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花屋町通り医院  作者: Louis
38/45

「医は仁術なり」

何だか、軽い医学史のようになってしまったような。。。


やった。

やり切った。

いや、やり切ったとは言えないかもしれないけれど、出来る限りの事は伝えた。

あの機会がなかったら、今度はいつ会えるのかは分からなかった。

会えてラッキーだった。

あとは栄太がどの様に行動するかは彼次第。


そうは思うのに、栄太の覚悟は揺るがないだろうという予想になってしまう。


ああーーーっ、もう!ドラ◯もんとか居てくれたら良いのにー!

何でタイムスリップが起きてるのにド◯エもんがいないのよ!・・・・4次元ポケットだけでも欲しいわ。


「助けてぇ〜、ドラエ◯〜ん!って叫ぶのび太の気持ちがとても良く解るわ。」

机に突っ伏しながら、心の声が思わず漏れてしまった。

自分ではどうにも出来ない状況に陥った時、そこにヒーローがいれば頼ってしまうのは仕方ない事だ。今までのび太を馬鹿にしてて悪かったと思う。

こんな事を考えるだけ不毛だけれど。


それと同時に、コホンと咳払いが背中から聞こえて来る。


「せんせ、その『のびた』と言う者は存じませんが、今日の『心ここにあらず』なのはいただけません。」


注意半分、心配半分なお香代さんの声に机から顔を上げる。


「すまない、お香代さん。」

土岐はバツが悪そうにお香代に謝った。


「では、次の患者さんをお呼びしてもよろしおすか?」


「はい、お願いします。」

土岐は僅かに笑顔を作ると、お香代に頷いてみせた。


私の表情筋は何とか頑張って仕事をしてくれているようだ。そうでなければ、不安な気持ちが顔に出てしまう。

患者さんを診ているうちはまだ良い。その人に集中出来るから。

でも一旦時間が出来ると、どうしても考えてしまう。

新選組に、栄太達。そして夏に起きるであろう池田屋事件。

だめだ。気持ちを切り替えなきゃ。


土岐は古典的にもパンッと両手で頬を叩くと机の上にあるカルテに目を向けた。

その後ろでは、やはり心配そうな顔をしたお香代が土岐の事を見ていた。



その日の夕方。

花屋町通り医院に意外な人物が訪れた。

相変わらずの、自信に満ちた立ち姿。

本当に沢山の情熱を持って偉業を成してきた人物なのに、気軽に声をかけたくなる様な気安さもある。


「ご無沙汰しております、嶋田先生、土岐さん。」

良く通る声でそう言うと、松本良順は折り目正しく2人に頭を下げた。

その後ろには、武士と思われる初めて見る男が控えている。


この所夕方ともなればめっきり寒さが増してきた。松本の言葉と同時に白い息が見える。


「よく来てくださいました、松本先生。」

土岐は嬉しそうに微笑むと右手を差し出した。

松本は迷う事なく土岐の手を取ると握手を交わした。


土岐が松本のところを訪れた時、どうも松本と堅苦しい挨拶を嫌った土岐は、松本に「握手」の挨拶を紹介した。松本も違和感なくこれを受け入れ、それ以来土岐と松本はこのように挨拶を交わしている。


「さぁ、中に入ってくれ。温かい物を用意しよう。」

嶋田が松本に促す様に言葉をかける。


「はい、では遠慮なく。」

松本はそう言うと、後ろを振り返り連れの男に声をかけた。


「ご苦労。お主は先に戻りなさい。」


「はい。御前、失礼仕ります。」

キビキビと男は言うとさっと頭を下げ、門の方へと消えて行った。


「なんか松本先生、お偉い先生みたいですね。」

思わず呟いた土岐に松本は困ったように微笑んだ。


「土岐さん、私はこれでも一応幕府の御典医をしておるのでな。」


「いや、それは知ってますけど・・・。私にとってあなたは、近所の兄さんのような気がするので。」


「これ、土岐さん。」

嶋田が可笑しそうにしながらも、土岐の言葉をたしなめた。


「いや、嶋田先生。土岐さんの私の扱いは以前からこの様なものです。嫌な気もせぬし、むしろ近しい間柄というもの。・・・当初は弟子の前でも遠慮がないのが気がかりではあったが、今では土岐さんはこういうものだと諦めておりますよ。」


可笑しそうに言う松本の言葉に、嶋田は土岐をチラリと見ながらため息をついた。


以前土岐は、縫合を教えてもらうと言う名目で京都に滞在していた松本良順のもとを連日訪れた事があった。


松本良順は会津藩の藩医をしていた南部清一の元に一時身を寄せていた。その南部清一は会津藩の藩医として勤める傍ら、木屋町にて個人の医院を営んでいた。ちなみに南部清一は、下総国印旛郡佐倉にて佐藤泰然に師事したとされている。なので松本は実父、佐藤泰然の弟子の元に身を寄せていた事になる。

佐藤泰然は言わずと知れた、平成時代の御茶ノ水にある順天◯大学病院の創始者である。


「土岐さん、よう参られた。」

松本が笑顔で土岐に話しかける。


「松本先生、お忙しい中申し訳ありません。」

土岐はゆっくりと頭を下げた。


「なんだ、女子の様な優男ではないか。それとも女子でありながらその様な格好をしておるのか?」

明らかに馬鹿にした様な物言いに、土岐は驚いて声のする方を見た。

するとそこには見た事のない男が立っていた。


「これ、伊之助。土岐さんをその様に言うものではない。」

松本は伊之助と呼んだ男をたしなめると、土岐に「すまぬな」と軽く詫びた。


「いえ、この人の言う事は間違ってませんから。」

そう言って土岐は苦笑しながら首を振った。


「この者は島倉伊之助と申してな、私が長崎のポンペ医師の元で医術を学んだおり、翻訳と通訳に尽力してくれたのだ。私も蘭語はある程度できるが、この伊之助の記憶能力は抜群でな、一度見たものは瞬く間に覚えてしまう。現在では蘭語、英語、仏語、独語、ギリシア語、ラテン語と清国の言葉を解する事ができる。ただ、かなりの変わり者でな。当人も養生所では苦労しておった。」

そう言って松本は伊之助を見た。


そう松本に評されても当の伊之助はどこ吹く風である。


広汎性発達障害の

「サヴァン症候群?」

土岐がボソッと呟いた。


「ん?何と申した?」

土岐の言葉を松本が拾った。


「ああ、えっと・・・。」

まずい、つい。


土岐の表情が思わず焦った様になったのを松本は見逃さなかった。


「土岐さん、以前土岐さんに私は腑分けをした事があるかと問うたな。」

松本は探る様に言った。

確かに、嶋田先生と松本先生と以前島原へ行った時に聞かれた。


「はい、角屋さんで確か。」

「うむ。そのおり、土岐さんはどの様に答えたか覚えておるか?」


「何となく・・・。」

あの時は苦し紛れに適当な事を言った気がする。


「あなたは、医学所のようなところで、と言われた。」

「はい、確かそう言いました。」


「言質は取ったよ?」

松本はいたずらが成功した様に笑うと、伊之助に茶の用意をする様に指示した。

そして土岐を伴って奥の部屋へと入って行く。


連れて行かれた部屋に着いて、土岐は目を見張った。

そこにはヨーロッパ調のテーブルと椅子が置かれ、畳の上にはペルシア絨毯が敷かれていた。


何で今の京都にこんな家具があるの?


「ああ、かけてくれ。」

松本にそう言われ、土岐は手近にある椅子を引き腰掛けると反対側に座った松本を見た。


松本は土岐の所作を興味深く見つめていた。


「この調度品はね、私がオランダの軍医であるポンペ医師からいただいたものだ。土岐さんはポンペ医師をご存知か?」


松本のその質問に土岐は首を横に振った。


「では、現在の日本で唯一腑分けが出来るのは長崎にある養生所である事はご存知か?」

その松本の言葉に土岐は驚いた様に目を見開いた。


そんなの、知る訳ない。

思えば医学史はほとんど知らない。


「その養生所も、ポンペ殿と私が長崎奉行岡部駿河守長常殿と掛け合い、岡部殿のご尽力によって設立と相成った。日本で初めての全て西洋式の医学所だよ。それも、今から2年ほど前の事。もちろん、ポンペ殿や私が指導した63名の弟子の中に土岐さんは居なかった。よって土岐さんの言う医学所のようなところとはどこの事だろうか?まさか、緒方洪庵殿の適塾で腑分けをされておるとは思えぬが?」

緒方洪庵。名前だけは知っているけど、後は全く知らない。

ウィリス医師の名前を出したところで、うまい言い訳は思いつかない。

ああ、完全に松本先生に追い詰められた。


土岐は困った様に松本を見つめる事しか出来なかった。


「私は別にあなたを困らせようとしておる訳ではない。あなたが腑分けが重要であると言うのは、どの様にその考えに至ったかに興味があったからだ。今までの幕府は漢方医学を医術の本流とし、蘭方医学は軽んじられて来た。しかし、残念なことに日本の医術の本流であった漢方医では多くの病の治療が出来ぬ。よって私は多くの医師に西洋の最新の医術を学んで欲しいと思っている。その為には藩を超えて大勢の若い医師達を養生所で受け入れ、ポンペ殿と共に余す事なく講義を行なって来たのだ。」


松本先生の真剣さは、この時代に来て自分の事を医師と言っている自分が恥ずかしくなるほど熱くて真剣なものだ。


「それで?先ほどの伊之助の事を何と言われた?」

一息ついた松本は、先ほどの土岐の呟きを問うた。


「サヴァン症候群、と。」

土岐は諦めた様に口を開いた。


私は実際、松本先生の動向をあまり知らない。漢方医、蘭方医の対立は何となく聞きかじった事があるけれど、その程度のものだ。

実際先生が長崎で、養生所と言う医学部の様なものを造っていたとは知らなかった。


「その、さばんしょうこうぐん、なる物の意味を聞いても良いか?」

そう言いながらも対面に座った松本は、身を乗り出す様にして土岐を見た。


土岐は苦笑しながらも、仕方ないと言う様に頷いた。


「サヴァン、とは、仏語で言うところの『賢人』の意味であり、サヴァン症候群は大きく言えば発達障害の一種です。発達障害とは、主に広汎性発達障害(PDD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、特異的発達障害または学習障害(LD)の3種類に分類されます。自閉症やアスペルガー症候群も広汎性発達障害に含まれますが、自閉症スペクラム障害とも呼ばれています。たとえばてんかんや先天性・後天性に脳の障害が起きた場合、通常では使用される事のない脳の領域の機能が働き、驚異的な記憶力の発現が見らることがあります。左側頭葉の損傷が対側の右大脳半球の発達に関わっているとされる研究もあります。反対にこの患者は、著しいコミュニケーション・・・えっと、対人関係の能力に問題が現れます。つまり、付き合いづらくて周囲から疎まれる様な存在になりがちです。私は精神医学をよく知らないので、病理学で習った簡単な事しか知りません。私自身はその様な患者さんに会った事はありませんが、伊之助さんはその状態に合致するなと先ほど松本先生の話を聞いて思ったのです。」


土岐の言葉を一語一句逃さない様に聞いていた松本だが、聞いた事のない単語の羅列に瞠目していた。


「つまり、伊之助さんの対人関係の悪さは伊之助さんの性格ではなく、病の1つである可能性がある、と言う事です。ここに彼がいると言う事は、彼は自らの事を良く理解してくれる松本先生と出会い、とてもラッキー、っと、幸運である、と思いますよ。」


実際、平成の世の中でもこうした発達障害のケアが十分に行われているとは決して言えなかった。


「土岐さん、私はポンペ殿から最先端の学問を学んだと自負しておる。」


「はい。」


「その内容は物理学、科学、繃帯学ほうたいがく、系統解剖学、組織学、生理学総論及び各論、病理学総論及び病理治療学、調剤学、内科学及び外科学、眼科学。それに産科学と医療の法に関わる事だ。」


「繃帯学?」

「繃帯学は、骨折や脱臼と言ったものの治療を言う。」

「なるほど。それにしても、それだけの基礎医学科目が既に系統立てて講義されているとは・・・。」

正直、江戸時代の蘭方医学がここまで進んでいるとは知らなかった。

京にいる『医者』は科目名を言われたところで全く解らないだろう。こんな受け答えをしている時点で私はそれらを知っていると認めているようなものだ。


「土岐さんには、それ程目新しいものではないようだな?」

「いや、・・・はぁ。」

土岐は困った顔で松本を見た。


「まだ京都界隈では、そこまで蘭方医学は普及しておらぬがな。」

ですよね。

まともな医者がいないと長岡さんと以前話していた事を思い出した土岐は、思わず松本の言葉に大いに納得してしまった。


「土岐さん。土岐さんの事は、嶋田先生は全てご存知なのか?」

「はい。」

「そうか・・・。」


松本は考え込む様に少し沈黙した後、思い付いた様に土岐に言った。


「土岐さん、土岐さんはどうやら、私の知らぬ医学の知識を持っておるようだ。土岐さんに縫合を教える代わりに、土岐さんからも何か1つ教えてもらえぬか?」


「え?」

いや、私が松本良順に教えるの?

いやいやいや。そんな事をしちゃダメでしょ。

新選組の山崎さんに教えるのとは、その後の影響力が違う気がする。


「何か、土岐さんの得意なもので構わぬ。」

更に食いさがて引く気配がなく尋ねてくる松本に、土岐はとうとう不承不承頷いた。


頷いてしまった。

つい、松本先生の熱意に絆された。

そんなにキラキラした目で見ないでほしい。ああ、もう。

「では、神経学を少し・・・。」

「神経学?」

「ええと、脳解剖から脊髄解剖、脳神経学検査と脊髄神経の検査、知覚神経とか、とにかくそう言う事を・・・。」

そう言ってから、神経学の膨大な範囲を思い出した土岐は思わず額を押さえた。


互いに忙しい身でありながら、土岐は松本の元へ通いつつ外科処置の練習を行った。また、その後には土岐が知っている限りの神経学の知識を松本に伝えた。

日にちとしては5日間ほどであったが、その内容は夜遅くにまで及びとても濃いものとなった。


「土岐さん、あなたの教えはことの他役立っておる。あの様に額を突き合わせて学ぶのは、本当に久しぶりであった。感謝致す。」


嶋田に部屋に案内されながら、松本は土岐に話しかけた。


「いえ、私の方こそお世話になりました。」

「その知識をぜひ養生所で」

「無理です。」

「給金も多いに弾むので」

「間に合ってます。」


間髪入れずに言い返す土岐に、松本は困ったように嶋田の背を見た。


「嶋田先生、土岐さんはこの様に常につれぬのだ。」


「松本先生と土岐先生の掛け合いは、寄席のようだな。」

嶋田は土岐と松本を見比べながらも可笑しそうにそう言った。


「いや、私としては今後の医学の発展のために真面目に口説いておるつもりです。」

「ですから、今後の医学の発展のためにご辞退します。」

「本当に連れない人だ。」

「良いのです、連れない人で。」


言い合いながらもテーブル席が置いてある部屋へとやってきた。


「なるほど、土岐さんは私がポンペ殿からいただいた調度品にそれ程驚かなかったのはこう言う事か 。」

驚いたとばかりに松本が土岐を見た。


「これらは土岐さんが来てから大工に頼んであつらえたテーブルと椅子だよ。土岐さんはあまり長い刻畳の上におるのが苦手とやらで、長時間の話し合いをする折はこの部屋を使っておる。」


「ほぅ。」

物言いたげな目で松本は土岐を見た。

土岐はそんな松本にニコリと微笑み返す。

「それで、本日はどの様な用件で来られたのです?」

土岐が不思議そうに聞いた。


「ああ、それなのだが、此度は江戸へ戻る事になったゆえ、ご挨拶をと思ってな。」

「そうなのですか?」

土岐が残念そうに言う。


「ああ。医学所頭取助の勤務を仰せつかっておるし、もしかしたら頭取になるやも知れぬゆえ。」


ええっと、医学所って、確か東大医学部の前身だったっけ?確か某JI◯のドラマで観たような、ないような。頭取って事は、その内この人がトップになるかもって事?


「失礼します」と言ってお香代さんが3人分のお茶を運んで来てくれた。

土岐が松本と嶋田の前に湯のみを置き、自分の前にも湯のみを置いた。

湯のみからは白い湯気とともに緑茶の良い香りが漂ってくる。


「それは素晴らしいではないか、松本先生。」

嶋田先生が湯のみを手に取りながら自分の事のように嬉しそうに言う。


「ますます、身を引き締めていかねばと思っております。以前は漢方医だ蘭方医だと言ういがみ合いもあったが、その2つの良いところを合わせ、医術の普及に努める事ができます。」


「そうか。良かったな、本当に。」

嶋田がしみじみとそう言った。


嶋田先生はもともと漢方医だ。だかた蘭方医のする様な事はこの医院ではなかったはずだ。それが時代のニーズに合わなくなり、蘭方医の様な症例も扱う様になったと聞いた。嶋田先生なりにどこかで蘭方医学を学ばれた事だろう。漢方医学の良さも蘭方医学の良さも知っている先生は余計に嬉しいのかもしれない。


「だから土岐さん、もし江戸に来る事があればぜひ医学所に顔を出して欲しい。あなたに江戸の医学所を見て欲しいし、その時は学生らとも話してやってくれ。」


松本は黙っている土岐に確認するようにそう言った。


「はい。江戸に赴く際は、ぜひ立ち寄らせていただきます。・・・しかし、寂しくなりますね。」思わずポロリと本音が漏れた。


「なに、また上洛する事もあろうて。それよりも、嬉しい事を言ってくれる。」

松本は穏やかに土岐を見て微笑んだ。


「土岐さん、せっかくだ。フォトガラを撮ったらどうだ?あの板にエレキテルは入っておるのか?」


嶋田先生のフリに内心驚きつつも、改めて嶋田先生が松本先生を信頼しているのだとわかる。


「どうでしょう。昨日少し触っていたので、まだフォトガラを撮るくらいの電気は残っているかもしれません。部屋へ行って取って来ます。」

そう言うと、頭を下げて退室する。


嶋田先生は松本先生に私の出自を教えるつもりだ。確かに松本先生ならば信用に足る人物だし、何かあった時には力になってくれるだろう。

部屋に戻って机の上にある引き出しからiPh◯neを取り出してホームボタンを押してみる。すると画面が光り、電池残量が7%と表示されていた。


「ま、写真くらいは撮れるか。」

そう呟いて、急いで先ほどの部屋に戻る。


「どうであった?」

「フォトガラを撮るのには問題ないです。」

そう言って土岐は、嶋田にスマホを手渡した。


そのまま、訳が解らない顔をして座っている松本の斜め後ろに立つ。


「嶋田先生、部屋が暗いので、フラッシュを忘れないでくださいよ。」

「ああ、心得ておる。」

慣れた手つきでスマホを触る嶋田を松本は驚愕の表情で見た。


「何やら、板から光が出ておるが、それは一体・・・。」


「では松本先生、嶋田先生の方を向いてください。」

土岐の言葉に訳が解らないまま松本は嶋田の方を向く。


瞬間、LEDからの眩しい光とカシャっと言う機械音がスマホから漏れた。

その刹那、松本の動きが完全に止まった。


「土岐さん、確認してくれ。」

そう言われて受け取ったスマホのフォトフォルダをチェックすれば、驚いた様に目を見開いた松本先生とその後ろに立つ自分が写っていた。


「松本先生、驚いた顔をされてますがこれで良いですか?それとも撮り直します?」

そう言って土岐は松本の目の前に今しがた撮った写真を見せた。


固まっていた松本はゆっくりと嶋田を見てから土岐を見て、目の前の写真を凝視した。


「ああ・・・・。」

思わず松本から声が漏れた。


「嶋田先生、土岐さん。確かに土岐さんの出自を説明するには一番効果的かも知れぬが、これは心の臓がいくつあっても足らん。」

そう言うと松本は深く息を吐き出した。


「信じられぬ事だが、あなたの知識はこの世のものではない、と言う事だな?この様なカラクリは、いくら今の西洋でも作るのは無理だ。」


椅子に戻った土岐に松本は目を向けた。

それと同時に嶋田が松本を見つめながら真剣な面持ちになった。

「土岐さんの事を明かしたのはな、もし私に何かあったら、松本先生に土岐さんをお願いしたいと思ったのだ。」

「ちょっ、嶋田先生!!」

そんなフラグ立てる様な言い方、やめてほしい。


「いや、私は別に今直ぐ死ぬ訳ではないし、死ぬつもりもない。病だって患っておらん。ただ、今後を考えると土岐さんの後ろ盾が松本先生ならと思ったのだ。」


「それはそうでしょうが、私はこの時代でも自立できる様、医師としてやってきたつもりです!」

思わず反論する様に語気が強くなってしまった。


「土岐さんが自立しようとしておるのは分かる。でなければ、年頃の女子が若先生などしておらんだろう?だが、嶋田先生の気持ちも解る。」

諭す様に松本から言われた土岐は、思わず俯いた。


「嶋田先生、あなたに何かあった時は私が土岐さんの『この時代の』後ろ盾になるよう、約束する。」

松本が嶋田と土岐を見比べながら了承した。


「では、ひとつ。ひとつ私から松本先生にお願いがあります。」

土岐の言葉に松本は頷いた。


「あなたに迷惑をかける様な事はしない。だからもし、幕府方の人達に私の行動を止められる様な事があった場合、あなたの名前を出して私の行動の邪魔をさせない様にしたい。・・・了承して貰えるだろうか?」

無理なお願いだとは解ってる。実際迷惑をかけないとも言い切れない。


松本はそんな土岐の目をジッと見つめていた。


「土岐さん、私はあなたを人としても医師としても信頼しておる。私の名1つで憂いが解決するならば、好きに使ってくれたら良い。」


「ありがとうございます。」

松本良順は心から尊敬できる人だ。

ここに来て、これほど物事に柔軟な人には滅多に会った事がない。

大体私が先の世から来たなどと、スマホがあったにしろ簡単に受け入れられる事ではないだろう。もしかしたら、この松本の柔軟性は実父の佐藤泰然によるところがあるのかもしれない。

江戸の社会は世襲制が常であるけれど、佐藤泰然は優秀な弟子を養子に迎え、自分の後を継がせた。「医は仁術なり」を体現した人物であると思う。


この時こんな話し合いをしていた3人だが、松本と土岐が実は同じ年齢であり、松本は既に結婚していて大きい子供も居ると知った土岐は、大いに驚いたのだった。

そんな松本も、土岐の年齢を知った時は思わずポカンとしたらしい。

一般的に平均寿命が低い世の中では、その分精神的成熟は早い。

人間50年と言われた時代から更に30年寿命が延びた平成時代では、その分精神的成熟は遅くなっているらしい。

伊之助さんは、現代では司馬凌海と言う名前の方が一般的でしょうか。伊之助さんはお話にはほとんど出て来ませんでしたが、この人が居たからポンペ医師の講義を正確に理解できたのだと思います。もちろん、松本良順もオランダ語が堪能で、ポンペ医師の講義をオランダ語で記録した講義記録ノートも残ってます。

松本良順とポンペが作った長崎の養生所は、現在の長崎大学医学部の前身となります。

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