長州の栄太郎
長州藩の吉田栄太郎。
後に改名した名前は吉田稔麿。
吉田松陰が作った松下村塾の塾生の一人で、後の世で四天王と呼ばれたうちの一人だ。
栄太郎は吉田松陰が私塾を開いて直ぐに入門した古い塾生だった。
思想は倒幕派、四天王に名前を連ねる高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と共に過激派のイメージがある、というのが土岐が頭の中で持っていた情報だった。
丹虎に来た時点で、もしかしたら誰か歴史上の有名人に会うかもうしれないとは思っていた。それでも、そんなに都合よく出くわす事もないとも思っていた。
なのになんだよこれ、いきなり大物が出てきましたよ?しかも、栄太郎は私の事をご存知らしい。
「長州の吉田栄太郎」と言う名前を聞いた瞬間、私の頭の中では浪士組の奥沢さんに会った時同様、かなり衝撃を受けた。
それでもなんとか私の態度は変わらず、思考は通常運転をしているらしい。
なぜ、長州の栄太郎が私の事を徳右衛門さんに聞いたのか。
「土岐先生、あなたの事は聞いておりますよ。なかなかの腕の医師だと。実は、我々の藩で体調を崩しておる者がおりまして。一度診て頂きたいのです。」
「それでは一度、往診の準備をして」
土岐の言葉は、すぐに吉田に遮られた。
「いや、我々の藩邸はすぐそこです。申し訳ないが、このままご足労願いませんか?」
有無を言わせないような吉田の物言いに、土岐はあからさまにムッとした。
「吉田殿、こちらにも都合と言うものがあるのだ。申し訳ござらんが、今日は土岐先生もこのまま一度医院へ帰っていただく。」
下男の雰囲気を一変させた松吉が、吉田を睨みながら言った。その手は大刀の束をいつでも握れる位置に置かれ、吉田を威嚇した。
それを見た吉田も、腰を低くする。
「あーーー、もう良いよ。わかったわかった。あれだ、つい興味本位の出来心を出した私が悪かった。こっち来て1年経ったからって、図に乗ってたよ。」
土岐が松吉と吉田を見ながら諦めたようにそう言った。
その緊張感のなさに、二人は驚いて土岐をみた。
その言葉とは裏腹に、土岐は内心ドキドキして冷や汗が出そうな心境だった。
こんな所で刀抜かれたら、たまらない。
「松吉さん、嶋田先生に私が長州藩邸へ行った事を伝えておいてください。もし直ぐに戻れない様な状況だったら、こちらから医院に使いを出します。」
土岐は松吉に向かってそう言った。
松吉が思い切り顔をしかめる。
「ーーーそれから、吉田さん。往診、受けましょう。その代わり、しっかりと私の身の安全を保障してくださいね。・・・長州藩は何かと揉めていると聞く。私、一応小太刀を持っていますけど、実戦では一度も鞘から抜いたことがないので。」
その土岐の言葉にさすがの吉田も唖然としたが、直ぐに頭を下げた。
「土岐先生、本当にかたじけない。」
切羽詰まった様に言った吉田に、土岐はそれ以上何も言えなくなった。
「って事で、松吉さん。・・・後は頼みます。」
心底心配気にしている松吉を気の毒に思いながらも、私はこの時はそう言わざるおえなかった。
なに、きっと大丈夫だって。・・・たぶん。
吉田に着いて土岐が歩いて行く様を松吉は睨んでいたが、意を決したように医院に向かって走り出した。
土岐がチラリと後ろを見たときには、既に松吉の背中が小さくなっていた。
丹虎の前から長州藩邸までは約300mほど。河原町通りを北上して御池通りを東に向かって直ぐ左手にあった。現在は京都ホテルオークラが建っている場所には、広大な武家屋敷があった。
「さっすが、広いね。」
土岐は思わず門の前で呟いた。
門をくぐると、門番らしき侍が吉田へと頭を下げた。その吉田の後に続く私はその門番に目礼した。
「土岐先生、腰の小太刀をお預かりしてもよろしいか?」
吉田が改まってそう尋ねた。
「ああ、構わないよ。むしろ持っていても邪魔で重たいだけだ。」
私は早々に小太刀を腰から抜くと吉田へと差し出した。
吉田はそれを預かると、そのまま土岐を屋敷に上がるように促した。
「ちょっと着いてきてくだされ。」
言われて土岐は頷くと、静かに吉田の後を着いて行った。
藩邸は迷路の様で、どこをどう歩いたのかさっぱりわからない。土岐は自分で外まで出られるのではと考えていたが、早々にその考えを捨てた。
大きな襖がある部屋の前まで来ると、吉田はそっと襖を開けた。
部屋の中は薄暗く、行灯の光が灯っているだけだった。まだ午後3時頃だというのに、この部屋はえらく暗い。
土岐は吉田に入室を促され、吉田に続いて部屋へを入った。
部屋には布団が敷かれ、一人の男が呼吸を荒くして横たわっていた。
「・・・この人は?」
土岐が吉田に静かに聞いた。
「流行り病にかかったようで、ここ2日ほど高熱が出ておる。」
神妙な顔をした吉田がそういった。
「で?ここの医者の見立てはなんと?」
「この男がここの医者なのだ。」
「え?」
土岐はよくわからないと言う様に聞いた。
「この男が我が藩医だ。名を久坂玄瑞と言う。」
「は?もしかして、この屋敷は藩医が一人しかいない訳じゃないよね?って言うか、え?久坂玄瑞??」
土岐は信じられないというように布団に横たわる男を見た。
「って、まぁ、今は良い。指示するんで、適当に動ける人間を連れてきてください。なるべく急いで。」
土岐が指示すると、吉田は頷き出て行った。
土岐は目の前に横たわる男へと視線を落とす。
「久坂さん、初めまして。先ほど吉田さんからあなたの事を頼まれた土岐と言います。花屋町通りで町医者をしています。・・・私が言っていること、わかりますか?」
私の言葉に、薄っすらと目を開けた久坂と土岐の視線が合う。ほどなくして、久坂は弱弱しく頷いた。
「オッケー、じゃあ久坂さん。脱水もひどいと思うので、とりあえず梅干し食べて白湯を飲みましょう。まずそれからだ。」
土岐は袋の中から梅干しを2つ取り出すと、久坂の頭の下に自らの膝を入れて頭を持ち上げた。久坂に軽く口を開けさせ、梅干しを軽く噛ませて白湯を飲ませた。久坂の喉が何回も動く事を確認するとゆっくりと頭を布団に下ろす。
「大丈夫ですか?」
土岐が久坂に確認すると、ゆっくりと頷いた。
「・・・すま、・・・ぬ。」
弱々しい声でそう言った久坂に、土岐は冗談交じりで返した。
「久坂さん、申し訳ないと思わなくて結構です。後からしっかり報酬はいただきますから。」
深く息をついて久坂が目を閉じると、廊下からバタバタと何人もの足音が聞こえてきた。
本当はもっと書いていたけれど、途中でネット環境がおかしくなって全部消えてしまった・・・。




