One afternoon
午前中の診療がそろそろ落ち着いてきた頃、松吉が土岐の診察室へと入って来た。午前中とは言っても、正午は回って大体午後に突入する。松吉は通常嶋田のアシスタントをしており、この時間に土岐の診察室へ来る事は珍しい。
「土岐先生、待合にお客人が来てはります。」
「客人?・・・誰?」
土岐が不思議そうに問えば、松吉は少し思案した表情でゆっくりと応えた。
「以前、どこかで見た顔をしてはるんやけど、・・・本人は土佐の医者で、長岡謙吉と言うてはります。」
「土佐の医者?」
土佐の医者なんかに知り合いは居ないと思った直後、土岐は酢屋での一件を思い出した。
ああ、確か正面に座っていた男性が「そのうち長岡さんが治療費を支払いに行く」と言っていた気がする。
相変わらず何かを思い出そうとしている松吉さんは、本当に優秀な人だ。
「松吉さん、以前私が連れて来た土佐訛りの強い今井純正って男を覚えてる?」
土岐がそう言えば、松吉は「そうや。」と小さく呟くと、スッキリとした表情になって土岐の顔を見た。
「先生、その人ですわ。・・・せやけど、土佐の医者って・・・。」
「うん。どうやら本当に土佐の医者だったらしいよ?今井純正って方が別名で。」
「なるほど。では、こちらに連れて来ましょか?」
「お願いします。」
土岐にそう言われた松吉が出て行くと、土岐は今井と名乗った男の事を思い浮かべた。
甘味処で沖田と一緒に居た土岐は、長刀を杖の様にして身体を支えている男に目を留めた。
明らかに歩行がおかしい。長刀に体重を乗せ、足を庇っている。
その顔を見ても痛みに顔を歪めるという事はないけれど、あれ、絶対に痛いよ。
その男は総髪で、オールバックの様に髪を後ろに流してはいるけれど、元々癖の強い天パなのか所々がうねっている。頬骨がやや高いが、全体的に優しい顔立ちをした男だった。
気になる・・・。凄く大きなお世話かもしれないけれど、気になる。
土岐の視線に気付いたのか、隣の沖田が土岐の視線の先の男を見た。
「どこか不自由がある様ですね。」
ポツリと呟いた沖田が、ベンチに腰掛けると長刀に体重をかけて大きく息をついた男を見ていた。
「そうだね。・・・帰り際にでもちょっと声をかけてみるか。」
そう言った土岐を、沖田が苦笑を浮かべて見た。
「奥沢の時も、そんな風だったのでしょう?」
「・・・別に、誰かれ声をかけておるわけでは・・・。」
なぜか言い訳っぽい言葉が出てしまう。
「お人好しと言うか、おせっかいと言うか。」
沖田がおかしそうにそう言った。
「別に、新しい患者さんが来れば医院の利になるだろう?」
「はいはい、そう言う事にしましょう。」
沖田はそう言うと、意味あり気な顔をして微笑んだ。
「兄さん、ちょっと良いか?」
土岐がそう言えば、優し気な瞳が土岐を見上げた。
「何にかぁーらん?」
不思議そうに男の目が土岐を見上げる。
おっと。この人の言葉、土佐弁?
「あーー、実はな。私は花屋町通りで医者をしている、土岐と申す。」
「花屋町通りの医者?」
ピクリと男の眉が上がった。
「そうだ。大きな世話かもしれないが、見た所兄さん、右足を痛めておるのではないか?」
「どういてそう思う?」
「いや、歩いている姿勢を見てね。それに私の連れも気付くくらい右足を庇ってる。もしご迷惑でなければ、診させていただくが。」
いや、うん。わかってるよ。相当なおせっかいを焼いてる事くらい。結構迷惑な気もする。
「いや、えいよえいよ。こんくらい、何とかしちゅう。」
「いや、しかし。」
「えいって。それに、甘味以外の金を持っちゃーせん。」
迷惑そうに言った男がふぅ、と息を吐いた。
「・・・先生。」
沖田が後ろから「だから止めた方が良かったのに」的なニュアンスをこめて呼ぶ。
「金は、あなたが私の治療に納得したら支払う、って事で良い。」
なぜかしつこい土岐に、男は呆れた様に土岐を見上げていたが、フッと口元を緩めると先ほどとは違う柔らかい表情になった。
「医者ゆうても、こじゃんと居ゆう。・・・おまんはどうろうな?」
「ん、どう言う意味だ?」
「わしは土佐の今井ゆうもんだ。ほんだらおまんの診立てに乗っちゃろう。」
先ほどまで嫌がっていた男がなぜか、乗る気になったらしい。
結局相当な痛みがあった今井は、沖田と土岐の肩を借りて花屋町通り医院まで向かったのだった。
程なくして、松吉に連れられて見覚えのある男が診察室へと入って来た。
「こんにちは、今井さん。・・・いや、長岡さんと言った方が良いのかな?」
土岐は椅子から立ち上がると、長岡に手で椅子を勧めた。
松吉が会釈をして退室する。
長岡は椅子に無言で座ると、そのままガバリと頭を下げた。
「ご無沙汰しゆう、土岐先生。無礼の数々、まっこと申し訳ないき。どうか許してつかぁさい!」
突然の長岡の謝罪に土岐は素でびっくりした。
「えっ、いや、良いよ別に。私もちょっと強引過ぎたし。」
相変わらず癖が強い天パの頭を見ながら、土岐はふぅと息を吐いた。
「自分が医者ゆう身分を隠し、先生の治療をちくと見ちゃるゆうつもりで付いて行ったき・・・。」
「ああ、そんな感じはしていた。」
そう言った土岐の顔を伺う様に見た長岡は、また頭を下げた。
「すまん・・・。」
「いや、もう良いと言っただろ?・・・以前酢屋でお仲間に聞いたが、確かに私も長岡さんと同意見だ。ここには碌な医者がおらん。だから私が長岡さんと同じ立場なら、絶対に嫌がったと思う。私の方こそ強引過ぎた。押し売りまがいで申し訳なかった。」
土岐はそう言うと、長岡に向かって頭を下げた。
診察室でお互いに頭を下げている2人を第三者が見たら、きっと変に思われただろう。
「ほんだらこれでおあいこ、ゆう事だな。土岐先生。」
顔を上げた土岐を、長岡は興味深い目で見ていた。
「そうだな。」
「では、こちらが2回分の治療代だ。一回目は土岐先生がわしを連れて来た。他の2回はわしの意思でここに来た。」
長岡はそう言うと、小さな巾着袋を土岐の机に置いた。
「長岡さん、あんた言葉・・・。」
「土佐言葉も武家言葉もどちらもできんとな。わしの親父殿は藩医だった。」
「なるほど。」
なんか、すっごい違和感・・・。
言葉が変わるだけでキャラが変わる気がする。
これは確実にバイリンガルの域だ。土佐弁、未だに良く解ってないから大体で意味を把握してる。
「ときに先生、どちらで医術を学ばれたのだ?」
突然の質問に、思わず言葉が出ない。
「横浜のウィリス医師のもとで。」
一貫している嘘を、長岡にも伝える。
もうこれ、本当にウィリス医師と繋がりを付けた方が良い気がする。突然手紙を出したら、さすがに大事になるだろうか?周囲にバレたらどこで英語を学んだのか?と。
土岐がそんな事を考えていると、長岡は自らの経歴をサラッと言った。
「なるほど。私の師は長崎の二宮敬作先生だが、先生の師はシーボルトというドイツ人の医師だ。」
「シーボルト?」
そう呟いた土岐の頭にはシーボルトが描いたという植物のスケッチの数々が思い浮かんだ。
あれ?あなた確か大阪や江戸に遊学してたんじゃなかったっけ?
って言うか、え?シーボルト???
ポカンとした顔をしている土岐に長岡が尋ねるように話しかける。
「土岐先生、シーボルト先生をご存知で?」
「ああ。名前だけは。」
「なるほど。・・・それで先生、ここからが本題なのだが、わしの足の治療の説明を細かくしてもらえぬか?」
「治療の説明を細かく?」
「ああ。」
頷いた長岡の目は期待した様に楽しそうだ。
「説明を聞いてどうするんだ?」
「今後の参考にな。」
「噛み砕いて言わんが、それでも良いか?」
「ああ。」
長岡は聴く気十分だ。
土岐は額に手を置いて大きく息を吸ってから静かに吐き出すとおもむろに説明をはじめた。
「長岡さんの右足の怪我は、右足関節の内反捻挫だった。足関節の捻挫で最も多く見られる捻挫だ。酷い場合は腓骨の遠位端骨折を伴うこともあるが、それは無いと判断した。主に前・後距腓靭帯と踵腓靭帯の損傷がみられ、軟部組織の炎症と共に出血や浮腫が見られた。捻挫の治療は早ければ早い程良く、基本的にはRICE(Rest, Icing, Compression, Elevation)処置を行った。あの時、サラシで巻いて台の上に置いた冷たい井戸水の中に足を突っ込んで仰向けに寝てもらっただろ?あれだ。その後は嶋田先生の湿布と固定で絶対に足首を動かさぬ様に固定した。」
そこまで一気に説明した土岐が長岡を見れば、呆気に取られた様な顔が土岐を見ていた。
「浮腫が落ち着いたら、今度は圧痛の確認とROM、可動域の改善や周囲の筋肉の筋力の確認。足関節をまたぐ筋肉だから、前面にある前脛骨筋、長指伸筋、長母指伸筋と外側にある第三腓骨筋、長腓骨筋、短腓骨筋の腓骨筋群。特に長短・腓骨筋は外果の下の伸筋支帯を腱が通るから収縮した際の痛みの確認は大事だ。ああ、それと酷い捻挫は近位脛腓関節の問題も大抵合併するので合わせて確認する必要がある。近位脛腓関節の問題に関して特に脛骨神経支配の下腿三頭筋は確認しておくべきだ。以上だけど、面倒なので質問は却下で。」
「すまんが、訳が解らぬ。」
「申し訳ない。だと思う。今の要点を簡単に言うと、ようは患部を強く押さえて冷やして持ち上げて寝てろ、って事だ。」
「それは、随分と乱暴な物言いではないか?もっと細かかった様に思うが。」
長岡が訝しそうに土岐を見る。
土岐は1つコホンと咳払いをすると、長岡を見ながらゆっくりと口を開いた。
「まず基本は臓物にしろ筋にしろ、正常解剖を覚えるべきだ。その為には正解な情報をもとにした腑分けが必要になる。今私が言った内容は、膝から下の腑分けの内容だ。どこの何が障害されているのか、外から見ても中身が頭に入っていればある程度触診でも想像ができるだろう?」
画像が撮れないこの時代、触診と言う手先の感覚はとても大きな診断材料となる。それには解剖学が必要不可欠だ。聴診、打診、触診、脳神経や脊髄神経などの神経学検査、内臓からの関連痛領域、そして患者への問診。平成時代では画像診断のウエイトが大きくなり省かれつつあるが。
「確かに、そうだな。・・・エゲレスがそれほどまでに医術が進歩しておるとは知らなんだ。」
いや、イギリスじゃないんだけどね。
土岐はそういう長岡に肩をすくめてみせた。
そもそも筋肉の名前だって、今の時代に日本語になっているのかさえ知らない。
「土岐先生は、エゲレスの言葉は?」
「どうかな。ほんの少しなら出来るかもしれんが。」
ぶっちゃけ私の英語はアメリカ訛りが強い。英語圏の初対面の人達からは大抵「アメリカに居たの?」と聞かれる事が多かった。そんな言葉を喋ったら絶対に怪しまれる。この時代の日本人でアメリカ訛りの英語を喋るのはジョン万次郎やジョセフ・ヒコくらいだと思う。多分。
土岐の言葉に長岡が満足そうな顔をして頷ずく。
「わしの遠縁に坂本ゆう男がおるが、この男がまた変わっておってな。」
「遠縁の、坂本さん・・・?」
「ああ。わしの父、今井孝順が坂本さんの継母の縁者でな。坂本さんとは遠縁に当たる。」
「へぇ。・・・でも何で長岡さんは坂本と言う人の事を私に話すんだ?」
心なしか、いや〜な予感がする。
「その内、土岐先生にも紹介する事があるやもしれん。」
長岡の言葉に、土岐は思わず勢い良く椅子から立ち上がった。
土岐が座っていた椅子がゴトリと音を立てて動く。
長岡は驚いた様に立ち上がった土岐を見上げた。
土岐の頭には、あるCEOの男性の顔とソフトバ○クのロゴマークが思わず浮かぶ。彼が坂本さん信者なのは有名な話だった。会社のロゴを海援隊のロゴと同じにしちゃうくらいに。
いや。坂本と言う名字は特別変わった名字ではない。
「すまない、長岡さん。やらねばならん急用を思い出した。しばらくは京都におられるのか?」
立ち上がった土岐につられて長岡も立ち上がる。その身長は土岐よりも5cmは低いだろうか。
「いや、また長崎に戻る事になるやもしれん。わしと繋ぎをつける場合は、土佐藩の田中にゆうて貰えば良い。」
「ああ、あの田中さんか。」
頷きながらも思わず年老いて勲章を着けた軍服姿の田中さんが頭に浮かぶ。
長岡はいつも持ち歩いている長刀を杖の様に立てると腰へと差し込んだ。
「ご足労をおかけした。門まで送ろう。」
「ああ。」
土岐は長岡に並ぶと先立って廊下を歩き、上がり框で草履を履いた。
うーん。やっぱり、さっきの坂本って人はあの人なんだろうか?
いや、でもな・・・。
門までの距離を長岡と土岐は並んで歩く。
長岡が土岐を見上げているが、土岐は考え事をしていてその視線に気付かない。
土岐の喉元を見ていた長岡が、ふと口角を上げる。
「ほいたらの、土岐先生。」
長岡は土岐に向き合うと右手を差し出した。
土岐は無意識にその手を掴み、条件反射で握手をした。
途端、長岡に手を引かれた。
「うわっ!」
思わずそう声を上げて長岡に倒れ込む。
「そういやあ、あん時一緒におった男は新選組の沖田やか?ほんで先生はなきに男の振りをしゆう?」
耳元でそう聞かれ、思わず背筋がゾクリとした。
長岡の胸を押して身体を離した土岐は長岡から少し距離を取る。
別れ際のこれは反則だろ。聞くならもっと前に聞けば良いのに。
長岡の行動よりもその言葉にムッとした土岐は、自分より目線が下の長岡を睨んだ。
「さぁ、宗次郎はどこの宗次郎だろうな?それに、一介の町医者である私が男か女かは大した問題ではない。」
開き直った土岐の態度に長岡の表情がフッと緩む。
「シェイクハンドも知っちゅう先生は、がけに面白いゆうことやき。龍馬もきっと興味を持つろう。ほいたらまたの、せんせ。」
長岡はそれだけ言うと、軽く会釈をして踵を返した。
「ちょっ、長岡さん!今、龍馬って・・・。おいっ!!」
長岡は振り返る事なく花屋町通りを東へと歩いて行った。
龍馬って、聞き間違いだよね??
もーーー、シーボルトとか龍馬とか、勘弁してくれーー!!
長岡謙吉は坂本龍馬のブレーンでもあり、龍馬亡き後の海援隊を背負っていく男だが、この時の土岐はもちろんそんな事を知る由もない。




