嶋原の角屋にて 3
「土岐です。戻りました。」
障子戸の外から声をかければ、ほどなくして吉田が障子戸を開けた。
「遅かったな、先生。」
「すいません。」
土岐は言いながらも席へと戻った。
菊野が気を効かせてお酌をしようとしたのを手でやんわりと断る。
周囲を見れば、3人とも程良く出来上がっている様に見えた。
「私は酔いが醒めたが、皆さんは大丈夫か?」
「問題ない。それよりも、先生ももう少し飲んだらどうだ?」
有吉がゆっくりと立ち上がると、土岐の膳の前まで来て腰を下ろした。
その手には徳利が握られている。
「熊さん、私はもう今夜は酒はいらない。」
「あ?何だ、先生はわしの酒が飲めんのか?!」
「だから、今夜はもう飲まんと言っただろう。」
土岐は自分の目線よりも上にある有吉の目を、下から睨みつけた。
ほんと、勘弁してよ。よくもそんな酔っ払いの定型文みたいな言葉がでるもんだな、と内心思いながら。
「有吉、もうその辺でやめておけ。」
隣にいた吉田が有吉の徳利を奪うと、自分のお猪口へとその酒を注ぎ、そしてそのままお猪口をあおる。
「そうだ。そんな事はどうでも良いから、早く帰った方がいいぞ?」
「土岐先生。それはちょっと無粋なもの言いだろう?わしらは酔いも回って気分も良いのだ。」
酔っ払っているであろう久坂が、土岐を見据えてそう言った。
「では帰るのが嫌なら、朝までここを出ない事だな。」
その土岐の言葉に久坂は片眉を上げ、吉田はため息をつき、有吉は土岐を睨んだ。
芸妓2人は心配そうな顔で土岐を見ている。
「なぜ?」
対面にいる久坂が静かに聞く。
「先ほど2階の廊下で知人に会った。彼らは扇の間を使っているらしいが、ここも2階だろう?何でも局長さんらしき人が手に負えない様で、副長さんが呼ばれていた。きっと組長さん達もいるんだろう。彼らは帯刀していてこちらは丸腰だ。人数的に見ても分が悪い。」
「土岐先生、浪士組の者と話をして来たのか?」
吉田が信じられないとでも言う様に言う。
「浪士組の者っていうか、以前たまたま診た患者が浪士組だった、と言うだけだ。」
「なるほど。」
久坂が納得した様に言う。
「では、帰るのか?」
土岐がそう聞けば、久坂はニヤリといたずらに微笑んだ。
「土岐先生、あちらが楽しんでおるのに、あちらを気遣って我らが帰るのは癪だろう?」
その言葉に、土岐は思わず呆れた顔をする。
「・・・子供かよ。」
思わずボソリと呟けば、菊野と吉田が思わず土岐を見た。
「菊野と茜は帰っても構わんぞ?我らに巻き込まれたら大事だ。」
久坂が芸妓2人を見てそう言う。
「へぇ。ほな、うちらはいとまさせてもらいまひょ。菊野。」
茜が菊野を促せば、菊野は不安そうな視線を土岐へと向けた。
土岐がにっこり笑って頷けば、菊野は頷いて三つ指を付くとお辞儀をした。
「ほな、ごめんやす・・・。」
そう言ってゆるりと立ち上がり、2人して障子戸の前でまた座ってお辞儀をすると、戸を開けてゆっくりと出て行った。
芸妓が2人居なくなるだけでこうも部屋が閑散とするものかと思うほど、部屋の中の色がもの寂しい。
芸妓やその着物の色が派手なのには意味があるのかと、初めてこの時に理解した。
「行ってしまったな。」
隣の吉田が残念そうな声で言う。
「じゃ、朝までここから出ない、って事だな。ま、夜明けは早い。その時にでも出れば良いだろう。・・・では、私もこれで失礼する。」
そう言って立ち上がれば、久坂が口を開いた。
「誰が先生も帰って良いと言ったのだ。こんな機はなかなか無いのだ。朝までまだ時間もある。ゆるりと語ろうではないか。」
えーー。早く帰って寝たいんだけど。
昔から貫徹は無理。絶対に途中で寝る自信があるよ。
「何も困る事はなかろう?」
戸惑った表情をした土岐に久坂が続ける。
「いや、あるな。ここの雪隠は極力使いたくないし、歯磨きもしたいし、ゆっくりと自分の布団で休みたい。」
「それだけか?」
久坂が目を細めて聞いた。
「逆に、それ以外何かあるのか?」
汗も沢山かいてるんだ。
それに、着物で寝転がるのは気が引ける。
「しかし久坂、浪士組が同じところに居るというのはまずいぞ。雪隠でも行ってでくわしてみろ。我らが長州の者だとバレたら面倒ごとになるぞ。」
吉田がしごくまともな事を言った。
「吉田のいうことは一理ある。久坂、ここは角屋を出た方が賢明ではないか?」
おお、熊さんも援護射撃をくれてるじゃないか。
「ようは久坂さん、私ともう少し話がしたい、って事だろ?だったら店を出て、家飲みで良いんじゃないか?」
「家飲み?」
久坂が理解してないという様に復唱した。
他の二人も首を傾げる。
「ああ。飲み会が終わっても、もうちょっと話たいからその中の誰かが自宅を提供してそこで飲み会の続きをする、という事だ。私の里ではたまにそういうこともあったな。」
土岐はコンビニに寄ってお酒を買い、つまみも適当に買って家で友人達と飲んだことを思い出していた。
「なるほどな。家飲み、か。」
吉田が納得したように言う。
「そう。雑魚寝になるだろうが、これだけ暑ければ風邪も引かんだろう。私の部屋を提供するが?」
本当は客間を使いたいところではあるが、夜遅くに共同スペースに彼らを招き入れて飲み会をするのもどうかと思う。かと言って、自分のプライベートスペースに男3人を招くってのも問題だけど。でも、私は対外的には男だ。
「わしは構わん。」
有吉が土岐に同意した。
「良かろう。先生の申し出を受けようではないか。」
久坂も納得した様に土岐の申し出に同意した。
「よし、では酒とつまみを徳右衛門さんにお願いして来よう。皆さんは、先に店の外で待っていてくれ。では、後ほど。」
「ああ。」
吉田が短く返事をし、後の二人は頷いた。
よし、これで後は彼らが角屋を安全で出るのみだ。
土岐は急いで階段を目指し、帳場にいる徳右衛門を見つけると、酒と簡単なつまみを用意して貰うように頼んだ。徳右衛門は快くこれを承諾し、新吉に頼んで調理場へと向かわせた。
徳右衛門は刀箪笥から土岐の小太刀を取り出すと、それを土岐へと渡す。
ほどなくして降りてきた長州の3人も、静かに徳右衛門から大小の刀をそれぞれ受け取ると、土岐の方を見て頷くとそのまま石畳を通って門の外へと消えていった。
よし、とりあえずあの人達が無事にここから出られた。
土岐は安堵して調理場の方を見た。
その時、階段からドタドタと足音がして、一人の男が降りてきた。
「あ、いた!!」
短くそう発せられた言葉に徳右衛門も土岐もそちらを向く。
そこには、祇園社から花屋町通りまで一緒に帰ってきた青年が立っていた。
徳右衛門が、土岐の前に出て土岐を隠すように立つ。
「角屋さん、申し訳ないですがちょっと退いて貰えませんか?私、その人に用があるんです。」
青年が訝し気にそう言った。
「いや、沖田はん。えろうすんまへんけど、この方は急いでおりますのんや。」
徳右衛門さんが、後ろ手に何やらジェスチャーの様なことをしている。
ん、何?早く出ろって事?
いや、出るも何も。
「いや、徳右衛門さん。酒とつまみは?」
そう言った土岐に、徳右衛門がぐるりと土岐の正面を向いた。
「おめぇ、何言ってんだ?!こんな時に!!」的な顔で睨んでいる様な気がする。
もしかして。徳右衛門さんは私が長州の先ほど出て行った3人の仲間だと思っているのだろうか。だとしたら、店主は必死になって私を浪士組から守ってくれようとしている訳だ。ああ、変な気を使わせちゃったな。
「あーー、えっと、徳右衛門さん。私とそこの宗次郎さんは知り合いなんです。」
土岐が少し困った様な顔で言えば、徳右衛門は信じられないという様な表情に変わった。
「土岐先生、ご無沙汰しております!先ほど、奥沢から土岐先生がこちらに居られると聞きまして。先生が居られただろう部屋まで行ってみたのですが、もぬけの殻で、慌てて降りてきたんです。」
あっぶな〜。部屋まで行ったんだ。
一部屋一部屋確認して行ったんだろうか?
もちろん、そんな事はお首にも出さず、宗次郎に微笑んだ。
「それは、ご足労をおかけした。」
土岐は軽く頭を下げる。
「いえいえ、良いのです。それより土岐先生、今度私の非番の日に甘味屋へ行きませんか?壬生から近いところに美味しい団子屋があるのです。」
彼が何故私とそんなに甘味屋へ行きたいのかはわからない。前回も、会って早々なぜか甘味屋へと誘われた。
そんな折、新吉が酒とつまみの入った小さい包みを持ってやって来た。
「土岐先生、おまっとさんどした。」
「新吉さん、ありがとう。」
土岐は酒と包みを受け取りながら新吉に礼をいう。
「さて、と。そうですね。そんなに宗次郎さんが美味しいって言うのなら、一度一緒に行ってみようか。」
土岐がそう言えば、宗次郎は満面の笑みを浮かべた。
「本当ですか!それでは、今度文でお知らせします。約束ですよ?」
「いいですよ。・・・それでは、宗次郎さん、徳右衛門さん。私はこれで失礼します。」
土岐はそう言って軽く頭を下げ、後ろを振り返ることなく角屋の門を出て行った。
「沖田はんと土岐せんせが知合いやったんは、知りまへんどした・・・。」
徳右衛門が小さな声で呟く様に言った。
「ああ、あの方と会うのは今日で2度目ですから。・・・何となく、私の姉上と似ておるのです。」
「沖田はんの姉上、どすか?」
徳右衛門は聞き違いかと思った。
「はい、姉上です。性別も背格好も顔も違うのですが、何というか・・・似ておるのです。」
土岐が出て行った門を嬉しそうに見る沖田の顔を見た徳右衛門は、ため息をつくと少し口角を上げた。
「なんや、せんせは不思議なお人や。」
ーーー心配したんは杞憂やったな。
「・・・そう、かもしれませんね。」
沖田はそう言うと、二階を見上げてため息をついた。
「今夜も芹沢さんが悪酔いして困ります。」
「それは、よろしゅうお願いします。」
徳右衛門が苦笑を浮かべて沖田に言った。
「まぁ、土方さんが何とかしておるので、大丈夫だとは思いますが・・・。」
沖田と徳右衛門がそんな会話をしているなか、外で待っていた3人の男と合流した土岐は酒とつまみを持って大門をくぐり、花屋町通りの医院へと向かっていた。
ーーー物事はノリとタイミング、って言ったのは誰だったっけ?
そうそう、人生とは選択の連続だ、だっけ?「選択の科学」にあったような、なかったような。
ともあれ、一歩間違えば大惨事になる事は日常に転がってるんだ。特にこの時代はそれが直接命に関わる。
あのタイミングで家飲み提案して良かった・・・。
そんな土岐の気持ちなど知らない男3人は、意気揚々と花屋町通りの医院を目指すのだった。