Afterwards
土岐は恐怖を感じながらも、目の前の久坂を睨み付けた。
彼らは過激な活動をして来た。
きっと人殺しもして来ただろう。
けれど土岐は、自分が殺されると言う事に何故か現実味を感じなかった。
「・・・あなたは、衆道か?」
土岐は思ったよりも、低くて落ち着いた自分の声に内心驚く。
「なに、先生が後ずさったのでな。逃さぬ様にとしたまで。」
久坂は睨み付ける土岐の瞳を見つめ返した。
「殺される可能性があると言うのに、逃げない方が馬鹿だろ?」
先ほど飲んだ湯飲みの酒のせいか、段々と頭が熱くなる。
「ならば後ずさるのではなく、この部屋から逃げ出せばよかろう。」
久坂はなおも土岐の目を見つめていた。
何かわかんないけど、段々ムカついて来た。
そもそも、この目の前の読めない表情がムカつく。
ポーカフェース気取りですか。
大体、なんで私が恐怖を感じてこんな思いをしなきゃいけないんだ。
話がしたいからお酒飲みながら語ろう、ってことだったんじゃないか。
土岐は俯くと、右手を握りしめた。
久坂の後ろでは、吉田が深いため息をついた。
そして少し呆れた様な声音で久坂に言った。
「おい、久坂。おぬし一体」
ドンッ!
と音がして、久坂が思わず尻餅を着く。
そのまま胸を押さえると、ゴホゴホと咳き込んだ。
吉田は言葉を止め、有吉は目を見開いた。
土岐は右の拳を久坂の胸骨にまっすぐ突き出した。
「なぜ私が自分の部屋から逃げねばならん。そこ、Conceptional Vesselの17番。胸の苦しさや嚥下困難、胸の痛みの時に刺激入れるとこ。そこに侵害刺激入れたら、力抜けるだろ?」
土岐はそう言うと、驚いた顔をして尻餅をつく久坂をそのままに、そろそろと立ち上がる。
今、土岐が何を言ったのか、誰も理解していなかった。
そして呆気に取られた表情をしている吉田と有吉の元まで来ると、湯飲みに半分ほど酒を注いだ。
それを一気にあおると、どっかとそこに座り込む。
「土岐、先生。酔っておるのか?」
吉田がなぜか伺う様に言った。
「は?そりゃ何時もより酒飲んでんだ。酔ってんじゃないの?」
ぶっきら棒に答える土岐に、吉田は困惑した顔をする。
「おい、久坂。おぬし大丈夫か?」
有吉が久坂を気遣って立たせようとするが、久坂はふらついて上手く立てない。
有吉は久坂の両脇に腕を入れ、ベッドの脇まで引きずると、そこに背中をもたれさせる様に座らせた。
「すまぬ。」
久坂が静かに言う。
「久坂、酔っておるとはいえ、おぬしは悪ノリし過ぎだ。この様に童のごとくふざけてどうする。」
吉田は久坂をたしなめるように言った。
「それに、我らは先生を殺す気などない。・・・だが、先生が知っている藩の事を誰かれ構わず喋られては困る。」
硬い表情をした吉田が土岐を見据えて言った。
そんな吉田に土岐は口角だけ上げる。
「簡単に誰かに話せる話じゃないでしょ。もし誰かにしたら、私が浪士組にしょっぴかれる可能性があるじゃん。」
すっかり口調が変わってしまった土岐を訝しく思いながらも、吉田は土岐の言葉に頷いた。
「久坂さん、患者を診る立場の私があなたに危害を加えるのは反省しなきゃいけない事だけれど、今回の事は悪いと思ってないからね。ただ、もし。体調が悪いなら言ってくれ。」
土岐はベッドの脇にもたれる久坂に鋭い視線を送りながらそう言った。
久坂は、確かに酒に弱い。だが、この様に悪ふざけをする男ではない。
吉田はふと隣で不機嫌そうに久坂を睨んでいる土岐を見た。
浴衣を着た土岐は、少し線が細いように見えた。後ろで束ねられた髪によって、細い首筋が見える。
吉田は藩邸で土岐と分かれた時の事をふと思い出していた。
その時の自分の思考がまた頭に浮かぶ。
ーーーいや、ありえんだろう。
吉田はその考えを否定した。
脅したかった事は事実。
さすれば、おいそれと藩の内情を話す事はなかろう。
決して仲間ではないこの人は、あの浪士組とも通じておる。
信用は、まだ出来ぬ。
だがきっと、真っ直ぐな人物ではあると思う。
久坂は自分を睨む土岐をぼんやりと見つめた。
それに、いま一つ確かめたい事があった。私とて医者の端くれ。近付けば分かると思ったが、身体に触れた訳ではない。
結局わからなんだな。
土岐はグッと伸びをすると欠伸をした。
先ほど一気に緊張し、酒も飲んでいるせいか、どっと疲れを感じる。
「悪いけど、眠い。先に寝るから、後は適当にやってよ。」
土岐はそう言うと、ベッドにもたれている久坂の横を通って布団に入り、薄綿入りのブランケットを頭からかけた。
「おい、お主はこの部屋のあるじであろう?!まったく、信じられぬ。」
有吉が呆れ返って思わずそう口にした。
3人の男は、ただ静かに土岐に視線を向けていた。
ほどなくして、ブランケットが規則正しく上下する。
「・・・土岐先生?」
吉田がはっきりとした声で土岐を呼んだが、土岐からの反応は全くなかった。
「寝たようだな。」
久坂が静かに言う。
吉田は土岐から久坂に視線を移すと、ゆっくりと口を開いた。
「では久坂、改めて藩の考えを細かく私と有吉に説明してくれぬか?お主の知っておる全てを、だ。このままでは藩の為にどのように動いたら良いか、判断できぬ。」
吉田が真剣な表情でそう言えば、有吉も久坂を見つめて頷いた。
「わしらは、共に吉田松蔭という師に学んだ同志だ。しかし、残念な事に軽率という我らの身分が邪魔をして、細かい情報がわしらには入って来んようだからな。」
有吉は先ほどの土岐と久坂のやりとりを思い出しながら、苦々し気にそう言った。
久坂は吉田と有吉を見つめると、諦めたようにため息をついた。
「もう隠しだてはせぬよ。したところで、何もならぬだろう?・・・だが、知らぬものには他言無用だ。」
先ほどの土岐のゲンコツで、なぜか身体の調子が変な久坂はゆっくりと座ったままテーブルまで移動すると、吉田と有吉の顔を見つめた。
「お主らも知っての通り、我ら長州は攘夷を断行すべく動いておるが、その実はーーーー」
久坂がゆっくりと話出し、吉田と有吉は一語一句逃さないように話に耳を傾けた。
お香代に呼ばれて一緒に土岐の自室まで行った松吉は、唖然とした。
土岐が比較的朝弱い事は知っていたし、その土岐を起こすのはお香代の仕事となっていた。
だがその日は、慌てた様子で自分を呼びに来ると、引っ張る様にして土岐の部屋へと連れて行かれた。
「お香代、嶋田先生には内密に。ここは私が何とかするよって。」
「せやけど松吉はん、バレるんは時間の問題やあらへん?」
「バレるんも、バレ方っちゅうもんがある。このままを嶋田先生に見せられんやろ?とにかく、香代は何時も通りに。」
松吉にそう言われたお香代はしっかりと頷くと、朝餉の準備に取りかかった。
それにしても、畳の上に浴衣を着崩して転がっておる男2人に、着物姿の男。
土岐先生は何事も無かった様に寝台に寝とる。
机の上には湯のみが4つ置かれ、酒瓶が転がっていた。つまみが入っていた様な容器も見受けられる。
ここで酒盛りでもしおったのか?
俺は思わずため息をついた。
昨夜、土岐先生が島原の角屋へ行ったのは知っておる。そこで長州の者と会うと言う事も聞いておった。
土岐先生の長州者の知り合いと言えば、あの丹虎で会ったあの男だ・・・。確か名は、吉田栄太郎。
「はよう起きとくれやす。もう朝どすえ!」
松吉は普段、努めて京言葉を使う様にしている。
その言葉に、畳の上に寝ていた男3人が飛び起きた。
3人は焦った様に周囲を見回し、松吉を見つけると姿勢を正した。
「確かお主は、松吉、と言ったか?」
浴衣を着崩した男が松吉に声をかけた。総髪のこの男には、寝ぐせが付いている。
「これは吉田殿。一体これはどう言う事か、説明してくらはりますか?」
松吉は3人の男に厳しい視線を送りながらもそう問うた。そして寝台に目を向けると、そのままズカズカと部屋の中に入って行った。
「若せんせ、ええ加減に起きなはれ!」
そう言いながらもブランケットを剥がしにかかれば、寝崩れた浴衣からは大腿が露わになっており、慌ててブランケットを戻す。
松吉は焦りながらも、無遠慮に土岐の頭を手で叩いた。
「若せんせ!!お連れは皆はん起きてはります!!」
松吉が土岐の耳の傍で大きな声を出すと、土岐はゆっくりと目を開けた。
そのまま直ぐ隣にいる松吉にゆっくりと視線が移る。
その瞬間、ハッと息を飲んだ土岐はガバリと上半身を起した。
「松吉さん。なぜ・・・。」
なぜ、ここにお香代ではなく俺がいるのか?という事なのだろうか。
「お香代は今朝、ここに来てます。そやけど、この状況を見たら誰だって驚きますやろ?」
松吉にそう言われ、土岐が部屋を見ると3人の男と目が合った。どうも、3人とも気まずそうな表情をしている。
そして土岐は昨夜の事を思い出す。
「松吉さん、これにはちゃんと事情があってだな。」
「そりゃ、ありますやろ。そやなかったらこないな事、許されんやろ?」
どうやらこの男は怒っておるらしい。一体なにが許されぬ事だと言うのか。
「失礼だが、我らがここに居るのがそれ程怒るような事なのか?」
1人だけ着物を着た男が口をはさんだ。
「あなたも、吉田殿の連れか?」
「長州藩の、久坂玄瑞と申す。」
男はそう言うと、軽く頭を下げた。
「わしは、長州藩の有吉熊次郎と申す。・・・昨夜は角屋で夕餉を頂いておったが、何分浪士組の者達が宴席を設けておってな。」
もう一人の男が名前を名乗り、簡単な事情を説明した。
「なるほど。」
松吉は有吉の一言で大体の状況を把握した。確かに浪士組の者に見つかっては、後が面倒くさい。長州藩邸まで戻るのも少し時間がかかる。となれば、島原よりほど近い医院で、という事になったのだろう。机に置かれている酒瓶や湯呑を見れば分かる。だが。
「許されん言うたんは、土岐せんせ。」
松吉はそこで言葉を切った。
ーーーあなたは、自分が女子だという事を分かっておるのか?もし女子だと気付かれたらどうするのだ?
そんな思いを込めて土岐を見つめる。
「はぁ・・・。」
そう言われ、その裏にある言葉を汲んだ土岐は思わずため息をついた。
「松吉さん、勝手に彼らを連れて来たのは謝る。家人である嶋田先生に断る事が筋だ。だが夜も遅く、寝ておる嶋田先生を起すのは憚られた。それに朝になれば嶋田先生に伝えようと考えていた。何も私は彼らを連れ込んで”遊んで”おった訳ではない。」
土岐はまっすぐに松吉を見つめると、きっぱりと言い切った。
「土岐先生のお陰で、我らも有意義な話合いができたのだ。」
吉田は松吉に向き、とてもすっきりした表情でそう言った。
ん?昨夜は何か有意義な話合いをしたっけ?私が藩の情報を知ってる、って事で壁ドンされた位だったような。あの後何か話合いでもしたんだろうか?
「もう、ええどす。お香代が朝餉の支度をしとる。はよう身支度を整えて、部屋まで来てください。」
松吉は諦めたようにそう言った。
「我らは嶋田先生に挨拶して、直ぐに暇するとしよう。直ぐに身支度を整えるゆえ。」
久坂が松吉と土岐に向かってそう言った。
「わかりました。ほな、朝餉の部屋で待っとります。」
松吉はそう言うとサッと立ちあがり、ちらりと土岐に視線を向けてから部屋を出て行った。
吉田も有吉もその言葉に頷くと、直ぐに着物と袴を手に取り、着替えを始めた。
土岐はタオルと作務衣を手に取ると、部屋を出ようとした。
「こちらで着替えればよろしかろう?」
久坂が土岐に声をかける。
「いや、少しやらねばならぬ事があるので。直ぐに戻る。」
土岐はそう応えると、足早に部屋を出て行った。
久坂と吉田は、そんな土岐の後ろ姿を見送った。
程なくして土岐が戻り、身支度が整った4人は朝食の部屋へと向かう。
そこには膳が4つ並べられ、上座には嶋田が座っていた。
事前に松吉から報告を受けていたであろう嶋田は、彼らが入室すると軽く頭を下げた。
部屋に入ってすぐの所で長州の3人は腰を下ろした。
土岐は自分の膳の前まで来ると、そこに座る。
「お初にお目にかかります。我ら、長州藩の者で久坂、吉田、有吉と申す。」
久坂が代表して自己紹介をした。
「私がこの医院の嶋田です。昨晩は、皆で医術に関する話し合いをしておったとか?何か得るものがありましたか?」
嶋田は穏やかに聞いた。
「はい。私は藩邸で藩医をしております。土岐先生の書物は素晴らしく、とても有意義な話し合いとなり申した。」
久坂がその問いに合わせる様に応えた。
「そうか。それは良かったですね。また機会があれば、何時でも来てください。」
嶋田はそう言うと、他の2人にも視線を向け、そして土岐を見た。
「土岐さん、門までお送りしてはどうです?」
「はい。では、ちょっと行って参ります。」
松吉が嶋田先生に適当に嘘を付いたんだろうか?訝しく思いながらも土岐は立ち上がると、部屋を出る。
「それでは、ごめんつかまつる。」
3人がそれぞれにそう言って、立ち上がった。
そしてそのまま土岐について廊下を進む。
「土岐先生、あの松吉と言う男はなかなかの男だな。」
吉田が関心した様に言った。
「ああ、そうだな・・・。」
松吉が嶋田先生に何と言ったかは分からない。でも、嶋田先生はきっと真相を知っている気がする。
門の前まで来ると、3人はそれぞれ土岐に向いて頭を下げた。
「では、またその内な。ヘマをして浪士組に捕まるんじゃないぞ。」
土岐は冗談で軽口を叩く。
3人はお互い顔を見合わせると、口角を上げた。
「ああ、我らはそのようなヘマはせん。」
有吉が冗談ぽく土岐に応えた。
「ではな。」
久坂がそう言って門を出る。
「また近い内に会おう。」
吉田がそう言ってニッと笑った。
「またな、先生。」
有吉が軽く言った。
そしてそれから数日経った8月18日、会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は尊皇攘夷派である長州藩と三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の7人の公家を京都から追放した。
これにより長州藩の人間は、京都において「指名手配犯」として公けに扱われる事になる。
「8月18日の政変って今年なのかよ。」
先日「またね」と言って分かれたばかりなのに。
「もーー、どうなるんだっけ、これから。」
ボソリと呟いてみても、誰からも返事はない。
本棚にある4つの湯のみを見ながら、土岐は深いため息をついた。