丹虎へ
「冷たっ。」
井戸の水を汲んで桶にあけ、その水で顔を洗えば自然とそう言葉が漏れた。
4月も半ばではあるが、顔を洗う井戸水はまだ冷たい。
タオルを取りだして顔を拭けば、さっぱりとした気分と肌が空気に触れる冷たさに頭が冴える気がした。
「あれ、若先生、えろう早いなぁ。」
人の気配と共に振り返れば、そこには住み込みで嶋田先生の下男をしている松吉が立っていた。松吉はこの医院の下男にして嶋田先生の診療アシスタントもこなしている男だ。良く気がまわり、口も硬く、腕っぷしもなかなかのものだ。私の中では「出来る男」評価を得ている。
「松吉さんこそ。今日はたまたま早く目が覚めてしまったから、そのまま起きようと思ってね。」
松吉はそういう土岐をマジマジと見つめた。
「せやけど、若先生が来はってから、なんやかんやであっという間の一年やったなぁ。」
しみじみと言う松吉の視線は、フード付きのパーカーにスェットといういでだちの土岐に注がれていた。
当初は奇妙な格好だと思っていた松吉も、今では土岐のその格好をすっかり見慣れている。
女子にしては高い身長、総髪の短い髪、立ち居振る舞い、話し方、どれを取っても自分達とは違っていた。当初は女性だという事に疑問を持った事もあったが、それでも一緒に生活をしていく上で男を装う中にも女性らしさを垣間見る事もあった。
まぁ、普段の言動からは女子らしさのかけらもないのだが。
どのように育ったら土岐先生の様になるのか、甚だ疑問だ。
彼女の持ち物には不思議な物が多く、興味を持って訪ねた事があったがその説明には良く理解出来ないものもあった。小さい板の様なものは夜には光を放ち、その板にエレキテルを貯める為に別の板にお天頭様から光を当てるらしい。
若先生が懐かしそうにその小さな板を眺めている様子を何度も見た事があった。
離れた所には、若先生が来た時に持っていた、小さな荷車(自転車)がひっそりと置かれていた。全く使っていない荷車は、風雨にさらされてかなり汚れていた。
あるとき気を利かして、しまっておかなくて良いのかと尋ねたが、「あれに乗る事はないから」と淋しそうに言われ、そのままになっている。
この医院には自分も含め嶋田先生、土岐先生とお香代が暮らしている。
土岐先生の秘密(性別)は3人とも知っている。お香代は当初、年頃の娘が男の格好をするのに反対していたが、「年頃なんて年齢じゃないから」と笑って言った土岐先生に折れた。
今では男物の着物をすっかり着こなし、街の女子達から熱い視線を向けられているが、当の本人は気付いているのか居ないのか。
自分とお香代は一緒に暮らす内に恋仲となり、今では夫婦同様の関係となってる。そんな自分達を嶋田先生は温かく見守ってくれている。
「ねぇ、松吉さん。今日ちょっと付き合って欲しい所があるんだけれど、一緒に出られる時間はある?」
色んな事を思い出していた松吉は、土岐の声で現実に引き戻された。
「午前の診療が終わってからやったら、大丈夫やと思います。」
「そう、じゃあお願いするよ。ちょっと見てみたい所が幾つかあるんだ。」
そう言った土岐は何かを思いついた様に口角を上げていた。
松吉が午前の診察補助を終えて隣の土岐の診察室へ行くと、既に準備を整え終わった土岐が診察机の前の椅子に座っていた。落ち着いた紺色の紬の着流しを着て、腰には大刀よりも短い小太刀を差していた。
手には何やら紙が持たれており、覗くとそこには丹虎、近江屋、桝屋、池田屋と書かれていた。
「なんです、それは?」
松吉が書かれた店の名前を不思議そうに覗きこむ。
「これ、ちょっと見てみたい所なんだけど。全部回るには時間が足りないから昼飯がてら丹虎にでも行ってみようか?で、帰りに近江屋に寄って醤油でも買おう。」
「いや、まだ醤油は切れてへんはずやけど・・・。」
いぶかしそうに言う松吉に土岐は「まぁまぁ、良いじゃない、予備があっても。」と適当な事を言った。
この一年、土岐はあえて歴史的事件があった場所には近寄らない様にしていた。仕方なしにその場所の前を通る事はあっても、あえて店をのぞくと言う事は無かった。
それが1年経ち、場所だけなら見てみたいと思うようになった。いずれの場所も、1年前に友人と一緒に史跡ツアーをした所だった。
実は、旅籠の池田屋と料理屋の丹虎(四国屋)はそれほど離れていない。ほんの数百メートル離れているだけだ。両方ともが攘夷志士の会合の場であり、後の新撰組に目を付けられていた所だ。特に池田屋は、夏真っ盛りに起きる池田屋事件の現場となる。
土岐は何となく気が引けて、今回は丹虎へ行こうと思った。そして帰り道に河原町通り沿いにある近江屋を覗こうと思っていた。
「土岐さん、何か悪巧みでもしてるの?」
不意に聞きなれた声がして、嶋田先生が姿を現した。
「悪巧みなんて、人聞きの悪い。ちょっと松吉さんと一緒に昼飯を食べて来ます。・・・少しばかり三条大橋の方まで行くので、帰りはちょっと遅くなりますが。」
そう言う土岐を何か含みのある視線で見つめていた嶋田だったが、ため息をつくと諦めたように言った。
「まぁ、あなたは言い出したら聞かんからな。最近は物騒だ。気をつけなさい。」
土岐の腰の小太刀に目をやりながらも嶋田は松吉を見ると頷いた。
土岐の後ろにいた松吉が嶋田を見て頷き返した。
三条大橋までは、花屋町通りから直線距離で約3km。そこを通りを変えて歩くので、だいたい3.5kmくらいは歩くだろう。二人は花屋町通りを東へ進むと、大宮通りまで進み、そのまま大宮通りを北上した。五条通りまで来ると、また進路を東に変え、堀川通りにぶつかるとこれを北上。三条通りまで出てひたすら東を目指す。
土岐には常々疑問に思っている事があった。
京都の街は狭い。はっきり言って、徒歩であらかた廻れてしまう。少し前に浪士組の隊士を診察することになったが、それまでは特別個人的に浪士組と付き合いを持つことはなかった。それでも島原にほど近い花屋町通りと壬生は2km圏内だ。そして、更に言うなら、浪士組が取り締まる不逞浪士、主に倒幕派の浪士達は壬生浪士組の屯所から3Km圏内にほとんどの人たちが暮らしている事になる。
「なんで見つからないの?例えば、坂本龍馬は背が高かったと言うけれど、そんなパッと見特徴があってわかりそうな人物がどうやって潜伏出来るんだろう?」というのが、現代にいた頃からの土岐の大きな疑問だった。この疑問は幕末に来た今でも同じように思っている。
松吉と土岐はゆっくりと歩いて40分ほどで目的地である丹虎へと到着した。
店は河原町通りに面しており、人通りも多かった。二人は店の前に来ると暖簾をくぐる。
すぐに店の番頭らしき男が近づいてきて二人に声をかけた。
「おいでやす。えらいすんまへんけど、腰のものをお預かりしてもよろしおすか?」
男は丁寧に土岐と松吉に向かって声をかけた。
「ああ。」
土岐は短く答えると松吉を見た。
土岐と松吉は腰からそれぞれ小太刀と大小を抜くと番頭に差し出した。
刀を預かった番頭は中居に声をかけると二人を案内するように言う。
そして二人は案内の女中の後をついて二階へを案内された。
何というか、京都って本当に狭いのに、みんなよく見つからないで居たなぁというのが私自身の目下大きな疑問です。