長州藩邸にて
土岐は「身体を拭く、夜着を変える、布団を変える、部屋の換気」を手早く指示すると、今度は身体を冷やす為の井戸水と手拭い、栄養を摂る為の玄米スープを女中に指示した。
玄米スープは栄養価が高く、タンパク質や脂質、ミネラル、ビタミンA、B1、B2、B6、B12、ニコチン酸、パテトン酸、プロビタミンCなどを含み、養生食としてはすぐれものだ。特に固形物を受け付けない人にとっては貴重な栄養摂取となる。
一通りの事が終わる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
久坂は、行灯の光に照らされてよく眠っている。
まだ呼吸は苦しそうだが、今夜で発熱3日目。ある程度栄養をとって汗もかき、休息出来れば熱は下がって来るだろうと思う。
ここから気をつけなければならないのは、変わらず脱水と栄養面だ。
冷却やお手製ポカリを飲ますタイミングを指示すると、土岐はそっと廊下に出た。
グッと伸びをして、外の冷たい空気を肺一杯に吸い込む様に息を吸い込んだ。
「はぁ〜。Fluみたいな症状だし、もっと早い段階でタミフルかリレンザがあったら今頃落ち着いてただろうに。しかし、・・・憎らしい程星がきれいだな。」
誰に言うとでもなく、呟きが漏れた。
「嶋田先生、きっと心配してるだろうな。」
土岐は外気の冷たさに思わず身体に両腕を回した。
「それなら案ずることはない。花屋町通りの医院には使いの者を行かせた。」
いつの間に来たのか、吉田が土岐の直ぐ後ろに立っていた。
「気配もなく近付くのはやめてくれないか?」
土岐は嫌そうに吉田に言った。
「巷の噂は本当だった、ということだな。」
土岐は吉田の言葉に何が言いたいんだ、と言う顔をしていたが、暗がりでは相手に表情まで見えないだろう。
「本当に助かった。土岐先生が来てくれて、やっと安心出来た。どう対処したら良いのかわからなんだ。」
吉田が真面目な声音でそう言った。
「あのね。一つの藩に医者が一人しかいないって問題じゃないか?そもそも、各個人の健康管理は度々軽んじられることが多い。例えば、この国の戦で見落とされがちな事って、何か知ってるか?・・・って言っても、最近は戦が無いのか。」
「何なのだ、急に戦などと・・・?」
突然戦などと言う土岐に対し、吉田は訳が分からないと言う風に土岐を見つめた。
「西洋の歴で1592年、まだ豊臣家が力を握っていた頃に、日の本は宇喜多秀家を将としてお隣の国に戦を仕掛けたんだ。この時にかなりの数の兵を動員して戦ったんだけど、討ち死にする人数よりも病や餓死で死んだ人数の方が多かったって話だ。・・・この日の本はどうも時代が変わってもそこに無頓着だ。つまり、何が言いたいかって言うと、皆の身体の調子は常に気をつけておけと言う事と、上に立つ者は下の者の食事から衛生面をしっかりと面倒をみろ、って事だ。・・・衛生ってのは、まぁ、身きれいにしておけと言う事だ。」
うまい言葉が見つからないけど、太平洋戦争でさえ、日本軍は凄い人数の餓死者と病気による死者を出したんだ。上官の一般兵に対する扱いが悪過ぎる。 マンパワーがなければ、戦をした所で先は明るくない。もちろん、それ以前に戦なんてするべきじゃないけど。
「・・・なるほどな。」
わかっているのかいないのか、吉田は相槌を打つように答えた。
「ところで土岐先生は、今の幕府をどう思う?」
「幕府、ね。まぁ、やる気がない人が上に立っていてもどうにもならないんじゃないか?それに、攘夷なんて言葉に踊らされてる人が多いけれど、時代の流れから行っても無理だろうね。・・・って、あれ、長州は尊皇攘夷思想だったっけ?・・・・まぁ、その、なんだ。私にはよく分からんが・・・。」
まずいと思った時には素直に意見を述べており、焦った様に言った土岐に吉田は怒るのでもなく、笑い出した。クックッと笑いを噛み殺すようにしている男に土岐はホッとした。
最悪、思想の違いで斬り殺されてもおかしくない世の中だ。
「あなたは面白い御仁だ。」
笑いが収まった吉田は、しみじみとしたもの言いで土岐に言った。
「別に、私は面白みのある人間だとは思わない。・・・それより吉田さん。明朝、私を医院に帰してはくれないか?私の不在で診察出来なかった人達がいる。指示が必要ならば、明朝適当な人たちを揃えて貰って私が指示する。」
一拍の間を置いて、吉田は静かに答えた。
「良いだろう。久坂の事を、先生が大丈夫だと判断したのなら、我らはそれに従おう。」
吉田のもの言いに自分の肩にズシリと責任が乗っかった気がする土岐だったが、あれで久坂が死ぬとは思わないし、何より久坂はここでは絶対に死なない。
「ああ、久坂さんはきっと大丈夫だ。」
土岐は自信を持って吉田にそう答えた。
二人は久坂が寝ている部屋に戻ると、土岐は柱にもたれかかって座り、吉田は久坂の傍に座って額に当ててある手ぬぐいを交換した。
あまり広くない部屋の隅にはもう一人、見知らぬ男が静かに座っていた。
行灯の光はぼんやりと久坂の顔を照らしており、ゆらゆらと光が揺れている。
あぐらをかいて柱に寄りかかっていた土岐は、行灯の光を見ているうちに急激な眠気が襲ってきた。
着流しはこういう時に不便だな・・・。着物の間から覗く自分の膝下を見ながらそんな事を考えていた。ちょっと寒い。・・・ブランケットでもあったら良いのに。
それを最後に、土岐の思考は眠りへと落ちていった。
鳥の鳴き声が耳に入って、わずかに意識が浮上する。思ったよりも寒さを感じない。
ゆっくりと目を開けると、障子の外が白々と明るくなっていた。まだ誰も起きてきていないのか、辺りはシンと静まり帰っている。
ふと下を見れば、何時の間にかけられたのか、掛け布団が掛けられていた。
そこから視線を彷徨わせると、行灯の光は消えており、布団には寝ている久坂、控えていた男性の姿は見られず、反対側の柱に吉田がもたれ掛かって寝ていた。
土岐はグッと伸びをしてから起き上がると、ゆっくりと久坂に近付き額に手を当てる。熱は昨日よりはマシなようだ。次に頚動脈に手を当てた。
土岐の冷たい手が首に当たり、久坂は少し身じろぎして薄っすらと目を開けた。
久坂の目が、直ぐ隣にいる土岐を見上げる。
「おはようございます、久坂さん。少し白湯を飲みますか?汗もかいてるし、単衣も着替えようか。」
土岐は久坂を起こそうとしたが、昨日程の労力は必要なかった。ゆっくりと上半身を持ち上げた久坂に、湯呑み一杯の白湯を飲ませる。
「では、夜着を脱いでください。」
言われた久坂は、座ったままゆるゆるとした動作で単衣を脱ぐと、土岐が渡した単衣に袖を通した。それまでは良かったのだが、そこから起き上がろうとして、久坂は布団に倒れこんだ。
「申し訳、ない。・・・まだ、無理なようだ。」
それでも昨日よりはしっかりとした口調に安心する。
「ずっと寝ていたんだ。仕方がないさ。」
土岐は苦笑しながらそう言った。
「おい、久坂。大丈夫か?」
久坂が倒れた音で目が覚めたのか、吉田が直ぐそばにやってきた。
土岐は久坂の単衣を素早く整えると、掛け布団をかけた。
「少しは元気になったようで良かった、久坂さん。食欲が出てきたら、しっかりと出された物を食べてください。そうだな、私は明後日にでもまたこちらに伺おうか。喉が乾く前に手作りポカリを少しづつ飲むこと。手作りポカリとは、これです。」
言って大きめの水差しを持ち上げた。
吉田に女中と控えていた男性を呼んでもらい、ある程度の指示をした。
久坂が回復したら、後は自分でなんとかできるだろう。何と言っても藩医殿だ。
吉田に門まで見送ってもらい、小太刀を渡された。
「あ、そう言えば吉田さん。昨日私に布団を掛けてくれたのはあなただろう?」
土岐は小太刀を腰に差しながらも吉田に聞いた。
途端に吉田は気まずそうに視線を逸らした。
昨夜、ふと土岐をみた吉田はどうも気まずかった。
「ああ、大した事ではない。あなたが寒い、と言ったのでな。」
なるほど。どうやら寝ていた私は寒くて「寒い」と呟いたらしい。
「ありがとうございました。おかげで目覚めた時も暖かでした。・・・それでは、私はこれで失礼する。」
土岐は吉田に頭を下げると、吉田に向かって微笑んだ。
「・・・・。」
一瞬頭に浮かんだ事を吉田は直ぐに否定した。
吉田は踵を返す土岐に向かって大きな声を出した。
「土岐先生、此度は誠にありがとうございました!」
土岐は一度その言葉に振り返って片手を上げると足早に去っていった。
土岐の背中が小さくなるまで見送った吉田は大きなため息をついた。
昨夜、一瞬でも寝ている土岐の事を「女子の様にみえる」と思ってしまった自分に何とも言えない気持ち悪さを覚えた。