


 女生徒だった。

 ここよりも空に近いその場所で、長い黒髪が風に吹かれて揺れていた。

 表情まではわからないが、どこか遠くを見ているような気がした。

 ぼくは、たぶん煙草を吸っているところを目撃されたわけではなかろうと思った。なんとなくそれどころではないような雰囲気が、十メートル上の彼女からは漂ってきていたのだ。


 旧校舎の屋上には防護用の柵はない。だからそいつは、いまにも落ちそうなすれすれに立っていた。そうとくれば、猿でも分かるだろう。彼女はそこから飛び降りるつもりらしい。

 この高さだと頭から落ちれば、あるいはそのままあの世行きだろうが、足からだと目も当てられない。惨めな将来が約束されること間違いなし、おそらく一生後悔する羽目になるだろう。助走をつければ柵を越えて崖下まで落ちるが、下は雑木林だからこれも散々な目に遭うにちがいなかった。体は傷だらけ、手足は変な方向に曲がって、衝撃で歯の数本、目の一つ、爪の数枚を失うかもしれない。つまり、想像を絶するような苦痛を味わうことになる。発見されるのが遅れれば遅れるほど、その後に訪れる苦難は推して知れるだろう。ようするにまあ、そんなところから飛び降りず、確実性を求めるなら高層マンションやビルを探せということだった。


 ぼくは以上のようなことを考えながら、ぼおっと彼女を眺めていた。

 止めようなんて気はあまりなかった。そんな自分の行動理念、倫理感、好奇心がおぞましく、われながら不気味だった。

 心のずっと奥の方では、うるさいくらいに警鐘が鳴っている。

――止めろ! まともな人間ならそうするぞ! 思いとどまらせるんだ!

 そんな声がぼくの内部でぐるぐる渦巻いていたのだ。

 けれど、こんな非日常的な瞬間、――それもいっさいぼくの手を煩わせることなく偶発的に訪れた非日常を、そうやすやすと手放す気にはなれなかった。きっとこんな経験は二度とないだろう。


 いくばくかの逡巡と束の間の静止。

 白状すれば、やっぱりぼくは助けようという気はなかったのだ。悪魔のような好奇心にそそのかされたようだ。

 しかし、事態は偶然を装って必然的に動いた。

 次の瞬間、ぼくらの視線は合致した。

 十メートルの距離をものともせず、火花が散りそうなくらいぼくらは見つめあっていた。

 そして、わずかな沈黙を経て、そいつは、その自殺目前の女生徒は口を開いた。


「助けて」


 そう聞こえた。


――助けて。


 彼女はそう言ったのだ。地上と屋上という生死を分かつ距離を超えて、確かに彼女はそう言ったのだ。

 ぼくは、バカかコイツ、と思った。

 冗談じゃない。そんな阿呆な話があってたまるか。

 おまえが立っている場所はどこだ? 行く先は? 結末は? 何を言っているんだ。

 にわかに興が削がれた気分だった。ぼくはくだらなくなって、その場をあとにするつもりだった。


「待って、お願い」


 ふたたび見上げると、彼女のスカートがひらひら揺れていた。


「タバコ吸ってたこと、黙っててほしいでしょ」


 そいつは、もうほとんど泣いていたけれど目元で笑いながら、そんな脅迫じみたことを言ってのけた。



 高校二年の初夏の頃の話だ。



          〇



 じっさいのところ、ぼくは思わせぶりな態度とか、悲劇の主を装って庇護を求めるような輩がこの上なく嫌いだった。それは、この世でもっとも愚かなことのひとつだと思っていた。語弊なんか気にせず言うが、それは女に多かった。騒ぐほどのことじゃあない。見てればわかる。だからぼくは女があまり好きじゃなかった。きっと女だってぼくのことは好きじゃないだろう。まあ、かといって、男が好きなわけでもないが。


 まったくいまいましいったらありゃしない。屋上へ続く扉を開けて、ぼくは毒づいた。

 しかし、ぼくは知っていた。自殺は生半可な覚悟でできるもんじゃないこと、重々承知だった。おそらくこの目の前で体育座りを決め込んでる女生徒も必死だったんだろう。文字通り、死ぬ覚悟だったんだ。


「こんにちは」


 そこへぼくが現れた。

 なんて間の悪さだろう。


「……うん」


 女生徒はぼくの挨拶に顔をあげると小さく頷いた。


「あの、何か勘違いをしているようですがぼくは煙草なんて吸っていませんよ」

「……うそ。右のポケットに入ってる」


 ぼくは愛想笑いを浮かべた。図星だった。


「いやいや、入ってませんよ。何の証拠があってそんなことを」

「見ていたの、ずっと。ここから」

「見ていたって……ええと、あなたはなんでここに?」


 話をそらすつもりでぼくは訊ねた。

 彼女は何も答えず、そのうえ両ひざの間に頭をうずめていた。

 ぼくはしゃがみこんで、スカートの中を覗き込もうとしたが、しっかりと両手で守っているようだった。

 ついさきほど死のうとしていた人間に羞恥の念があるのだろうか。それともただの慣習的な行為なのか。どうでもよかったが、パンツは見たかった。


「一応言っておきますが、煙草なんて吸っていませんよ。それじゃあ」


 バカらしくなったぼくは、しばらく待ったのち、そう言って背を向けた。


「私、西ヶ原(にしがはら)っていうの」


 それで?


「先生には黙っててあげるから……お願い」


 ぼくは振り返った。

 彼女は――西ヶ原さんは泣いていた。

 泣きながら、ふたたび「助けて」と言った。


「助けるも何も、あなたがいったい何を言っているのか――」

「本当はっ、死にたくなんて、ないのに……」


 嗚咽の中から漏れだした絶望的なつぶやきが聞こえた。


「でもっ、死ななくちゃダメなんだって……そんなふうにっ……」

「いや、ですからね。いったい何の話を……」


 ぼくは途中で口をつぐんだ。いまは意思疎通が不可能だと悟ったからだ。

 西ヶ原さんはそれからしばらくのあいだ、さめざめと泣いていた。

 女生徒が泣いている姿を見物しているほどぼくは暇ではない。けれど、毅然とした態度でここを離れるには、ぼくは小心翼々すぎた。余計な不安の種は摘んでおくことに越したことはないのだ。


 どれくらい経っただろうか。

 遠くの野球場から暑苦しい坊主頭どもの掛け声がかすかに聞こえてくる。あとは風が鳴っているだけだ。

 西ヶ原さんはようやく泣き止んだ。

 ぼくは相手に慙愧の念を起こさせるようなおおげさなため息を吐いてやった。


「ごめんなさい……でも、これ見て」


 西ヶ原さんはスマートフォンを操作するとぼくの方へ掲げた。

 よく見えない。二歩、彼女へ近づくとディスプレイを覗き込んでぼくは顔をしかめた。

 そこには、アホ面さげてぷかぷかと煙草を吹かすぼくの姿が写っていた。屋上から撮られたからか少し距離があったが、言い逃れできないくらいにはぼくだと判別できた。


「……」


 くそっ、なんてザマだ。ばっちり撮られてやがる! 

 ぼくはディスプレイを睨みつけた。妙に芸術的に撮られているのが余計に腹立たしかった。いや、そんなことより、この女には誰だから知らない生徒の秘密を盗撮する必要があったのだろうか。ましてや死のうとする直前に! 理解不能だ。

 焦りと苛立ちのなかで、ぼくはさっき帰らなくて正解だった、と思った。本当に密告されていたかもしれない。


「で、なにが目的だよ」


 ふいに乱暴な口調になったからか、西ヶ原さんはわずかに目を見開いていた。

 ぼくはかまわず続ける。


「ふざけやがって……死ぬつもりがないなら変なことするなよ。なんなんだよあんた」


 西ヶ原さんは涙でぐちゃぐちゃになった顔を悲愴的に歪めた。


「……さっきまでは本当に死ぬつもりだったの」

「うそだね。みんなそう言うんだよ、未遂者はさ」

「私、死にたくなんかないの!」

「はあ?」


 意味が分からなかった。


「時々、どうしようもなく死にたくなるときがあるの。昔は―――ちょっと前までは、そんなの無視できたんだけど、近頃はなんていうか強迫観念みたいに、どうしようもなく死にたくなっちゃうの、死なないとって」


 西ヶ原さんはそこで一度言葉を区切った。顔色は悪く、切実な様子だった。


「私、怖いの……心の底から生きていたいと思っているのに、いつかやってしまうんじゃないかって。いまさっきだって危なかった。だからね――」

「病院に――そうだな、頭か心の病院に行くことをお勧めするよ」

「っ! だめっ、絶対にだめ。だからこうして頼んでいるのっ」

「はあ? わからないなあ。なんで? だって病院に行けばきみのその頭の病気も治るかもしれないだろう」

「……私にはわかるの。これは病院じゃどうしようもないの」

「どういうこと? ぼくからみたら、それはどう考えても精神的な病だけど。なんの根拠があるんだよ」

「これはそういうものだから。もう終わっちゃってるから」

「ええ?」


 ダメだコイツ、そう思った。たぶん、何を言っても聞き入れる気はないのだろう。固定観念に支配されている様子がありあり見て取れる。なんだ、終わっちゃってるってのは。終わってるのはお前の頭だよ。

 しだいに苛々してきたぼくは、話を戻すことにした。


「くそっ、もういいよ。で、取引の内容は?」

「……え?」

「黙っててくれるんだろう? ぼくは何をすればいいんだよ。早く話せ」

「あっ、うん」


 西ヶ原さんはしゃくりあげると、上目遣いでぼくを見た。

 いまさら気が付いたが、自殺未遂者、西ヶ原さんは美人だった。涙で顔は酷いことになっていたし、風で長い黒髪もヘンテコなことになっていたけれど、それでも綺麗だった。ぼくはわずかに感心した。


「止めてほしいの。さっきみたいなときに、えっと、あなたに――」

野方(のがた)だ」

「えっ、あ。野方くんに止めて欲しいの。こんなこと誰にも相談できなかったから……」


 ぼくはふたたびおおげさなため息を吐いた。


「つまり、あんたに自殺衝動が起こったら、飛び降りでも首つりでも入水でも練炭でも切腹でもなんでもいいけど、そういう最終的なことになる前に、ぼくに阻止して欲しいと、そういうこと?」

「……うん」


 ぼくはメラメラと湧き上がりそうになる怒りを抑えて尋ねた。


「期間は? いつまでだ」

「卒業まで」


 ぼくは天を仰いだ。

 約二年間である。信じられるか? 

 七百日もの間、いつなんどき、実際に死ぬかもわからない奴の戯言に付き合って、限りある貴重な時間を無駄にしろと言うのか。考えられなかった。断固拒否を突き付けてしかるべきだった。

 しかしぼくは一度冷静になって心中で天秤を用意する。


「ちなみに、頻度は? どれくらいのペースでそれは起こるんだ」

「ええっと……たぶんひと月に一度くらい。でもね、来ないときは全然来ないし、多いときは月に二、三回来ることもあるの」


 煙草がバレた場合、希望的観測で反省文と奉仕活動。定石通りなら数週間の停学だろう。悪ければ退学もあり得る。

 安易にリスクは負いたくなかった。内申に不可逆的な傷がつく。重ねて言うようだが、ぼくは不良ではない。失うものはじつはそんなに多くはないが、得るべきもの、得たいものがたくさんあった。

 おのずと天秤は傾いた。


「わかったよ、くそが」

「……ごめんなさい。ありがとう、本当に」


 西ヶ原さんは立ち上がると頭を下げた。

 ぼくは舌打ちをする。

 なんでこんなことになったんだ。いったいどういう星の下に生まれたんだぼくは。

 けれど、そんな嘆きはクソの役にも立たなかった。ゴミ以下だ。もとはと言えば、周囲の確認を怠っていたぼくの慢心が一番の原因なのだから。


「あんたの家のベッドかなにかに体を縛り付けておけば、死にたくっても死ねないのにな。そういうわけにもいかないか。とりあえず自殺衝動があまり起こらないことを祈るよ」


 ぼくは諦めの境地から捨て鉢気味にそう言った。


「ちゃんとお礼はするからっ。これからよろしくお願いします」


 西ヶ原さんはこぼれた涙を拭って無理矢理に微笑んだ。



 こうしてぼくらは奇妙な取引を結んだのだった。


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