A letter
長州の3人のことについて、その後嶋田先生から何か問われる事はなかった。
実は内心少し、いや、かなり気にしてはいた。以前長州藩邸から帰った時はかなり怒っておられた。
しかも、今回は3人の男を自室に泊めたのだ。
あの朝、本当は松吉さんも「男を泊まらせて何を考えてるんだ!」と問いただしたかっただろう。
それでも、自分の中では長州の面々と浪士組とのトラブルを回避できたことで、一種の安心と根拠を持った行動だったと自己完結させていた。
その後も嶋田先生は何時もと変わらずだった。
そんな中、暑さの残る夏の夕方、医院の仕事が終わった私たちは早い夕餉を取り、嶋田先生が珍しく一緒に酒を飲もうと言うので快諾した。
風呂も入って自室で寛いでいた頃、嶋田先生は酒とお猪口を二つ持って土岐の部屋へとやってきた。
暑さで開け放たれた障子戸の前で、嶋田は土岐に律儀に声をかける。
「土岐さん、失礼するよ。」
「嶋田先生、どうぞ。」
土岐はお猪口と酒を受け取ると、それをテーブルの上に置いた。
そして特注で作って貰ったクッションを嶋田へと渡すと、自分も同じ物を下に敷いた。
香炉からゆっくりと細い煙を立ち上らせた白檀の香りが部屋に充満していた。
嶋田は本棚に置かれた香炉に目を向けながら、寛いだ調子で土岐に話しかけた。
「どうやら長いこと、土岐さんとこうして話をする事がなかった様に思う。・・・こちらの暮らしは不自由ないか?」
嶋田は二つのお猪口に酒を注ぐと、酒瓶をゆっくりとテーブルに置いた。
「はい、お陰様で。あちらこちらで知人も出来ましたし、地の利も明るくなりました。」
「・・・そうか。先日の長州藩の方々も、そうか?」
土岐はこの時初めて嶋田に彼らの事を聞かれた。
嶋田はお猪口を一つ土岐に渡し、自分もそれを手に持つと軽く献杯した。
土岐もつられて献杯する。
「はい。本当に残念な事に、彼らは京都を追われてしまいましたが。またこちらに戻ってくる事もあるでしょうが、それは浪士組の取り締まり対象となるでしょう。大手を振って町を歩けぬのは、難儀なことでしょうね。」
そう言って一杯目のお猪口を空ける。
「そう言えば、土岐さん。その浪士組だが、最近”新選組”と名が変わったそうだ。」
「え、新選組、ですか?」
嶋田の言葉に、土岐は思わず目を見開いた。
浪士組から新選組に名前が変わってから、何か事件が起きたんじゃなかったっけ?
って、全く覚えてないけれど。
「聞いた事があるのか?」
嶋田はそんな土岐に確認するように聞く。
「はい。新選組の名前は、先の世でも知っておりましたから。」
土岐は幕末に来て以来、嶋田や松吉、お香代にも「歴史」の話をした事はなかった。あえてしていない、と言っていい。思えばこれが、初めてかもしれない。
「・・・そうか。」
嶋田は短くそう応えた。
「嶋田先生。先の世では、今、この時代の事を幕末、と呼ぶのです。」
「幕末?」
「はい。幕府が終わる時代、という事です。」
そう伝えても、嶋田は驚いた表情をしなかった。
「そうか。」
ただ一言、それだけの言葉が返ってきた。
聡い嶋田先生の事だ。歴史など知らなくても、世の中の流れというものをしっかりと読んでいるのかもしれない。海外列強からの再三に渡る開国要求は、もはや無視できるようなものではないのだ。それに対する幕府の対応が、なんともお粗末な事は私でも解る。
「ところで、土岐さん。あなたには女子の友人はおるのか?」
嶋田が唐突にそうに聞いた。
「いえ、残念ながら、友人と呼べる女子はおりません。恋仲になろうと文をくれる者はおるのですが・・・。」
土岐は少し寂しげに答えた。
「それでは辛かろう?女子同士、他愛もない話をするのもたまには必要だ。」
「はぁ、それは解っておるのですが、いかんせん女子の格好を今更するのも問題ですし。」
土岐は困ったように笑った。
「ならば、お香代はどうだ?」
「・・・はい?」
嶋田は土岐の目を見ると、フッと微笑んだ。
「お香代がな、あなたを心配しておる。医院に来てからというもの、あなたはずっと男として生活しておるだろう?それでは女子として、あまりにも不憫だと申してな。」
お香代さん。松吉さんの彼女で、よく気が付く働き者。見た目は可愛らしくて、女の私が見ても素敵な女性だと思う。思えば困ったことがあれば、男性に相談し辛い事は全てお香代さんに相談していた。
「そう、ですね。お香代さんは私には勿体ないくらいの人です。」
「ならば決まりだな。明日にでも非番を取って、お香代と昼餉でも食べておいで。」
あらかじめ決めてあったかの様に嶋田はそう言った。
「それは有難い申し出なのですが、私と出歩いてはお香代さん、松吉さんがいるのにと勘違いされるのではありませんか?」
土岐が心配そうに言えば、嶋田はなんでもないことの様にサラリと言った。
「そんなもの、あなたが女子の格好をしておれば問題なかろう?」
「えっ?」
嶋田先生、何かとんでもない事をサラッと言ったよ。私が女子の格好をしたら、それこそ女装した変な女子に見えるような気がする。それにこの身長だし。私、164cmは身長あるよ?
「心配は要らん。お香代がな、秘密裏にあなたの着物を用意しておってな。たまには女子の格好をして町を歩いておいで。最近は物騒だから、松吉も供に連れて行けば良い。」
これは、グッと来るぐらい嬉しい。お香代さんが私の事を心配してくれているのが解る。まさか着物まで作ってくれているなど。嶋田先生も、きっと私の事を心配してくれてのこの提案なんだろう。嬉しさに、目には少し涙が滲んだ。
「それでな、土岐さん。」
「はい。」
「あなたは、どこぞに好いた者はおらんのか?」
「・・・はい?」
今までの流れから、何でそういう話になるんだろう?
私は思い切り怪訝そうな顔をしていたと思う。
それでも嶋田先生は、何かしらの返答を待っているようだった。
「残念ながら、好いた者はおりません。そりゃ、恋仲が居たら良いなと思いますし、歳を考えると非常にまずいとは思ってますよ?でも、今の私ではきっと付き合ってくれる男子はいませんよ。何と言っても私は、花屋町通りの若先生、ですから。」
土岐が苦笑しながらそう言うと、嶋田は少し寂しそうな表情をした。
「そのように、諦めたように言うものではない。まぁ、鼻っぱしが強いところはあるが、あなたは十分魅力的な女子であるし、女子と分かれば男共は放っておかんだろう。」
そういう嶋田先生は、どこか確信めいた様に言った。
魅力的なんて言葉、言われたことあったっけ?
少なくとも、アメリカではあったかもしれないけれど、日本で言われた事なんてなかった気がする。
うわ、何だか今の嶋田先生の言葉、恥ずかしいな。
土岐が照れていると、嶋田がフッと笑った。
「土岐さん、あなたにな、文が届いておる。」
嶋田の言葉に、土岐は困った表情になった。
「もしかして恋文、とかではないですよね?」
今まで生きてきて、ラブレターを貰ったことなんてなかった。
それが幕末へ来て、もう何回も恋文を貰っている。
これがモテキだと言うのなら、どんなに良いだろう。
残念ながら、全て女子からだが。
嶋田は土岐の表情を読んで苦笑すると、一通の文を懐から出すとテーブルの上に置いた。
「少なくとも、この字は女性の字ではないと思うよ。」
その言葉に土岐は文を素早く取ると、宛名を読んで裏返した。
もしかしたら、長州の彼らかもしれない!!
差し出し人の名前が書かれていないため、そのまま急いで中身を取り出すとその文の内容をすっ飛ばして最後に書かれている名前を確認した。
そこには、宗次郎、と書き記されていた。
ーーー何だ、栄太郎達ではないのか。
がっかりした気持ちを無視して、最初から手紙を読んでいく。そこには自分が新選組の沖田総司であること、最初に会った時に身分を言わなかった事への謝罪、屯所での些細なことから甘味屋へ行く日にちの事が書き記されていた。
そして、土岐は文のある一点で目を見開いた。
ーーー私がなぜあなたを甘味処へ誘うのか、きっと変に思ったことでしょう。この様な事を言うのはおかしいと重々承知しております。性別も顔も背格好も違うあなたはしかし、雰囲気が私の姉上に似ておるのです。何とも懐かしさを感じ、あなたをお誘いした次第ですーーー
彼は新選組一番の剣豪と後世に伝わっているし、筆頭組長を勤めている人物だ。
きっと色んな意味で鋭い。その内女子だとバレるかもしれない。
まぁ、その時はその時だけど。
「何か、驚く様な事が書かれていたのか?」
嶋田が土岐の表情を読んでそう聞いてきた。
「新選組の、沖田さんからでした。」
そう言って土岐は文を嶋田へと差し出した。
個人宛の手紙を第三者に見せるのは憚られるし、普段なら絶対にしない。けれど、今回だけは書いてある内容を嶋田先生にも知っていて欲しいと思った。この文を見れば、沖田総司という人物を少しは理解できると考えたからだ。
嶋田は片眉を上げると文を受け取り、内容に視線を落とした。
「なるほど。彼は巷で言われておるほど、冷酷非道な人物ではないのかもしれぬな。・・・では、土岐さん。沖田殿には会いに行くのか?」
「そうですね。指定された日に、一度沖田さんとお話をして来ようと思います。」
私はそう言って嶋田先生を見た。
「そうか。」
嶋田は穏やかな声でそう言うと、お猪口の酒をゆっくりと飲み干した。
「特に心配することはないと思うが、・・・用心に越したことはない。気をつけて行ってきなさい。」
嶋田はそう言うと、空になった酒瓶とお猪口を盆の上に乗せゆっくりと立ち上がった。
土岐はなんともなしに、嶋田を見上げる。
「それでは土岐さん。お香代さんには土岐さんが了承したと伝えておくよ。邪魔したね。」
嶋田は相変わらず穏やかに言うと、土岐の部屋を出た。
「嶋田先生、色々とありがとうございます。・・・おやすみなさい。」
土岐は慌ててそう言うと、頭を下げた。
「おやすみ、土岐さん。」
嶋田は土岐をチラリと見て一言だけそう返すと、お盆を持ったままゆっくりと廊下を歩いていった。