第十二話 一時の静寂
明智軍が八上城を包囲して二十日。
山々に響いていた法螺貝の音は、
ある朝、ふいに止んだ。
「敵勢、動きあり! 陣を畳んでおります!」
見張り台の叫びに、城内がざわめく。
秀治は急ぎ城壁へ上がり、
山の向こうを見渡した。
「……退いているのか?」
秀尚が息を呑む。
「兄上、あれは……撤退の動きです!」
確かに、光秀軍は整然と列を組み、
山道を下り始めていた。
混乱もなく、規律を保ったままの撤退。
秀香は静かに言った。
「織田勢は、八上を落とせぬと判断したのでしょう。
兵の損耗を避け、いったん退くつもりです」
家臣たちが歓声を上げる。
「勝ったぞ! 八上が織田勢を退けた!」
「八上は不落だ!」
だが、秀香の表情は浮かれなかった。
秀治が弟の横顔を見つめる。
「秀香……何か気になるのか?」
秀香は山道を見つめたまま答えた。
「明智光秀は、無理攻めをしない男です。
落とせぬと見れば退く。
だが――退いたからといって、諦めたわけではありません」
秀尚が眉を寄せる。
「では、また来ると?」
「はい。
光秀は必ず戻ります。
次は、もっと周到に、もっと確実に」
秀治は深く息を吐いた。
「……だが今は、勝利を喜んでもよいだろう。
八上は守り抜いたのだ」
秀香はうなずいた。
「もちろんです。
兄上の光が揺らがなかったからこそ、
皆が踏ん張れたのです」
その時、山の向こうで最後の法螺貝が鳴った。
光秀軍が完全に丹波の外へ退いた合図だった。
城内に安堵の空気が広がる。
兵たちは肩の力を抜き、
城下の者たちは涙を流して喜んだ。
だが、秀香だけは静かに空を見上げていた。
――これは、終わりではない。
――嵐の前の静けさにすぎない。
八上に、一時の静寂が訪れた。
しかしその静けさの奥には、
次に来る大きな波の気配が、確かに潜んでいた。




