雨
降り続く雨音は先ほどから変わらない。
「すまないが、そろそろ帰らないと医院の者が心配する。申し訳ないが、暇する。」
土岐は目の前の2人に視線を向けると、おもむろに切り出した。
「そりゃ、構わねぇが。・・・この雨の中、帰るのは難儀じゃねぇか?」
土方が眉間にシワを寄せて言った。
「ああ、土方さんの着物はお返しして、私の作務衣に着替えて帰るので問題ない。」
「いや、俺の着物が濡れるのは別に大した問題じゃねぇ。」
土方は少し呆れた様に言って立ち上がると、箪笥の引き出しを開け、何やら取り出すと土岐の目の前に差し出した。
土岐はそれを不思議そうに受け取ると、土方の顔を見た。
え、これって・・・。
「懐中合羽と草鞋だ。何かと遠出する事もあると思って買っておいたものだが、これがありゃあちったぁ違うだろ。先生の草履は、今度山崎にでも持たせる。」
懐中合羽は文字通り、携帯用の雨合羽だ。この時代の懐中合羽は桐油を和紙に塗布したもので、広く一般に使われていた。
「土方さん、土岐先生には傘を渡した方が良いのではないか?」
今まで黙っていた山南が土方に言う。
「いや、先生の事だ。作務衣に着替えて草鞋と懐中合羽がありゃあ、一っ走りで一番早く医院に着くんじゃねぇか?」
土岐は走って帰ろうと思っていた事を土方に言い当てられて、思わず土方を凝視した。
私はこの人にランニングの事は伝えてないはずだ。
その土岐の驚いた様な表情を見た土方が、訳知り顔で言った。
「山崎から、土岐先生は飛脚の様に走る事が好きだ、と聞いている。昔は雨の中、合羽を被ってまで走った事があったんだろ?確か、ここから大阪くらいまで走った、と言っていたが・・・。」
土方の顔には半信半疑と言う表情が見てとれた。
そりゃ、この時代の人にしてみたら、何の用事もないのに雨の中を長距離走ると言ったらきっと変人扱いされるだろう。しかも、その走る資格を得る為に抽選という名の富くじに当選しなければ走りたくても走れない。平成時代には東京マラソンの倍率は10倍だとも言われていた。そして見事当選したら、一分銀4枚程を支払うのだ。今は超インフレだから、一分銀が4枚。平成時代では1万円だ。いや、全く走らない友人からは何で一万円も払ってわざわざ苦しい思いをするの?と言われた事はあるけれど。
以前雨の中のマラソン大会でビニール合羽を着て走った事を、適当にこの時代の事のように山崎さんに話した事がある。山崎さんはそんなことまでこの人に報告している、と言う事か。これからは喋る内容をそれなりに気をつけた方が良さそうだ。
山崎さんは優秀だ。何か違和感を感じれば、どんな事も直ぐに土方さんに報告するだろう。
だからなるべく山崎さんとは勉強以外の世間話しを控えてはいるけれど。
気を付けよう。
「ここから大阪、ですか。そりゃまた凄い。」
山南が、感心したように土岐を見てそう言った。
「いえ、そんな大した事では・・・。私は馬に乗れんので、急患だと言われればそうせざるを得ない事もままある。」
ただのマラソン大会の話を、何故そんなにしてまで走ったのかと聞かれては面倒だ。
土岐は適当な理由を付けてそう言った。
「へぇ、流石は花屋町通り医院の若先生だ。」
土方さんの感心した言い方が少し皮肉めいて聞こえるのは、私のこの人に対するイメージがそうさせるんだろうか。
何にしろ、これ以上話しをすればどこかでボロが出るかもしれない。
「すまないが、急ぎ着替えて出立したい。襦袢はそのまま借りていても構わないだろうか?」
「ああ、構わねぇよ。」
短く答えた土方が、立ち上がった土岐を見上げる。
「有り難い。では、少し失礼する。」
本当は別室で着替えたいけれど、この際仕方がないか・・・。
土岐はそう言うと、山南と土方に背を向け、手早く帯を解くと作務衣の下を取り出してサッと履いた。水に少し濡れた作務衣は、ちょっと気持ち悪いけれど仕方がない。そのまま着物を脱ぎ、今度は上着を着ると、手早く紐を結ぶ。
スマホの入った巾着を懐にしまい、腰に鉄扇を差して土方の着物を畳み、2人の方に向き直った。
そんな2人は当たり前の様に座って土岐の方を見ていた。
何が悲しくて、それほど知っている訳でもない男性の前で2度も着替えなきゃいけないわけ。
思わず土岐はため息をつきたくなるのを我慢した。
「土岐先生。」
山南が土岐が足元に置いた草鞋と懐中合羽を手に取り、立ち上がるとそれを土岐に渡す。
「山南さん、かたじけない。」
土岐が軽く山南に頭を下げると、土方が廊下側の障子を開けて外に出た。
「先生、門まで送ろう。」
土方はそう言うと、1人先に歩き出した。
「本当に、大丈夫ですか?」
山南は再度確認するように土岐の顔を見て言った。
「はい。ここから花屋町通りは歩いても四半刻あれば着くと思う。」
土方の後を追う様に、土岐と山南は廊下を歩いた。
土岐は上がり框に腰掛けると、草鞋を履いて紐がほどけない様に念入りに括った。
草鞋を履く事は普段余りないけれど、これを履くと南米のタラウマラ族を思い出す。彼らは古タイヤから独自にサンダルを作り、その薄っぺらい手作りのサンダルを履いて険しい山中を駆け抜けると言われる。いわゆるベアフット・ランニングというやつだ。
この時代には、木綿の刺子足袋や革足袋はあったものの、ゴムなんて手に入らないので地下足袋はない。大体が足袋に草鞋となる。
土方に貰った合羽を広げて背中に被り、前で合わせて取れない様に紐でキツく結ぶ。
見た目は違うけれど、ポンチョの様なものだ。
合羽の下は作務衣の為ゴワゴワするが、この際贅沢は言えない。
軽く足踏みをして、草鞋の感触を確認する。
贅沢を言えば、雨避けのサングラスと帽子が欲しいところだ。
編笠では走れないし・・・。
土方が傘を差し、土岐が立ち上がるのを待つ。
山南も傘を差して土方の隣に立った。
「土岐先生、門までだが。」
土方はそこで言葉を切ると、土岐へと傘を傾けた。
「土方さん?」
土岐には土方の意図が掴めていない。
「土岐先生、土方さんは傘に入っては?と言っておるのだ。」
山南が苦笑しながら思わずフォローを入れる。
え?なに。門まで傘に入れてくれるの?
土岐の表情を見た土方の眉間に皺が寄る。
「必要ねぇなら、構わねぇが。」
土岐はその土方の様子に、思わず口元が緩んだ。
土岐がサッと土方の傘に入れば、途端に雨音がパラパラと大きく感じる。
「本当にあなたは。ギャップ萌え、って言葉が思い浮かんだのは二度目だ。」
「ぎゃっぷもえ?」
土方がたどたどしい口調で土岐の言った意味不明であろう言葉を復唱する。
あの、鬼の副長と呼ばれた男から「ギャップ萌え」と言う言葉を聞く事になるとは。
「ふふっ、そうです。どうやら新選組の親切者は松原さんや山南さんだけじゃないらしい。」
直ぐ隣でイタズラっぽい表情をした土岐が土方を見てそう言えば、土方は苦い顔をする。
「ふん、俺にそんな事を言う奴ぁ、ここには居ねぇよ。」
「まぁ、素のあなたは元来親切なんでしょう。ここにいなきゃ、きっと懐の深いカリスマ経営者にでも成ってそうだ。」
実際平成時代にこの男がいたら、ニュースウィークやアエラ辺りで特集が組まれたりしているのかもしれない。スーツ姿も似合いそうだ。
「先生の使う言葉は、どうもよく解らねぇところがあるが・・・。」
「悪い事は言っておらん。」
「それは、何となく解るが・・・。」
説明する気のない土岐に、土方は何とも言えない表情をした。
雨は未だに強く、隣にいる山南さんにはこちらの会話は聞こえていないだろう。
この中を医院まで走ると思うと気合が必要だ。
門番の隊士に会釈をし、門の外まで出ると坊城通りに2つの傘が並ぶ。
「まだ雨が強い。気を付けてください。」
隣の山南が大きな声でそう言った。
土岐は山南に向いて大きく頷いてみせた。
「さて、では行きますか。」
気合いを入れる為に独り言のように呟く。
隣の土方が気にかけたような視線を土岐に向けているが、土岐は気付かない。
「では、山南さん、土方さん。失礼する!」
土岐は2人に聞こえるよう大きい声でそう言って、土方の傘を出ると、一気に坊城通りを南に向かって駆け出した。
「おい、先生!!医者が風邪引くんじゃねぇぞ!!」
背に土方の声を受けた土岐は口角を上げると、振り向く事なく右手を頭上に上げ、大きくピースサインを出した。
「二、とはどの様な意味だろうか?」
山南がボソッと呟く。
「ったく。相変わらず訳わかんねぇな。」
土方が小さく声を漏らす。
山南と土方の2人は、小さくなって行く土岐の後姿を暫しの間見送った。
「確かに、先生は飛脚の様に速かったな。」
山南が上がり框に腰掛けて足を拭きながら思い出した様に言った。
「・・・ああ、そうだな。」
「しかし、土方さんが珍しいな。・・・何か、先生に引っかかるところでもあるのか?」
山南の言葉に、土方は思わず難しい顔をした。
引っかかる、と言う事じゃねぇ。医院自体はかなり自由奔放だ。長州方と付き合いがあったと解っても、驚きはないだろう。さもありなん、ってところだ。
かと言って、黒い噂1つ聞かねぇ。俺達から何か情報を得ようとする気配もねぇ。今回だって、先生に何の得がある訳でもねぇのにわざわざ俺達に助言をしてきた。確かに動けない隊士が増えていたのは頭の痛い問題だった為、先生の助言は正直助かる。
「引っかかる、ってのが悪ぃ事ってんなら、そうじゃねぇ。あの男は損得で動く男じゃねぇだろう。」
「へぇ。あなたがその様に言うとはね。」
感心と驚きを含んだ声で言った山南を軽く睨む。
「だから先生は困るんだ。つい」
ーーー素になっちまう、と言う言葉を飲み込んだ。
何にしろ、何かあれば土岐先生近辺の情報は山崎から上がってくるだろう。
「まぁ、そう言う既知がいるのも良いのではないか?鬼の副長を怖れず、同輩とも部下とも違う。懇意にしておる女子とも違う。」
土方の飲み込んだ言葉をまるで聞いたかの様に、山南は土方を見ながらそう言った。
相変わらず難しい顔をした土方が、思い付いた様に言った。
「そう言やぁ、山南さん。土岐先生が来た事を総司には内密に頼む。後で知ったら煩せぇからよ。」
両足を拭きながら土方が言う。
「ああ、承知した。」
山南はその様子の沖田を思い浮かべ、苦笑をしながら自室へと引き上げて行った。
「しかし、先生もよくこの雨ん中を帰ったもんだ。」
土方は未だ降り続く雨と灰色の空を見上げると、山南同様に自室へと戻って行った。




