1.世界の果ての泉
「乞食だ!」 「いいや、あれは魔女だ」
「気味悪い」 「喰われるよ」 「恐ろしい」
「子供たち、近寄るんじゃないよ」
荒れ果てた森に、女が一人。
ぼろ布に身を包み、はだしの足は重い。
手にはふるいをひとつ持ち、彼女は“世界の果ての泉”を探した。
*
「プシィ。お前は“世界の果ての泉”へ行ってくるんだ」
彼女が客をとれなくなって、一ヵ月が過ぎたころ。
継母の馬鹿げた言葉に、彼女は幼いころ読んだおとぎ話を夢想する。
その泉の水をふるいですくい飲めば、どんな病もたちまち回復するという、幻の泉。
継母の連れ子二人がゲラゲラと笑う。
魔女も、魔法も少なくなったこのご時世だ。
そんな場所などもう存在しないことなど、よく分かっている。
「ほらよ、プシィ」
起きあがるのも億劫なほど痛む身体に、連れ子のひとりが錆びたふるいを投げつける。
父はまた、奥の部屋で売れもしない本を書いているのだろう。
一時期流行った詩集も、今では過去の栄光だ。
病持ちで過去にすがる父を、愚かだと思うのに、どうしても見放せなかった。
しかし父は、そんな彼女を見放すのだ。
奥の部屋から、人が動く気配はない。
「てめぇの顔を見てると吐き気がするんだよ、さっさと行ってこい」
声を出すのも苦しいのに、連れ子の言葉がおかしくて、彼女は嗤った。
「あなただって……私とおなじ病気かも、しれないのに」
「なっ……」
「ドーウェン! あんたまさかッ、プシィを」
「あら、おふたりとも……知らなかったなんて、滑稽ね。はじめから、病気になる前まで、一番の“お客様”だったのに」
肺が苦しい。身体が、焼けるように熱い。
浅い呼吸の中で、彼女の言葉はとまらない。
髪にかくれた右顔が、じわりとうずいた。
「てめぇ! き、気でも狂いやがったか!」
「そうよ! 母さん、こんなキチガイ、はやく追い出そうよ!」
「そ、そうだね……ほら、プシィ、ふるいを忘れるんじゃ……ひッ!」
乱暴に髪をつかまれると、隠れていた右顔があらわになる。
かつて村一番だと謳われた、母親似の美しい顔は、その半分がもはや人の形を成していない。
いくつもの赤黒い瘤に覆われ、腫れた右目はもう開かなくなっていた。
「さあ、出ていきな!」
「世界の果ての泉を見つけるまで、戻ってくるんじゃないよ!」
きっともう、自分は死んでしまうのだろう。
歩き出した足は死者のように重く、小枝のように細かった。
*
幾日かたったころ、それでも彼女は生きていた。
村を出て、山を越え、北風の中、あてどなくさまよって。
道ですれ違った人々は、彼女の異形のさまを見ては、恐怖の声をあげて逃げ去った。
その声が嫌いだった彼女は、いつしか森の奥へと足を進めていた。
「かあさま……」
夜のうちも、彼女は歩みを止めなかった。
野犬に襲われて死ねばそれまで。
自分の生き死にさえどうでもいいのに、進むことは止められない。
いや、死に場所を探しているのかもしれない。
そう考えたまさにその時、道なき道は大きく広がった。
「泉……」
吸い寄せられるように、彼女の足は止まらない。
月の光を反射してゆらゆらと揺れる泉は、おとぎ話のそれと変わらなかった。
ざぶざぶと水の中へうもれてゆく。
――ここで、死のう。
肩まで水に浸かって、足の力がぬけてゆく。
まるでここへ来るためだけに、生きながらえていた彼女の身体が、泉のなかでふわりと浮きあがった。
『誰だ。わたしの泉に穢れを持ち込んだのは』
力のない足に、水よりも冷たい、なにかが巻きついてゆく。
心臓に直接ふれるような、ひくい声。
開かなかったはずの右目が、どうしてだか簡単に開かれた。
深く暗い水中だというのに、妙にはっきりと、赤い塊が身体を這っていることが分かった。
『おい、娼婦。今すぐわたしの泉から出ていけ』
「いけません。私はここで死ぬのです」
――“これ”は、なんだろう?
死ぬ間際に見る夢なのか、とうとう気がふれてしまったのか。
彼女の身体を絞める赤い蛇は、蛇らしく威嚇をする一方で、ひとの言葉を使っている。
『ならん。わたしの泉に、穢れを残してくれるな』
「それでは、私を喰ってください。私はここで死にたいのです」
『迷惑な……』
妙にひとらしい表情をもつ大きな赤蛇に、彼女は恐ろしさを微塵も感じなかった。
赤い身体に、月のような金色のすじが、美しい蛇。
それに、ここは心地よい。
病気をしてからの悩みだった痛みやけだるさが、ここでは不思議と消えていた。
蛇は一度、彼女の身体を離れると、口になにかをくわえて戻ってきた。
ふたたび巻きつく赤い蛇に、彼女の身体がふるえる。
――つめたい、きもちいい。きれい。
「ああ……」
『……これは、お前が持ってきたものか?』
錆びたふるい。
「ええ」
『なんと……ではわたしは、お前のような娼婦を助けなければならないのか』
ぎり、と巻きついた赤蛇が身を縛りあげる。
「っ、いたいわ……」
『娼婦、お前が探していた場所は確かにここだ。お前に一度だけチャンスをやる』
「どういうこと?」
『そもそも、わたしの泉に入れるのは限られた人間だけだ。お前もそのうちの一人。だから、わたしはお前を助ける』
「たすけなど、今更ほしくないわ」
ぐん、と身体が赤蛇に持ち上げられ、泉の岸まで運ばれる。
彼女の訴えに、蛇は答えない。
ただ、くわえていたふるいを岸に置くと、蛇は自分のうろこを剥がして、一枚ずつふるいに敷きつめた。
よく見ると、薄い金色と赤色をしたうろこで、ふるいは彩られる。
「なにを……」
『こうしなければ、ここの水は汲めん』
――おとぎ話では、泥で塗り固めていたはずだけれど……?
ともかく、彼女には今の状況が、夢に思えて仕方ない。
痛みが消え、喋る赤蛇に、世界の果ての泉。
しかし、うろこの剥がれた肌から、うろこと同じ赤色の血が流れて泉に溶けてゆくのをみて、彼女はハッと我にかえった。
「やめて! どうして身体を傷つけてまで……私は、助けてなど欲しくない!」
『それがわたしの呪いだからだ。さあ、飲め』
*
「呪い……?」
ひとつも空くことなく敷きつめられた赤いうろこに、なみなみと泉の水が注がれる。
蛇は、チロチロと赤い、二股の舌を動かして言う。
『そうだ。わたしはここに来たものを“助けなければならない”』
「どうして?」
『わたしの呪いを解くために。わたしの罪は、まだ赦されていない』
「罪? どうすれば、あなたの呪いは解かれるの?」
やはりこれは、死ぬ前の夢だろうか?
現実離れした言葉の数々と、生々しい血の色に混乱する。
『わたしは、わたしが助けた者を、妻に娶らなければならんのだ』
「それって……」
『そうだ。わたしは、お前を娶らなければならん』
ついに彼女は大きな声を上げて笑ってしまった。
腹がよじれるほど笑ったのはいつぶりだろう。おかしくて堪らない。
とうとう、死んでしまったか。それとも、気が狂ったか。
どうでもいい。この夢が、醒めなければいい。
『笑い事ではないぞ、娼婦』
「いいわ。私がもしこの病気から助かったなら、あなたの妻になりましょう」
『……その言葉、ゆめゆめ忘れてくれるなよ』
彼女は、ふるいを手にとり、水を飲み干した。
すると、夢の中だというのに、眠気がどんどん彼女の身体を支配する。
「忘れないわ、あなたのこと……」
『娼婦、名は』
「……プシュケー。あなたは?」
『サミエル。いいか、忘れてくれるなよ、わたしのことを』
遠くなる声は、どこか悲痛に満ちていて。
こどもが泣き出しそうな時の声に、よく似ている。
プシュケーはそんな蛇を慰めるように、母のような声音でささやく。
「わすれない……わすれないわ、サミエル」




