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 いつしか、男は濡女と呼ばれるようになっていた。


 男なのに女とは大きな矛盾に思われるかもしれないが、『濡女』はこの単語でこそ妖怪の機能を発揮するのであり、その生態と類似する者に、肩書きとしてこの名が宛われることは自然のことといえよう。


 男はいつも砂浜に横たわり、海に足を突っ込んでいた。大きめの波が来る度に髪までが水にさらされ、文字通り全身が常に濡れている。腹の辺りには水を湛えた金魚鉢を抱き、仰向けにじっとりと空を見つめていた。その姿は、海の中から赤子を抱いて這い出た蛇胴の濡女に、よく似ていたのである。

 洋装が主流の世の中、彼もその例にもれずワイシャツに黒いズボンという妖怪にはそぐわぬ格好をしていたが、それでもシャツは白装束を、ズボンは蛇の尾の色を、人々に連想させるばかりだった。

 無論近寄ろうとする者はなく、滅多に口を開く機会を持たなかった彼にも、有名な口癖が一つある。


「おれの金魚を知らないかい」


 浜辺を通りかかる人々に、男が決まって問う言葉だ。なるほど水だけの金魚鉢を抱えている理由を大いに推察せられる内容である。だがあまりに不気味なその生態ゆえ、近隣の町には彼に協力する人間どころか、浜に寄り付く人間すらいなくなっていた。


 そんな折のこと、珍しく砂浜を歩いてくる影が見えた。

 それはいかにも旅人らしい格好をした二人連れで、一人は大きな包みや行李を携えた商人風の男、一人は地味な更紗の浴衣を着た、見たところ十五にも満たぬ少女であった。年齢差から言えば父娘のようでもあるが、しんと黙ったまま並んで歩く二人の間には、何か目に見えない隔たりが存在しているようでもある。

 彼らは浜と海の境に寝そべる『濡女』を認めるや行き倒れか何かと思ったのだろう、小走りに駆け寄りながら声をかけてきた。


「もし、そこの方。大丈夫ですか」


 声をかけたのは男の方だった。人の良さそうな顔を不安に歪め、濡女の視界の隅から彼を見下ろしている。

 それまでどこともつかぬ具合に空を眺めていた濡女は、声をかけられるとようやく焦点というものを取り戻したようで、横になったまましっかりと旅人を見返し、何でもないことのように答えた。


「おかげさまで健康そのものです。そんなことより旅の方、おれの金魚をどこかで見なかったかい」


 全くもって奇妙な受け答えと態度に、旅人はもちろん目を丸くした。例のごとく不審者を見た目で立ち去るかと思われたが、彼はすぐに興味深げな笑みを浮かべると、濡女へ問いを返してくる。


「金魚といいますと、どのような」


「黒い体の出目金です。尾など蝶のように立派でしてね」


「どうして、お空を見ていらっしゃったの」


 これは、男の横から濡女を観察していた娘が口にした言葉だ。豊かな黒髪の間に光るまん丸の目が印象的だが、そこに感情らしいものは見受けられない。


「ここは空がよく見える。いつどこからあいつが降ってきても見逃すことはないだろう」


「金魚が、お空から降ってくるっておっしゃるの」


「そうだとも」


 娘は無表情のままに目を上げ、片割れと顔を見合わせた。すると、そのどこか強烈な視線から何かを感じ取ったらしく、男は実に嬉々とした様子で顎を引き、濡女へ向き直る。


「あいにくこの辺りで見かけた覚えはありませんが、今後も注意して探してみましょう。ちょうど私どもも、しばらくはこの辺りに滞在する予定ですので」


 ではまた、と言い残し、旅人たちは再び歩き出した。離れていく二つのちぐはぐな後ろ姿を見送る濡女は、恐らく二度と戻って来ることはないのだろうと考える。

 以前、同じ言葉を置いて去った人々がそうであったように、あるいは、この金魚鉢から飛び出して行った、あの出目金がそうであったように。


「それにしたって、こんなに話をしたのは何年ぶりかな」


 打ち寄せる海を味わいながら呟くと、彼はいつものように空を見上げたのだった。


 濡女の予想に反し、旅人は翌日の昼に再び浜辺の砂を踏んでやって来た。しかし今度は二人連れでなく、あの小さな娘の方だけが、彼の視界にひょっこりと頭を出したのである。


「やあ君か。お連れさんはどうしたんだい」


 声をかけられた娘は黙ったまま、緩やかな曲線を描いて垂れる髪を引き、濡女の頭上に腰を下ろした。目の前を邪魔するものがなくなった彼は、またひたすらに突き抜けるような空の青を見張る。


「あなた、濡女なんですってね」


 静かで落ち着き払った声が、頭の先から降ってきた。それには答えず、先に自分がした質問の答えを待つ。


「あの人は今、暮らしのために町でお勤めをなさっています。あたしは、あの人からあなたの側で遊んでいるようにとのお言い付けを承ったのです」


 あの人というのが、昨日彼女を従えていた商売男のことなのだろう。


「なるほど、おれは世話役を任されたというわけか。先に言っておくが話し相手にはなってやれても、遊び相手まではできないよ。空を見てなくちゃあいけないからね」


「それで充分です」


 それから娘は口を閉ざし、波のさざめきに耳を傾ける。寄せては返す静寂は双方耐えかねるほどでもない様子で、濡女は低くのしかかってくる夏空を、娘は陽炎に淀む水平線を、めいめい好きなように見据えていた。

 金魚鉢を挟んでいる手の甲に、はねた波の飛沫が玉を作る。潮が満ち始めたことを悟った濡女は、少しばかり体をにじり、頭上へ頭上へと動きだした。当然、その先に座っていた娘も押し出されるように後ろへ下がる。


「何をなさっているの」


 追いやられたことが不服だったのか、娘は逆さまの顔を見下ろし、数刻ぶりに話しかけたのだった。


「金魚は淡水魚だからね。鉢に海水が入ってしまっては帰るに帰れないだろう」


「それなら、もう少し波打ち際より離れたところで待てばよろしいでしょうに」


「おれも水に濡れて慣れた方が、あいつも帰りやすいんじゃないかと思うんだ」


 海で生きられない金魚が、塩水にじっくり漬け込まれた磯臭い男の元へ喜んで帰ってくるとは到底思えなかったが、そんな理屈が妖の者に通用するはずもない。娘は代わりの話題を振った。


「あなたは、ご自分のことを濡女だとお思いになったことがありまして」


 すると彼は空を見たまま、いかにも愚問だと鼻で一笑してみせる。


「まさか。おれは人の腹から産まれた人間だよ。ちゃんと名前だって、ええとそうだ、島波藤一郎という名もある。どうだいなかなか立派だろう」


「では藤一郎さま、最後に物をお食べになったのはいつ頃でしたか」


「さあ……はっきりとは覚えていないな」


「お水を飲んだのは」


「塩辛いのなら、毎日口に入ってくるがね」


 娘は再び押し黙り、膝の向こうに転がる湿った頭を、何か考える様子で見下ろした。男にしては長く伸び、さざ波の際でゆらゆらと揺れるその髪に、気付かれないよう手を伸ばす。それはただぬるりとだけしていて、実体があるのかないのかはっきりしない、あの川底の藻を掴む手応えに似ていた。

 空と海の境が橙と黄金に染まるころ、浜へ本日の仕事を終えた男が迎えに来た。彼は濡女と二、三親しげに言葉を交わすと、またお願いしますと残して、娘を連れていった。



「あの人は、あたしの父ではありません」


 男との間柄を妙に思った濡女が翌日再びやって来た娘に訊ねてみれば、頭の先の彼女は無感情に答えた。


「あたしはあの人に拾っていただいた身なのです」


「おや、捨て子だったか」


「わかりません。ただ物心が付いたとき、あたしは空にいました」


「空あ?」


 それまでは和やかに話していた彼も、さすがに頓狂な声を上げて顎を出し、娘の顔を見上げた。長い髪の間に陰る顔の中で、爛々と光る丸い両目がそれを迎える。

 ぞわぞわした感覚が、体中を駆け巡った。前から感じてはいたが、彼女の視線には、何か人を狂わせる作用でもあるのだろうか。


「気が付いたら、あたしは緑に囲まれた町の上を飛んでいたのです。いえ、本当は、落ちていたのですけれど。目の前がぐるぐる回り、上も下も、右も左もわからなくて、あたしはついに気を失ってしまいました。そうして目を覚ましましたときには、もうあの人の腕の中でした」


「まるで、人の子とは思えない生い立ちだ」


「ええ、きっとあたしも、人ならざる身なのでしょう。それ以前の記憶もなく、あなたみたいにそれらしき呼名も付けられたことがありませんので、自分がどういった妖怪かはわかりませんけれど……事実、あたしは人や物の道から外れた魂を、見極められるようなのです」


 平然と己を人外と言ってのける彼女を見ていると、この不可思議な表情のなさも何となく納得がいくようだ。濡女は面白ついでに訊ねてみる。


「それじゃあ君には、おれもその人ならざる者に見えるのかい。人として生まれたおれが」


「あなたは確かにお人でなしよ。ただ……実際の濡女とは違う点も、まだたくさん見られます。言うなれば半端者、でしょうね」


 違う点があるのではなく、何もかもがずれていると言った方が正しいのではなかろうか。一般的な『濡女』が赤子を抱いた海蛇女を表す単語だとして、彼の手には赤子の代わりに金魚鉢があるだけだし、海に投げ出した下半身は見まごうことなき人間の二本足、そもそも『女』ですらないのだから。


「何も濡女に拘ることはないだろう。違うところがあると言うなら、おれはまた別の妖怪なのかもしれない」


「いいえ。一度濡女と呼ばれたからには、あなたは間違いなく濡女です。もうそれ以外にはなり得ません。それ以外の妖怪にも、あるいは」


「人間にも」


 娘の言葉の続きをかすめ取って呟けば、濡女はその後味を確かめるかのように、口を噤んだのだった。

 迎えの時間が迫ってきた頃になって、娘は静かに、ある忠告を降らせた。


「あの人を、あまり信用してはいけないかもしれません」


 濡女は薄まりゆく青色の空から、目を上げる。


「過去のことは詳しく知らないけれど、話によればあたしを拾ったその日から、あの人はどこかおかしくなってしまったそうですから」


「でも君自身は、彼のことをおかしいとは思っていない、ということかい」


 その客観的な語尾に違和感を持った濡女は、無意識にそう訊ねていた。前を向いていた彼女の顔がこちらを向き、二人は何とも形容できない表情で見つめあう形になる。

 答えが来るまでに少しの間があったのは、娘がどう答えるべきか考えていた証拠なのだろう。


「あの人は、あたしをむげに扱いはいたしません。あたしにとって、あの人と暮らすことは苦痛でもなければ、快楽でもないのです。両極端でないことを普通と言うのでしたら、今の生活はひどく普通と言えるでしょう」


「今度は、普通を知らないような言い方をするんだね」


「仕方ありませんわよ。あたしは生まれてこのかた、周りからおかしいと言われている人や、そうでなければ妖怪くらいとしか、関わったことがないのですから」


 噂の男が、遠い彼方から二人を呼びつつ駆け寄って来たのは、それからすぐのことであった。




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