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PHASE.1

 世間では極悪な真夏日から台風シーズンに移る、ちょうどその手前頃だ。

「うーん…ううーん…」

 息が詰まるような猛暑。ひとり部屋で僕は、瀕死の息を吐いていた。この時期に、まさかの風邪である。それもかなり悪質な。しかも見舞いに来なくていいよ伝染(うつ)るから、と言ったら、依田ちゃん以下、本当に誰一人見舞いに来ない。夜半、人望と言う言葉が痛む頭に、しみじみと浮かんだ。

(これで孤独死したら、どんなことになるんだろう…?)

 急に心細くなる。夏風邪で死ぬとはまさか思わないけど、一人で病気と戦って(うめ)いているのほど、寂しいことってないと思う。今は顔が、顔だけがひたすら熱い。今なら蒸し器の中のシュウマイの気持ちが分かる。まーだ熱が下がらない。

 こんなときに限って、九王沢さんは帰国中だ。

「那智さんっ、わたしすぐ!本当に、本当にすぐ帰って来ますから!」

 予定は一週間である。貴重な親子水入らずらしい。依田ちゃんによると、九王沢一家全員が揃うのは五年に一度のことのようだ。これは外せない帰国である。出発ロビーでは、まるで今生の別れみたいに九王沢さんに泣かれた。

「…あのっ、那智さんさえ良ければ、今からでも座席を確保させます…もし良かったら那智さんも一緒に来ませんか…?」

「あの、本当にいいよ僕は今度で。せっかくの機会だから、気にしないで」

 僕は必死で断った。

 すでに九王沢さんの両親に存在を認識されている僕だが、いまだにご両親に会うには心の準備がいる。

 秋に奥久慈であった涼花の六園家のその後の報告も、お父さんにしなきゃいけないようだし、一族の間でしか出来ない話もあるだろうと思ったのだ。


 そしてあの子がロンドンに帰った翌日、僕は倒れたのだ。思えば羽田で九王沢さんを見送ってから調子に乗って、文芸部の皆と飲み歩きの旅に出たのがまずかった。依田ちゃんはさすがに呆れて二次で帰ったが、三次、四次、五次会は嫌がる後輩の家に押しかけてまで続き、頭痛はそのまま風邪に移行した。こんなことってあるのだ。

 九王沢さんと離れた途端、僕は全ての運に見放されたかに見えた。いやまあ、自業自得じゃないかって言われれば、そうなんだけどね。依田ちゃんに呆れられ、巻き込んだ後輩にも吐かれ、泣かれ、挙句の果てに風邪を惹いた僕に、なんの弁解もする余地もなかった。ただ、弁解する人すらいないと言うこの状況もうら寂しい。

 九王沢さんさえいてくれたなら。あっ、いやいや九王沢さんにこんな姿見せられるか。あの子が実家に帰ってて、本当に良かった。いくら天使な九王沢さんだって、今の僕をみたらさすがに呆れると思う。昨夜は電話がなかったけど、今晩までには、たぶん電話があるはず。そのときはちゃんと、何でもないふりしなくちゃ。

 しかしこの、自由に身動きできない状況って(こた)える。僕の部屋など、ベッドに布団敷きっぱ、万年床のワンルームなんだけど、この熱でトイレに這い出すほどの気力もない。

 さっきあまりにテレビが退屈で有り合わせの映画観ようとストックを漁ったけど、頭を持ち上げると警報装置でも作動したように、びりびり全身に痛みが走り、何にも考える気力もなくなった。こめかみイタイ、関節もイタイ。満身創痍の僕は、結局DVDをセットすることなく、ベッドに逆戻りしたのだ。

(辛い…)

 ただ独り、何を考える気力もなく目を閉じて寝っ転がってるしかないって辛すぎる。文庫本どころか、漫画一冊読めないのだ。ああ、恥ずかしいけど、このまま死んだら本当の孤独死だな、なんて大げさにネガティヴなことも考えたりしてしまう。

 また、だらだら汗も掻いてきた。あわててエアコンを全開にしたら、今度は寒気が止まらない。もう暑いんだか、寒いんだか。熱がひどくて考えたくもない。どうしたらいいのか判らず、朦朧(もうろう)としてしまう。うめき声を上げながら、何度目めかの悪夢から醒めかけたときだ。

「…さん、…那智さんっ!」

 ああついに、九王沢さんの夢まで見るようになった。ロンドンへ帰ったはずのあの子の声が聞こえてくる。あれ、そう思って薄目を開けると。

(近いな…)

 魅惑の九王沢さんの顔が、やたらと僕の間近にあるのである。そんな馬鹿な。

「大丈夫ですか…すっごい熱ですようっ!?」

 ひんやりとした手のひらが、僕のおでこに当てられた。この感触。あれっ、本物?

「く、九王沢さん!?ロンドンに行ったんじゃなかったの!?」

「だっ、だめじゃないですか。安静にしてないと」

 がばっと僕が起き上がろうとすると、九王沢さんはそれをやんわりと押しとどめる。だがこっちは混乱の極地である。

「えっ…だって一昨日、羽田から…お父さんとお母さんのとこに帰ったんじゃないの?」

「(顔を背ける)…なっ、なんのことでせう…?あっ、あのすいません!ちょっと、お電話を!」

 九王沢さんはスマホを持って、ばたばたと洗面所に立て籠った。のそのそと起き上がって聞き耳を立ててみると、すぐ事情が分かった。

 ①全予定をキャンセルして帰ってきた、②どんな手段を使ったのかは知らないが、捕まる飛行機を乗り継いで全速力で帰って来た、③突如行方不明になった娘に九王沢さんのお母さんから、鬼のような着信が来ている、押し寄せる諸問題を九王沢さんは全力でもみ消していた。そしてもちろん今、僕の家にいることは、トップシークレットである。

「ふーっ…とりあえず、これで問題ありませんね…」

 出てきた九王沢さんはその豊かすぎる胸にスマホを抱きしめて、ほっと独り言。なんのこっちゃ。

「何が問題ないの?」

「いっ、いえ!何でも!本当に何でもないんですよう!」

 最強スイッチの扇風機みたいに、ぶんぶんと首を振る九王沢さん。後ろ手でスマホの電源をさりげなーくオフにしているのが、今、分かってしまった。

「ただの風邪なんだから、そんなに全力で帰って来なくたっていいのに…」

「なっ!なんと言う無用心な!那智さん!ただの風邪なんて医学上、ありえないんですよ!?わたしがいない間、那智さんに何かがあったら、どうするんですかっ!?」

「…心配かけて悪かったよ」

 僕がやっと言ったとき、じんわり九王沢さんの魅惑の瞳からにじむ涙。泣かれた。顔を胸に埋められて、本当に泣かれた。このとき心底、自責の念がこみ上げて来て、僕はやりきれなくなった。まったく馬鹿なことをしたもんだ。

「もしこのまま、えぐっ…死んじゃってたら…わたし、二度と那智さんに…ひくっ、会えないところだったんですよ…?」

「う、うん…」

 僕は何か居たたまれなくなった。こんなに自分を心配してくれる人がいるのに、はしご酒で夏風邪惹いてたなんて。そんな馬鹿な話があるか。真相はさすがに話せないけど、僕は心の底から反省した。ごめんなさい。本当にごめんなさい。

「身体、冷たいです。…何かちゃんと、栄養があるもの食べてましたか?」

 九王沢さんは、うるうる上目づかいで聞いてくる。

「う、うん。まあ、インスタントの梅干しのお(かゆ)を…」

「だめですよう、そんな安易な!…ちゃんとしたご飯、食べないと元気になれませんよ!?」

 いそいそと、九王沢さんは自分の荷物を置くと、買い物の支度をした。えっ、まさか九王沢さん、お料理作ってくれるの?

「少し、待っていてください。ちゃんとお腹に優しくて、栄養のあるもの、作ってあげますから…」

「ええっ、いいよう…」

 とは言えなかった。だって彼女が腕をふるってくれると言って、それを拒む彼氏はいない。だが相手は、アヴァンギャルドな九王沢さんの手料理である。深酒と風邪で弱り切った僕の胃腸と感性が、あの前衛感覚にどこまでついてこれるのか。心配だ。

「買い物に行ってきます。その間、あったかくしてよく眠って下さいね?」

「い、いやちょっと」

 心の準備が。しかしさっさと、九王沢さんはいなくなった。嬉しいんだけど問題は本当に、本当に大丈夫なんだと言うことである。


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