A hectic day
慣れっていうのは怖い。
当初は怖くて仕方ないと思っていた事にも、いつの間にか慣れてしまった。
以前は仕事で血を見ることはなかった。全くなかったと言っていい。
それが幕末に来て、随分と血を見ることも多くなった。私は注射を討たれる時もそこを見るのが嫌いだったし、自分には血液恐怖症でもあるんじゃないかと思っていた。
ところが、金瘡で運ばれて来た人達を嶋田先生をアシストしながら夢中で治療していた時、ふと、自分には血液恐怖症は無いんだとはっきりした。感染症はずっと気になってるけど、ゴム手袋なんてこの世に存在しないから仕方ない。
いつの間にか治療により自分の両手が血に染まり、血液の匂いが部屋に充満していても、怖いと思う気持ちは全くなかった。
怖いと思う余裕が無かった、と言う方が正しいかもしれない。とにかく、必死だった。
大体、漢方医だと言うこの医院に金瘡で運んで来る人達もどうかと思うけれど、この時代、何処へ連れて行っても行う事は大きく大差ないと考えれていたのかもしれない。
自称「医者」のヤブ医者で溢れかえっていた時代だ。
かく言う私も本当は「医者」じゃないし。
「すまぬっ!!!誰か医院の方はおられぬか!!」
建物の外から男性の大きな声が聞こえ、お香代が診察室を飛び出して行った。
お香代が出ていくと、2人の男が立っていた。
待合室にいた数人は、訝しげに2人を見ている。
「連れが刀傷を負っておる。直ぐに診て貰えまいか?」
先ほどの大きな声と変わり、ボソリと周囲に聞こえない様に男が言った。
お香代が待合室を見回し、頷くと医院の奥へと早足で向かった。
男はもう一人の男を支えてお香代の後を付いて行った。
お香代と男2人が処置室に入ったと同時に、土岐が部屋に入って来た。
「お香代さん、状況は?」
「はい、こちらの男性が金瘡を負っております。」
お香代が真剣な眼差しで土岐に告げる。
「兄さん、悪いけど、着物を脱がせるよ?・・・お香代さん、縫合準備をお願い。それで、どんな状態で切られたの?」
土岐は手早く男が着ている着物を脱がせながら、淡々ともう一人の男に聞いた。
「壬生狼3人に囲まれ、我らは逃げ出したのだが、こいつは逃げる時に背中をやられた。」
男は絞り出す様に応える。
この人たちの仲間の何人かは、もしかしたらその場で亡くなったのかもしれない。
「・・・っく・・・そっ。・・・壬生狼の、・・奴らめ・・・。」
傷を負った男は悔しさと苦しさが混じった様な声を出した。
「なるほど。で?この近くで斬り合いになったのか?」
「いや、少し離れてはいたが・・・。」
「後を着けられてはいないな?・・・逃げ切れたという事は、相手は追って来なかったんだろ?」
男はそうだという具合に頷いた。
「追っては来なかった。壬生狼の一人は『沖田組長に伝えろ』、と言っていた。あいつらは、きっとあの沖田の組のものだ。」
その言葉に、一瞬土岐の手が止まる。
沖田、さん?
普段の彼からは想像がつかないが、沖田さんは敵方から相当恐れられていたと聞く。
「あんたら、よく逃げ延びれたな。運がいい。ちょっと手伝ってくれ。この人をうつ伏せに寝かせるよ。」
言って3人で男をうつ伏せに寝かせた。
お香代が土岐の両手に焼酎をかけて消毒をする。
「で、兄さん、自分の名前は言えるか?あなたはどこの誰だ?」
お香代が傷をLEDライトで照らし、土岐は傷を細かく確認しながらピンセットに挟んだ真綿を強い焼酎に浸し、消毒を行っていく。
傷は右肩甲骨内側から袈裟懸けに走っており、背骨をかすめて左腰部へと達していた。走りながら切りつけられたのが幸いにして、深い傷ではない。この分なら肋骨の骨折もないし、臓器を傷つけられている可能性もない。
「長州・・藩、田辺・・・達之進・・・。」
うつ伏せの男が絞り出すように名前を言った。
「長州の田辺さん、か。それにしても、よくうちの医院に来る気になったな?ここは倒幕派だろうが佐幕派だろうが、分け隔てなく診るところだぞ?ようするに、長州だろうが新選組だって診る、ってことだ。」
土岐は傍に立つ男性を見て言った。
そう言われた男は、眉間にシワを寄せて土岐を見る。
土岐はそんな男を無視して田辺へと視線を落とした。
「よし・・・みた所、傷は浅い。浅いけど、かなり裂けてるし筋肉も傷ついていて出血もある。このままきれいにして縫合するよ。」
お香代さんが生食と新たな真綿を土岐に渡すと、今度は傷口を綺麗に拭っていく。何度か真綿を変えて拭うと、今度は針に絹糸を通して手に持った。
「麻酔がないから痛みが強い。お香代さん、えっと、あなたはーーー。」
「私は、高階という。」
「では、高階さん。二人とも田辺さんをしっかりと抑えていてくれ。」
そう言うと、土岐は田辺の口に布を噛ませると、淡々とした表情で躊躇することなく傷へと針を刺していく。
いっそのこと、気絶してくれたら楽だとも思うが、田辺へ終始身体を硬直させながらも縫合の痛みに耐えた。
「よし、終わった。傷は化膿する可能性も高いから、こまめにサラシを変えて消毒を行う。あんたらにはしばらくここに入院してもらうよ?」
「入院?」
高階が理解できないと言うように土岐に聞いた。
「うちに泊まってもらって傷を治してもらう。」
「だか、そんな迷惑をこちらにかけるのは」
高階の言葉を土岐が遮った。
「勘違いしないでいただきたい。田辺さんは医院の患者だ。もちろん、タダじゃない。田辺さんにはしっかりと医院に治療代を支払ってもらう。それに、高階さんにもしっかりと働いてもらおう。」
「しかし、壬生狼がこちらに御用改めをするやも・・・。」
高階は心配そうに土岐に言った。
高階の心配は最もだろう。怪我を負った不逞浪士が逃げた方向にこの医院があれば、新選組が御用改めを行う可能性は高い。
「田辺さんはうちの患者さんだ。この医院は患者の情報は他人には漏らさない主義なんだ。」
土岐は真面目な顔で高階にそう言うと、田辺を見下ろした。
「田辺さん、よく痛みに耐えたね。・・・本当に凄いよ。今日は熱が出ると思うが、しっかりと食べるものを食べて休めば大丈夫だろうと思う。」
「かた・・・じけ、ない。」
田辺はきつそうにそう言うと、うつ伏せのまま動かなくなった。
「おいっ、田辺!!」
高階が焦ったように田辺に声をかける。
「高階さん、問題ない。気を失っただけだ。田辺さんを別の部屋に移すから、一緒に運んでくれ。医院の奥の部屋を使う。」
花屋町通り医院には、基本的には「入院」をする患者はいない。
だいたいが通院患者か、もしくは往診を行っている。
だが、今回の様なケースでは客間を入院スペースとして使ったり、他人に知られたくない患者は医院の奥の部屋に入院させる事があった。
この、「奥の部屋」にはテーブルやベッドが置かれ、ベンチの様な椅子も置かれており、土岐が来てから使いやすい様に内装を変えていた。
椅子と大きいテーブルが置かれた部屋には嶋田、松吉、お香代、土岐が席について座っていた。
テーブルには一つのカルテが置かれ、土岐がそれを説明する。
「急にミーティングを入れてすいません。今日『入院』することになった男性についての報告です。」
土岐は3人の顔を見ると、患者の説明をしていった。
「患者は長州藩士、田辺張之進、25歳の男性。右肩甲骨内側から腰椎2番あたりにかけての刀傷があり、これを縫合しました。本人の体力次第ですが、ひどい感染症を起こさない限り、問題はないと思います。付き添いがおり、同じく長州藩士、高階亮之助。この者には、田辺さんの身辺の手伝いと医院の手伝いをしていただく。・・・ただ、この傷を負わせた人たちが新選組の1番組らしく・・・。御用改めで新選組がうちに来る可能性も否定できない。そこで、先手を打っておきたい。・・・松本良順先生に、一枚かんでいただく。」
土岐は一通り説明し終えると、テーブルについている3人の顔をみた。
「土岐さん、その松本は幕府の御典医ですよ?わざわざ長州の者と知って、力を貸すのは立場上難しいのではないですか?」
「嶋田先生、松本先生から局長の近藤勇に何かの折に一言言って貰えば良いのです。『あそこの医院は私の大事な友人の医院でね。評判が良いからと忙しくしており大変だよ。』とでも。」
「それが、御用改めとどう関係するのですか?」
松吉が最もな事を聞いてきた。
「新選組局長の近藤勇は松本先生の事を尊敬し、頼りにする。歴史上、いつ頃松本先生が近藤勇と知り合うかはわからないですが、数年して新選組が屯所を移転するときには松本先生も隊士の健康管理に尽力される。局長の近藤は、松本先生をことの他尊敬するんですよ。その先生からここが大事な友人の医院だと言われたら、確実ではないにしろ、おいそれと手は出さないと思います。近藤勇とは、そういう男だと思うので。それに今後、松本先生は筆頭組長の沖田さんに目をかけるようになる。」
土岐のなぜか自信を持っていう言葉に、話を聞いていた3人はなんとも言えない表情で土岐を見た。
「なるほど。それで、松本には何と言うのです?」
嶋田がため息をつく。
「松本先生には、私から適当に申し上げます。」
「土岐せんせ、適当って・・・・。」
今まで黙っていたお香代が呆れたように言った。
「それから、もう一つ。新選組の山崎丞さんにはうちの医院に来てもらい、私が知っている医学知識を教えます。以前、副長の土方さんからお願いをされていましたし。前に嶋田先生にはお話したと思いますが、この機会にお越しいただこうかと。」
あえて新選組の隊士を医院に招くという事に、松吉は怪訝な顔をして土岐をみた。
「土岐先生、それはいくら何でも危険ではありませんか?もしバレる様な事があれば・・・。」
「松吉さん、ばれなければ問題ないでしょう?奥の部屋へは普通では入れない。医院の内部を見せた方が、向こうも安心するというものです。御用改め問題を回避するには一番の得策かと思います。・・・ただし、彼は新選組の監察方でもあります。かなり優秀な人物だと思われるので、注意は必要ですが。」
土岐は3人の顔を見回した。
「とは言え、これは私個人の考えですし、医院にとっても不利益となる可能性も十分にある。皆さんの同意が得られなければ、この話はなしです。」
お香代と松吉は難しい顔をして嶋田と土岐を見ている。
「我らにとって、御用改めはちょっと面倒だ。土岐さん、ここはね、あなたが来る前から誰でも利用できる医院だったんです。我らが色んな人物を診ているというのは、ある意味周知の事実でもある。ただ、幸運な事に今までは御用改めの対象となり得る事件はなかったんだよ。」
嶋田が困ったように言った。
その後ゆっくりと目を閉じて大きく息をついた嶋田は、意を決したようにはっきりと口にした。
「では松吉、お香代、土岐さん。ここは土岐さんが先ほど説明した通り、やってみようじゃないか。」
嶋田の言葉に、お香代と松吉は覚悟したように頷き、土岐は思わずふぅと大きく息を吐いた。
そう言ってはみたものの、責任重大だ。絶対に失敗は許されない。
「土岐さん、頼んだよ。」
「はい。善処、致します。」
嶋田からの強い視線に、土岐はゆっくりと頭を下げた。
ーーー机の上には特別患者を示す丸で囲まれたSの字が書かれ、カルテの端には「T」と書かれた付箋が付いており、大きく「TANABE Tatsunoshin」とアルファベットで書かれたカルテが置かれていた。
土岐が来て以来、今までカルテがなかった医院はカルテを導入した。その際、すべての患者の名前はアルファベット表記することで統一した。
問診票や身体チャートは、版画師に原板を作成してもらい、紙さえあれば医院で印刷をすることが可能になった。カルテ棚には全てのカルテがアルファベット順で並んでいる。
嶋田先生、松吉、お香代さんにはアルファベットとローマ字を覚えてもらったけれど、思いの他すんなりと覚えてしまった3人を見て、感心したのを土岐は覚えている。
カルテを作った場合、一番怖いのは患者の情報が外に漏れることだった。特に倒幕派の人たちのカルテは、患者本人もこの医院自体をも危険にさらすことになりかねない。
それを見越してのアルファベット表記だった。




