壱話 夕闇の少女
窓の外、オレンジ色に染まり始めた豊田市の街並みを俺、桐沢雄也は誰もいなくなった廊下の窓から無感情に眺めていた。
河成高校、1年1組。ここが今の俺の居場所だ。けど入学して早々に俺は「風呂キャンの同性愛者」という嘘の情報をクラスの問題児にばら撒かれ、つい最近、唯一信じていた一つ上の彼女に浮気されたことによって、俺と周囲の人には目には見えない心の壁が作られていた。
「帰るか」
ポツリと独り言をこぼし、俺は昇降口へ向かった。
俺はいつものように学校の最寄りの駅に向かい、いつものようにICカードで改札口をタッチし、いつものように岡崎行きのホームのベンチに座る。そしていつものようにスマホを見ながら、電車をボーッと待つ....はずだった。
俺が違和感を覚えたのは駅のホームに入ってすぐだった。空気が重い。それに"あの時"とよく似た腐った卵のような匂いがする。他の人たちは気づいてないのか?そう思いながら俺はベンチから立って周りを見回すが大人も子供もみんな気づいていないようだった。まるで俺だけ別世界に取り残されているような....そんな感じさえした。妙な違和感を覚えつつ俺は電車を待った。
しばらくすると、電車の到着音が流れてきた。
『まもなく高蔵寺方面から電車が参ります。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください』
はぁ、やっとか。
やっとこの不気味な違和感から解放される、そんな安心の気持ちを抱いた瞬間だった。
「う"っっっ!!??」
さっきからの不気味な違和感に加え、ひどい頭痛と眩暈、吐き気が俺を襲ってきた。
(ハァ、ハァ、なんだよこれ....すごく体が苦しい...)
周りの人たちを見てもさっきと同じく、誰も気づいていない様子だった。さっきから自分の身に起きている異変と苦痛を俺は全く理解できず、俺は頭を抱えてうなだれる。そんなことをしている間にも電車はガタンゴトンと音を立てながら近づいてくる。
「とにかくこの電車に乗らないと....」
俺はしんどくて今にも倒れそうな体を持ち上げて列に並んだそのときだった。
「ねぇ」
突然俺の後ろから声がした。振りかえるとそこには黒い制服のようなものを見に纏った髪の長い少女が俺の方を凝視していた。豊かな胸の曲線が目を引く彼女は言った。
「あなたは見えるの?」
そう言って彼女は向こう側のホームに指を指す。その指の先には人の形をし、目がやたらと大きい黒いモヤのような異形の化け物が瞬きもせず、何かをボソボソと何かを呟きながらが蠢いていた。
「コロス....ゼッタイニユルサナイ....」
「ヒッ....!!!」
俺は化け物の不気味さに思わず声を出してしまった。なんなんだあの化け物。怖い。気持ち悪い。
「やっぱり見えるのね....」
少女は俺に目もくれず、全てを理解したように言う。もう何が何だか。あまりにも恐ろしい出来事に俺は声すらあげることができない。あの化け物は何だ?なんでこんな空気が重い?この女は何?次から次へと疑問が生まれる。そんな中、少女は言った。
「あなたは選ばれた人間」
そう言って彼女は夕闇の風と共に姿を消した。
多くの不気味な疑問を抱きながら、俺は電車に乗った。席を見つけ窓から向こう側のホームを見たが、あの化け物の姿はどこにもなかった。
俺を乗せた電車はガタンゴトンという音を鳴らしながら、岡崎方面へ向かった。
翌日。昨日の出来事を俺は悪い夢だと思い込もうとしていた。今日は金曜日。明日から疲れる学校にしばらく行かなくて済む。俺は顔には出さずとも胸を躍らせながら校門をくぐり、駅へ向かった。しかし途中で俺はスマホを学校に忘れてきてしまったことに気づいた。
「はぁ。めんどくせぇな。さっさと取りに行くか」
早く家に帰りたいのに。そう思いながら俺は教室へ急いだ。夕方の学校は部活をする人たちもいるので昇降口はまだ開いており、職員室と校舎の向かい側にある体育館はまだ電気がついている。
下駄箱に靴を入れた俺は猛ダッシュで階段を登って教室へ入った。夕方の教室は何だか不気味だ。そんなことを思いながら俺は自分の席の周りでスマホを探す。机の中にスマホを確認した俺はそれをポケットにしまい廊下に出た瞬間のことだった。
急に空気が凍った。昨日と同じ、いや昨日以上に不気味な雰囲気が廊下を支配する。腐った卵の臭いこそしないが、空気感は昨日の何倍も不気味だった。
ペチャリ。ペチャリ。
誰もいないはずの廊下から気持ち悪い音が俺の方へ近づいてくる。
「なんだ....。この音.....」
俺は震えながら廊下を見回す。
すると廊下の突き当たりから"ソイツ"は姿を現した。ソイツは天井まで届くほどの異形の怪物だった。黒いモヤを纏い、複数の人間の顔が歪につながっている。化け物は俺の方へ近づく。
「ギャアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
化け物は叫びながら俺に襲いかかり、目にも止まらぬ速さでその長い腕を鞭のように使い、俺を壁に叩きつける。
頭からは血が流れ、意識が遠くなっていく俺の前で"ソイツ"は大きな口のようなものを開けて襲いかかってくる。体中が痛くて動くことができない。
あぁ.....。俺はここで死ぬんだな.....。でももう楽になれる。周りの人から煙たがられたり、嫌いなやつに追われることもなくなる。そんな生き地獄を味わうことももうないのだ。どうせ生きてても辛い思いしかしないんだ。いっそのこと諦めよう。
そう思った俺はそっと目を閉じ、静かに死を受け入れた。
化け物が俺を飲み込もうとしたその時だった。
「ーー影は枷、血は錆の色。不浄なる拍動、ここに潰えよ。黒鉄・影鎖」
凛とした声が闇を切り裂いた。
俺はゆっくりと目を開けて、声のする方向へ顔を向ける。
廊下の影からは昨日の少女が音もなく歩み出る。彼女が印を結ぶと化け物の目の前に魔法陣のようなものが出現し、そこから現れた黒いオーラを纏った鎖が化け物の手足を縛り上げる
「アアアアアァァァァァァァァ!!!!????」
化け物の絶叫が廊下にこだまする。暴れて逃げようとする化け物に対し、彼女は冷たく言う。
「私の鎖からは逃れることはできない。」
唖然としてる俺の横で、彼女はまた詠唱をする。
「仰ぎ見れば月、伏して見れば影。
三足の爪は天を掴み、黒き羽は夜を薙ぐ。裂け。黒鉄・影爪」
彼女がそう唱え、両手でまた印を結ぶと今度は彼女の手の目の前から不気味で禍々しい雰囲気を纏ったカラスが現れた。そしてカラスはその化け物の胸を、一発で爪で引き裂いた。
「ギギィヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!」
耳を裂くような化け物の断末魔が廊下に響く。そして化け物はボロボロと体が崩れ、一瞬で灰へと変わった。
静寂が戻った廊下で、俺は激しく震えていた。
彼女がゆっくりと近づき、無表情で彼女を見下ろす。制服からのぞく、白い肌と、大人びたその体躯が、夕闇の中で残酷なほど美しく映えた。
「......あいつらは何なんだ。それにお前も何者なんだよ」
俺のこの問いに彼女は表情ひとつ変えず答える。
「あいつらは世の澱みが生んだバケモノ。そして、それを見ることができるようになったあなたは、もうこちらの住人。......世界を呪う準備はできたかしら?」
「は?お前何言って....」
「明日、異常存在対応機関西三河支部へ来なさい。私たち"退魔師"があなたを待っているわ」
彼女のその言葉は俺の「普通」だった日常を完膚なきまでに破壊した。




