下
優しく打ちつける雨の中、濡女は娘と揃って傘もささずに、町の中を歩いていた。
「あまり、おれに付いて回るのは良くないんじゃないかい。君まで皆におかしな目で見られるよ」
雨の日に町を徘徊するのは、彼の習性の一つだった。娘は、それに勝手ながらも肩を並べてきただけのことである。
妖怪を恐れる人々はこぞって厳重な戸締まりの中にたてこもり、息を潜めて彼らが過ぎ行く時を待っていた。
「大丈夫ですわ。皆さまあたしが旅人と知って、あなたには興味本位で近付いていると考えてくださいますから。……実際、その通りなのでしょうし」
「しっかりしてらっしゃる」
そう言ってすぐに足を止めると、濡女は持っていた金魚鉢を曇天に向かって高く掲げ、しばらく動かなくなった。何となく、真上から金魚が降ってくるような気がしたのである。しかし、これはいつだって気のせいで終わってしまうことでもあった。
彼は雨が降るたびに、日中何度もこういった行動を繰り返していた。
「あなたは、どうしてそこまで金魚に拘るのです。人の生き方を捨ててまで」
その哀れとも言える性に娘が問えば、彼はまっすぐに雨を受けながら語りだす。
「昔、まだおれがほんの子供だった頃、親に連れられて行った祭に金魚すくいの出店があった。その水桶の中を泳いでいた一匹の黒出目金がいたく気に入ってね」
あの日、自分のポイへと吸い込まれるように泳ぎ寄ってきた出目金の、不思議に軽い手応えを、濡女は今でもはっきり思い出すことができる。彼はそれ以来、金魚の方でも自分に運命を感じたのだと信じていた。
「帰って金魚鉢に入れて見ると、黒蝶の片羽のような尾びれがまた美しかったよ。以来、どこへ行くにも金魚鉢を手放さなくなった。食事をする時は傍らに、寝るときには枕元に置いて、それはもう大切にしていたものだ」
しかしある雨の夜を境に、金魚は鉢を残して姿を消してしまった。暗闇に包まれた中で、雨足とは別に水が弾けるような音を聞いた彼が、床をぬけ出してみたときにはもう、金魚鉢に金魚の影もなくなっていたのである。家中を探し回り、夜が明けた庭の池まで降りてみても、死骸すら、見付けることは叶わなかった。
「だからきっと、あいつは夜の雨に溶けて、空まで昇っていったに違いないんだ」
「それで、お空ばかり見ていらしたのね」
「そうだよ。そうして長いこと、あいつを待ち続けていた。気付けば自分が妖怪扱いされるくらいにね」
ここには降ってこないと諦めたのか、腕を下ろした濡女は娘に顔を向け、微かに苦笑してみせた。
どこへ行っても人通りのない道を、ぽつりぽつりと進む二人に、無数の雫が流れていく。
「そう言えば君は前、おれにお連れさんのことを忠告してくれたね。あれは一体どういう訳だい」
いつもは柔らかいうねりを持っていた娘の髪も今日は水を浴びて重く垂れ下がり、疑問に答えようと上げた顔にべったりと張り付いたその隙間から、丸い瞳を覗かせる様は、目前の濡女よりもよほど濡女らしく見えた。
「あの人が、こうしてあたしをあなたの所へ遣わしているのは、どうしてだとお思いになりますか」
「君の子守りを任せるためだろう」
すると娘は、ふ、と小さく息を吐いて再び前に向き直り(濡女にはそれが笑ったようにも見えたのだが)、ほんの僅かばかり逡巡する様子を見せてから、口を開いたのだった。
「あの人は、あなたを欲していらっしゃるのです」
「それはまた、どうして」
「あたしを拾ってからというもの、あの人はこの世の外の世界へ興味を持つようになりました。あたしに例の目利きがあることを知ると、すぐにでも旅に出ようとおっしゃったのです。そうしてあたしたちは、世間からはみ出してしまった存在を、探し求める旅に出ました。濡女の可能性を秘めたあなたは、恰好の収集対象なのです」
ならばこの娘も、あの男の収集物第一号ということか。そしてそうでありながら、濡女が本当に皆の言う通りの妖怪であるのかを確認するために、こうして今も付き添っているということらしい。
いや、確認だけならばとうに済んでいるはずであるから、未だ『半端者』の彼を本物の濡女にすることこそが彼女の、ひいてはあの男の目的とするところなのだろう。
「おれはどんなに頼まれたって、この町を離れる気はないがね」
「それならば、無理にでも連れていこうとするかもしれません。何しろ人間が、それも男の方が妖怪になろうというのは、とても珍しいことなのですから」
「しかしどういうわけで君は、そんなくだらないことに手を貸しているんだい」
「あたしには拾っていただいている恩があります。それに、あなたが妖怪になった理由だって、充分くだらないと思いますわ」
娘のもっともな返答はけれど、自身の人間性を捧げてまで一匹の金魚を求めている彼には、全く理解することができなかった。
濡女の曖昧な直感のために度々立ち止まりはしたものの、休むことなく町中を歩き回っていた彼らを見つけるのに、例の男は大分手間取ったようだ。急速に接近してくる手提げ電灯の光に二人が気付いたのは、すでに足下さえ黒く霞んで見える時刻であった。
迎えか、と思う間もなく娘の前へと駆け寄ったその男が、傘の下でしきりに彼女の水を払いつつ、「おまえに倒れられでもしたら私は」と呪文のように繰り返す声を、濡女は黙って聞いていた。
次の日も、町は雨に覆われていた。それも昨日のように落ち着いたものではなく、砂浜のあちこちを延々と穿つ激しい雨だ。さすがに娘も濡女を訪ねてくることはなく、彼も浜を出ることはしなかった。そして翌日、更にその翌日にも、天気は変わらず荒れ続けたのである。
ついには砂浜にもいられないほどに海の水かさが増してしまい、濡女は腰をかけた堤防の縁から、ぶら下げた両足に波が強く打ち寄せる様子を眺めていた。ふいに、豪雨の中から何者かの気配を感じ、顔を上げる。そこには、あの娘のものと思われる大きな双眸と白い肌が、宵闇の中でぼうと浮かんでいたのだった。
「おや久しぶり。こんな時分に珍しいね」
「暢気なことをおっしゃるのね。ご自分が死の瀬戸際に座っていることも知らないで」
声をかけられた娘は濡女の傍らに歩み寄り、やはり、黒々とうごめく波を見下ろした。
「あなた、ここ最近の雨を鎮めるための、贄にされようとしているのですよ」
とうとう来てしまったか、と濡女は僅かに眉をひそめる。いわゆる人柱に近いものだろう、異常気象を水との関わりが深い『濡女』という妖怪の罪に仕立て、それを捕らえて処刑することにより、町の平穏を願う。
馬鹿な話だ、と彼は嘲り笑んだ。
「まあ、遅かれ早かれそんな日が来るとは思っていたよ」
「あなたはそれでよろしくて」
「そりゃあ死にたくはないがね」
「でしたらご安心なさいませ。あたしの思うところによりますと、あなたは人々からこれ以上ないほどの迫害を受けたその時に、本当の濡女として大成します」
それはつまり、迫害によって大多数の人間に気休めを与えることが、妖怪という存在の、一つの意義である、ということだろうか。
「それの何が安心だって?」
「あなたが真の妖怪になれば、あの人が黙ってはおきません。何かしらのお上手な手を使って、完成したあなたを命あるまま、旅路へ導くつもりでいらっしゃいます」
こちらの意図をまるで無視した発言に耳を疑い、睨んだ先の娘には、相も変わらぬ無表情があるばかりだ。
「おれには、ここを離れることがましとはとても思えない。どちらかを選べというなら、死んであの空に昇った方が、まだ金魚と再会できる見込みもあるだろう」
「勝手なお方」
勝手なのはどちらだ、と抗議を上げそうになる口を結び、濡女は少女に牙をむきかけた自分を恥じて苦笑する。
「そうだな。思えばおれはいつだって、自分のことしか考えてないんだ」
道の端からいくつもの光が見え始め、それと共に、怒りに奮える叫びが雨音に紛れ轟いてくる。
それまで諦観に呑まれていく濡女の一部始終を横目に窺っていた娘は、やがてこらえていた何かを取りこぼしたような息の吐き方で、もう一つだけ、と呟いた。
「もう一つだけ、あなたをお救いする方法があります。あなたを半妖たらしめている因果をどうにかすれば、再び、人間に戻ることができるかもしれません」
人が、何かしらの強い心によって人としての一線を越えてしまったのならば、逆にその元凶となった想いを満たすことさえできれば、また元通りの人間になれるかもしれない、と娘は考えていたのだ。
「それなら、おれの場合はひどく単純だね。いなくなった金魚が、戻って来さえすればいいのだから。……それがすぐにできたら、苦労はしていないよ」
話にならないと投げ返す濡女の態度も気にせず、彼女は足を引く。
「ですから、藤一郎さま」
そうして彼のすぐ横にしゃがんで膝を抱えると、水草のような前髪の間から、あの不思議に力強い視線を、注ぎこんできたのであった。
「あたしを、ご自身の出目金だとお認めになって」
その潤った両目から逃れることはとてもできそうになく、濡女は一度軽口を叩こうと開きかけた唇を閉ざして、代わりに長い息を吐いた。
「君の言わんとすることはわかるよ。君が、あの金魚の九十九神だとでも言うのだろう」
男が半妖になったように、動物や心なき物でさえ、九十九神と呼ばれる妖になることがある。金魚が人の形を得るのも、決しておかしな話ではない。
「あら、意外に察しがよろしいのね。実を言いますとあなたを一目見たときから、失くしたはずの記憶に指先を掠めるような、むず痒い思いが絶えなかったのです」
それは、濡女の方でも同じだった。初めて娘と目が合ったその一時より、彼はかつての愛しき出目金から、あのガラス越しにぎょろりと見つめられていた日々の快感を、思い起こさずにはいられなかったのだ。
「しかし」と濡女は声を絞り出す。
そう、彼はとうに気付いていながら、けれど必死に気付かぬふりをしてきたのである。
なぜなら彼女は、たとえ彼の求める存在であったところで、もはや、彼の求めていた金魚ではなくなっていたのだから。
「……そんな姿では、何の意味もないじゃないか。この金魚鉢に、帰ってくることさえできやしない」
「あたしだって、そんな狭い所で暮らすのは御免ですわ。ですが自分も知らないどこかが、しきりに吼えたてているのです。あなたを見捨ててはならぬと」
「でも君は、あいつのように美しい尾を持っていない」
「あたしにはこの髪があります。蝶の形に結ぶこともできましょう」
「君の目は大きいが、立派に飛び出してはいない」
「まあるい瞳がお望みなら、この両の目玉をくり抜いて、あなたの手の上にお預けしましょう」
一際強い風が、二人の背中に吹きつける。重くなった浴衣の裾が激しく音をたててなびく中でも、娘の目にある輝きは、揺らぐことを知らなかった。
「どうして、そこまで言ってくれるんだい。仮に君の言う通りだとしても、おれは待つことしかしなかったような、情けない主人なのに」
「九十九神は、主人の愛なくして魂を得ることはできません。あなたが大切にしてくださったから、今、こうして言葉を交わすこともできました……その愛に報いることこそが、あたしの本能なのですわ」
全てを言い終わった彼女の顔には、どことなく儚げな、だが確かに内面の暖かさを感じさせる、小さな笑みが浮かんでいたのだった。濡女の口角をも無意識につり上げてしまったその美しさに、彼もようやく、心を決める。
ふやけた右手を金魚鉢から引き剥がし、娘の髪をかき分けてその頬に触れ、そっと、囁いた。
「おかえり」
朝日の眩しさに睫毛を震わせ、重い瞼をこじ開ける。次いで外の方から人のざわめく声が聞こえてくることに気付き、ゆっくりと布団から体を起こした。そのまましばらくは呆然としていたが、やはり外の様子が気になり、適当な身支度を始める。
「おはよう」
玄関へ向かう廊下の途中、彼は脇にある棚の前で立ち止まり、その上に置かれた金魚鉢の中へ、優しく声をかけた。
たった一匹、その中を漂っていた出目金が黒揚羽の尾を翻してこちらに頭を向け、張り出した目玉で彼を見上げる。その愛らしさに、たまらず顔がほころんだ。
「今日は面白い夢を見たよ。思い出せないけれどね」
そう語りかけ、指でガラスを二回つつくと、彼は再び玄関へ向かった。
家を出てすぐのこと、町の人が目の前を駆け足で通り過ぎようとし、こちらに気付いてその足を止めた。
「ああ島波さんおはようございます」
「おはようございます。どうかしたんですか、何やら騒がしいようですが」
「それが……」
訊ねると、相手は海がある方へと顔を向けた。坂の上に建つこの場所からは、妖怪が出ると噂の砂浜を臨むことができるのだが、どうやら今日は、そこに珍しく人が集まっているらしい。
「昨晩から濡女が急に消えちまったとかで、町は軽い騒ぎなんですよ」
『濡女』という単語を耳にするや、島波藤一郎は妙な聞き馴染みを覚えて俄に眉根を寄せたが、この町では有名な妖怪の名前であるし、昨日など討伐運動で騒然としていたほどなのだから、今更聞き覚えも何もないではないかと思い直す。その間にも男は話を続けた。
「まあ結果的には天気が回復したんですから、問題はないのかもしれませんがね。あれが消えるのを見た輩は、まるで雨に溶けてしまったみたいだったなんて、全く妙なことを言う始末だったそうですよ」
しかし、このときの男が知らなかったのも無理はないのだが、二人が言葉を交わした時点で浜辺にできていた人だかりは、濡女とはまた別の事件でできたものだったのである。
濡女が消えた翌朝、浜辺で男の水死体が発見された。その男は近頃町に滞在していた旅の商人であることが後にわかり、目撃者によれば彼は昨晩、濡女の消失に混乱する人々とはまた離れた所で、ひたすら何事かを喚きながら堤防の上を駆け回っていたかと思うと、ついには無謀にも、荒れ狂う海の中へ入って行ったのだという。
この情報から、事件は濡女の呪いによって発狂してしまった旅人の、哀れな事故として片付けられたのだった。
この物語は、某所で「夜の雨に溶ける」というお題を受けて書いたものでした。少し長くなってしまったので上下に分けた次第です
かねてより妖怪ものを書いてみたいと考えていたので、それらしい感じのお話を書き上げられたことにまずは安心しております
しかし思い起こしてみればやはり、話の形式は今まで書いてきたものと大分類似しているような気がいたします……要検討ですね
ここまで目を通して下さり、まことにありがとうございました