丹虎へ2
階段を上がって行った先は襖が開け放たれており、見通しの良い部屋があった。
また、外からの日の光を取り入れるのに、すべての障子が開け放たれていた。
それぞれの客は衝立越しにそれぞれの膳を囲んでいる。
土岐と松吉は窓辺のスペースに案内された。
土岐はふと案内される途中に奥の部屋の襖が閉められているのを見た。
倒幕派の人たちのVIPルームなのかな?そんな事を思いながらも畳の上に座る。
「しっかし若先生、ここまで時間をかけて昼餉に来るんや。きっと美味しいんやろうな。」
嫌味とも取れるもの言いだが、松吉が言うと嫌味にも聞こえない。
「そりゃそうでしょう。うちの患者さんからのお勧めだよ。それに、前々から来てみたいと思ってたんだ。ここは私が持つから、松吉さんは好きな物を食べたら良いよ。」
土岐と松吉は料理の膳を注文すると、窓の外を眺めた。河原町通りは人の通りが多かった。
「お上りさんって言葉があるんだけどさ。」
土岐が何気なく話す。
松吉は理解できないように小首をかしげた。
「ああ、だから、都にやってくる地方出身者の事を言うんだけれど。片田舎から出てくると見るもの全てが珍しいだろ?それに人の多さに驚くわけだ。私なんかも尾張の片田舎から出て行ったもんだから、江戸の人の多さに驚いたもんだ。ある時、あまりの人の多さに気分が悪くなってね。折角友人が美味しい甘味処があるってことで連れて行ってくれたのに、茶だけ飲んで帰ったことがある。」
土岐は友人に案内されて行った、渋谷の交差点からほど近いスイーツの美味しいカフェを思い出していた。しばらく東京にも住んでいたけれど、あまり渋谷には近づかなかったなと懐かしく思う。
「へぇ、若先生が尾張出身やったとは、初耳や。」
「あれ、言ってなかったっけ?」
土岐は瞠目する。
「聞いておまへん。それに、江戸にも居ったとは知りまへんでした。」
土岐は考えるようにしてから頷いた。
「うん、確かに言ってなかったかも。まぁ、紆余曲折があって京都に居るんだけどさ。本当に人生は時として訳分からん事が起きるからね。」
そこまで話していた時に、松吉と土岐の前には美味しそうに盛り付けされた膳が運ばれてきた。
「かたじけない。」
土岐は微笑むと女中に言った。
「ああ、それから申し訳ないけれど、後2人分の持ち帰りの弁当をお願いしても良いだろうか?」
土岐が膳を運んで来た女子に聞いた。
「へぇ、その様にします。」
女子は恥じらう様に頷くと、そう言って席を立った。
その様子を見ていた松吉はなぜ土岐が女子に人気があるのか、何となく分かった様な気がした。
土岐を見ていると完全に女子贔屓なのだ。現代の言葉で言うところのフェミニストである。
その女子贔屓の男がその実女なのだから、本当にタチが悪い。
二人は春の野菜に彩られた膳を、時折言葉を交わしながら静かに食べた。
食べ終わると茶を淹れてある湯呑みを持ち、口に運ぶ。
ほっと一息つくと、土岐はとても満たされた気分になった。
この時代でのこれは、本当に贅沢なのだろうと思う。中には食べるものにも困っている人たちがいるというのに。
「さて、ではそろそろ醤油を買いに行こうか?」
土岐はそう言ってゆっくりと立ち上がろうとして腰を上げると、こちらを向いていた見知らぬ男と目が合った。
男はジッと土岐を見つめていた。
何だろう?どこかで会った事あったっけ?
見つめらた土岐は軽く頭を下げると、松吉を見て退席を促す。
廊下に出て松吉を待つと、二人はそのまま階段を降りて行った。
会計を済ませ、お土産の弁当を二人分受け取った二人は河原町通りへと出た。
「なんや、町人と言うよりは侍の多く居った料理屋やったなぁ。」
松吉がボソリと呟く。
いやいや、あんたも腰に大小刺してるじゃん、と思わず突っ込みたくなった。腰に大小刺しているという事は、基本的に武士身分なんだろう。
松吉は下男だが、何処となく侍の匂いがする。その立ち居振る舞いがそうするのか、その腰のものがそうするのか。どちらにしても、知識レベルも高く、育ちも良いと思われた。
そんな松吉が下男をやっているのがそもそも変だろうと思う。
それでも本人が言わないプライベートな事は、基本的に聞かないのが土岐の主義だった。
そんな事を考えていた土岐は松吉を何か言いたげに見ていたのだろう。
「若先生、何か言いたいと顔に書いてありますよ?」
松吉は訝しげな顔をした。
「いや、お香代さんはあなたみたいな出来る男を捕まえて羨ましいなと思ったんだよ。私なんかアラサーなのに男っ気なし。何が悲しくて女子に言い寄られなきゃならんのだ。」
聞く人が聞いたら、大問題の発言をサラッとする。
なんや分からん言葉もあったけど、この人は女子に人気があるって自覚はあったのかと松吉は何とも妙に納得してしまった。
「お話し中の所を失礼する。・・・もしやあなたは花屋町通りの若先生ではござらんか?」
全く知らない男の声に、松吉も土岐もそちらを向いた。
するとそこには先ほど丹虎の二階で目が合った男が立っていた。
松吉が今の土岐との話を聞かれたのかと一瞬焦る。
「・・・あなたは、先ほど2階に居たな。」
土岐が平坦な声で男に言った。
社会人たるもの、自らが名乗ってから相手に名前を聞くのがすじだと思っている。それは現代だろうが幕末だろうが変わらない。
「一度あなたを島原の角屋でお見かけした事がある。私は長州藩士、吉田栄太郎と申す。」
そう言うと吉田は土岐に頭を下げた。
松吉は土岐に心配そうな視線を送る。長州藩と言えば、内乱で揺れて色んな思想家がいる。倒幕派も多い藩だ。
「長州の吉田殿か。初めまして。私は花屋町通り医院の土岐です。確かに角屋さんには何度も足を運んでいるが、私はあなたをお見かけした事がない。・・・徳右衛門さんか?」
角屋徳右衛門は代々その名前を引き継ぎ、島原の角屋を守っている店主だ。
角屋さんへは大体月に一度、医院の慰労会兼親睦会と称して夕食を食べに行っている。その時にでも、吉田は土岐を見かけたのだろう。
顧客情報を漏らすとか、現代なら大問題だぞ、徳右衛門さん!
土岐は心の中で叫んだ。
「角屋を悪く思わないで欲しい。無理に聞いたのは私なのでな。」
吉田が土岐の表情を読んでそう言った。