壬生の屯所にて
沖田と土岐は店を出て、坊城通りと綾小路の辻で立ち止まった。
前川邸はこの店の目と鼻の先だ。
先ほどの松原や土方が使っていた坊城通り沿いにある八木邸側の裏門ではなく、沖田は綾小路に面する表門から屯所に入るつもりらしい。
門の前に立つ隊士に会釈をすると、沖田と土岐は、そのまま門の中へと入っていった。
この前川邸は、八木邸と比べて敷地面積が広い。
中に入れば角屋同様、左斜めに向かって伸びた石畳を歩き、式台付きの武家造りの屋敷が目に入ってくる。
私たちはそのまま屋敷には上がらず、庭を歩いて小さい扉をくぐり、一番奥にある建物へと歩いた。
この建物は、前川邸の一番南側に位置しており、上がり框を上がれば、廊下のすぐ右手には3畳ほどの控えの間があり、そのさらに南側には4.5畳、八木邸側には6畳間が2つあった。
綾小路の門をくぐって入った直ぐの屋敷が前川邸では一番広く、こちらも組長や平隊士が使用しており、大勢で集まる際は南の庭に面した8畳二間の広間を使っていた。この8畳のうち、八木邸側にある8畳間の床柱には平成時代にも当時の刀傷が残っている。
沖田と土岐はすれ違う隊士たちに会釈をしながら奥の建物へ入り、そのまま廊下を突き当たると一番奥の部屋の前まで来た。
「土方さん、沖田です。」
特に悪びれたり遠慮をする風でもない沖田が声をかけ、土岐はその隣で静かに立っていた。
「入れ。」
なんとも不機嫌そうな声で、部屋の主から声がかかる。
その声に反応して沖田が障子を開けて中に入ると、土岐もその後ろに続いて部屋の中に入った。
その部屋は6畳間で、そこには箪笥が置かれており、文机を置いた状態で大人3人が入るには圧迫感を感じるスペースの部屋だった。
ここは土方さんの自室?
土岐はそんな事を考えながらも文机から一向に振り向かず、背中を向けている男をじっと見つめた。
「土方さん、私と客人がいるというのに、その態度は失礼ではありませんか?」
沖田は振り向こうともしない土方に咎めるような調子で話しかけた。
いや、沖田さん。私たちは謝罪しに来たんだよ?
土岐は思わず隣に座る沖田を信じられないものでも見るように見た。
「何バカな事をいってやがる。だいたい俺はおめぇと、さっき一緒にいた隊士の事を、・・・。」
土方は後ろを振り向きながらそう言って、土岐の姿が目に入ると思わず言葉を切った。
「あんたは、うちの隊士じゃねぇな。」
土方が怪訝そうな顔をして沖田と土岐を見る。
「先ほどは離れていたので私の顔がよく見えなかったのだろう。私は花屋町通り医院で医者をしている、土岐と申す。」
土岐はそう言うと、ゆっくりと頭を下げた。
「あんたがそうか。俺はここの副長の土方だ。そういやぁ、前に角屋で会ったな?」
土岐が頭を上げて土方を見れば、土方は思案しているような表情をして土岐を見ていた。
「そうだな。あのとき、廊下で会ったな。しかし、先ほどは失礼した。大分お怒りの様子だったが。」
土岐がそう言うと、土方は呆れた様に大きくため息をついた。
「おおかた、総司があんたを巻き込んだんだろう?隊士に間違えてすまなかったな。」
「いや、その様な事は良いのだが。」
土岐は困った様に沖田を見た。もっと怒鳴られると思っていた土岐は、なんとも肩透かしをくらった感じだった。怒鳴られなければ、それに越したことはないけれど。
「土方さん、すいませんでした。どうしてもこれを土岐先生に見てもらおうと思って。」
その沖田の言葉に土方は沖田を睨む。
「少しだが、見せていただいた。その、成り行きとは言え、大切にしていた句集を見てしまい申し訳なかった。」
土方の怒りがそれほど大きくなさそうだと思った土岐は、沖田の謝罪ついでに謝ってしまおうと思った。
「いや、もう終わった事だ。総司があんたに句集を見せたいと思ったのは、もしかしてあんたは句に精通しておられるのか?」
「は??」
思いもよらない土方の言葉に思わず土岐はポカンとした。
句に精通?とんでもない。句なんて全く知らない。それこそ、百人一首か源氏物語でちょこっと覚えているものがあるくらいだ。とはいえ、俳句は小林一茶くらいしか知らない。
助けを求めるように沖田を見れば、沖田は何やら期待を込めた目で土岐を見ていた。
私にどうしろと?
「・・・そうだな。残念ながら、私はそれほど句には詳しくはないが。あなたの、うくひすやはたきの音もつひやめる、という句は私も共感する。あの鳴き声を聞けば、何かをしていても知らずと手が止まるものだ。それに、恋とは永遠のテー・・・、題材だ。人の陥る心情を、端的に表現したのが知れば迷い、の句だと思う。」
それほど覚えるのは得意ではないけれど、土方の句は全体的にシンプルで、土岐は覚えていた句の感想を述べた。
土方はそんな土岐を真剣な顔をして見つめていたが、満足気な顔をするとしっかりと頷いた。
「そうか。土岐先生にはその良さがわかるのだな。土岐先生には好みな恋の句はあるのか?」
なんで恋限定??恋の句に思い入れがあるから、知れば迷いの句を丸で囲んでいたの?こちとら幕末来てこのかた、恋なんてものにはお目にかかっていませんが?
目の前の土方はきっと凄くモテる事だろう。なんといってももらった恋文を何通も里に送りつけるくらいだ。
土岐は若干冷めた表情をしながらも、頭の中にある記憶を手繰り寄せてゆっくりと口を開いた。
「嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は、いかに久しきものとかは知る。」
ない。これはないな。自分で言っておいてなんだけれど、そもそも私は待ってるタイプじゃない。好きになった人がいたら、自分から告白する方だ。中学生の時に百首全て覚えた中から、この歌が咄嗟に頭に浮かんでこれ幸いと口にした。
「それは?」
土方が興味深そうに土岐を見る。
「百人一首はご存知だろう?その中の一首です。あなたが来てくださらないことを嘆き哀しみながらひとりで夜をすごす私にとって、夜が明けるのがどれほど長く感じられるものか、あなたはいったいご存じなのでしょうか。こんな状態になったら思い悩んで寝不足になりそうだが。」
「恋とは、そういうものなんだろう。」
土方は納得したように頷く。
いや、これ確か女性の句だし。
土岐はやはりチラリと沖田を見て助けを求めた。
「土方さん、句の話はこの辺にしませんか?また日を改めて存分に土岐先生と句の話をすれば良いでしょう?」
土岐の視線を受けた沖田が、やっと土方と土岐の話に加わった。
い・や!!しません。私はしません!!
土岐は心でそう念じると、沖田を「何言ってんの、この人?」という目付きで睨んだ。
「まぁ、そうだな。土岐先生、今日はわざわざ来てもらってすまなかったな。句集の事は、まぁ、その、気にしないでくれ。」
土岐との会話が満更でもない様子の土方は、今日初めて会った時よりもすこぶる機嫌が良さそうに見えた。
「ああ。」
土岐はなんとも複雑な気持ちでそう返事をした。
「そう言えば、土岐先生のところの医院はなかなかの評判の様だが、それを見込んでお願いしたい事がある。」
ちょっと思いついた、という様子で土方は土岐を見た。
土岐は横にいる沖田を見たが、沖田も不思議そうな顔をして土方を見ていた。
「なんだろう?」
土岐は怪訝んな調子で土方に聞いた。
「組には医術が得意な隊士がいるんだが、そいつを先生のところで時間がある時にでも見てやっちゃくれねぇか?」
「見る?」
「端的に言やぁ、そいつに先生の知ってる医術を教えて欲しい。うちは常に生傷が絶えねぇからな。浜崎先生のところに世話になっちゃあいるが。」
土方の態度は上からというよりも、土岐に対してお伺いを立てる様な様子だった。
土方のその言葉に、土岐は考えるようにしながらもゆっくりと頷いた。
「そうだな。嶋田先生にも一度確認をするが、問題はないはずだ。少しでも怪我人の助けになるのなら。」
土岐はそう言うと、真面目な顔で土方を見た。
「ありがてぇ。おい、総司。今日はあいつは屯所にいるはずだ。ちょっと呼んできちゃくれねぇか?」
土方が沖田にそう言えば、面倒臭そうに沖田が立ち上がった。
「今日は私が土岐先生と非番を共にしていたんですけどね。」
不機嫌そうに土方にそう言いつつも、沖田は渋々と部屋を出て行った。
沖田が部屋を出て行くと、必然的に土岐と土方の二人が部屋に残ることになる。
とりたててお互いを知っている訳でもなく、土方自体もそれほど喋る方ではないし、土岐もいろいろとボロが出るのを避けてあまり土方には話かけようとしなかった。
その沈黙が、なんとも二人にとっては重かった。
「先生は、よく角屋には足を運ぶのか?」
沈黙を先に破ったのは土方の方だった。
「よく、ではないが、一月に1回ほどは行っておるかもしれん。大体が嶋田先生と一緒だが。」
「あの日もそうだったのか?」
「ああ。あの日は星が綺麗だったな。あの刻に、あそこからはオリオンがきれいに見えた。」
土岐は思い出すようにそう言った。もちろん、一緒にいたのは嶋田ではなく、長州の面々なのだが。
「おりおん?」
土方が不思議そうに土岐を見て呟いた。
「ああ。土方さんは、星には星座という名前が付いているのを知っているか?」
「いや。」
「星座とは、星を点で結んで人や動物、物の形にしたものだ。オリオンとはギリシャ神話、西洋の神話に出てくる人物の名前で、海の神ポセイドンの子供とされるとても強い男の名だ。ただ、自分が強いと驕り過ぎて、後にサソリという蜘蛛に似た形をした虫の毒針に刺されて死んだとされている。・・・南の空に浮かぶオリオンは太古の昔からそこに存在していて、これから先の世でも変わらなく存在しているんだろうな、と思うと感慨深くてな。」
「へぇ。土岐先生は南蛮の事にも詳しいんだな。」
「詳しい程の知識はないよ。ただ、エゲレスの医師が持っていた本を読んだことがあるだけだ。」
土方の問う様な視線を受けて、適当な事を言った。
「土方さん、入りますよ。」
部屋の外から沖田の声がかかり、沖田はそのまま障子戸を開けると部屋の中に入った。
「副長、失礼します。」
そう言って沖田の後ろに一人の男性が続いた。
土岐はそれを受けてさらに部屋の奥へと移動した。先ほども大人3人でも結構狭かったのに、今度は4人になった。もうなんだか圧迫感を感じる。
「おう、山崎、こちらは花屋町通り医院の土岐先生だ。」
土方が入ってきた男性に土岐を紹介した。
え、山崎?新選組の山崎という隊士で、医学に精通している人って・・・。
「お初にお目にかかります。私、山崎丞と申します。」
山崎はそう言うと、深々と頭を下げた。
土岐は思わずその男性を見つめた。
新選組諸士調役兼監察の山崎丞。土岐が平成時代にいた時から興味を持っていた人物であり、会えるものなら会ってみたいと思っていた歴史上の人物だ。
幕府の御典医だった松本良順の手記に、その人物像が記されている。
少し色黒で、整った顔立ちの男。物事には辛抱強く取り組み、口数は多い方ではない。また口も硬く、土方や近藤からの信頼も厚かった。医家出身の次男で割と早い時期から新選組に入隊しており監察方の筆頭で頭もキレ、何かと重宝されて短期間で副長助勤になった男だ。そして、新選組の屯所が西本願寺に移転した際には松本良順から医術を学び、「我は新選組の医者なり!」と言って周囲を笑わせたと言うのエピソードは有名だ。
つまるところ、土岐の中での山崎丞のイメージは、幕末における出来る男ナンバー1だった。
そんな人物が目の前にいれば、自然とその人物を凝視してしまうのは仕方がないことだろう。
山崎はゆっくりと顔を上げると、無言で自分を見つめる土岐と自然と目が合った。
何も言葉を発しない土岐に、周囲も不思議に思って土岐を見た。
「土岐先生?どうされました?」
山崎の隣にいた沖田が、不思議そうに声をかけた。
「先生、山崎の事を知ってるのか?」
土方も、少し驚いた様に無言で山崎を見つめる土岐に声をかけた。
当の山崎は、少し困惑した様な表情を浮かべていた。
「あ、いや。不躾に申し訳ない。山崎さんが少し知人に似ておったのでな。花屋町通り医院の土岐と申す。よろしく。」
土岐はそう言うと、山崎に向かって軽く頭を下げた。
「山崎、お前ぇの時間がある時に土岐先生のところで医術を教えて貰えるように話をした。まだ最終決定じゃねぇが、改めて土岐先生から連絡がある。その様な心算でいるように。」
「はい。」
土方の言葉に山崎は短く返事をすると、土岐に向かって軽く会釈をした。
なんて言うか、私の持ってたこの人の印象はもっと温厚で表情豊かな人物だった。いや、もちろん見たことがないから勝手に持っていた印象だけれど。でも、ちょっとふざけて「自分は新選組の医者だ!」って言っちゃうくらいの人だから、もっとこう・・・。
初対面の山崎さんは、どちらかと言うとあまり感情を表に出さない様な人物に思えた。
「山崎、花屋町通りの医院に出入りする様になったら、医院の様子を報告しろ。あそこの評判は確かに良いが、誰かれ構わず治療すると聞く。誰かれ構わず、だ。言ってるこたぁ解るな?」
「ーーはい。」
2人向き合って座った部屋には、外の庭で大きな声で話しをする隊士達の声が響いていた。




