異世界1-02 意思ある一歩
「……リリー様。一人で起き上がれますか?」
「はいっ……!」
温度の無い瞳で見下ろされ、美咲は慌ててベッドを下りる。立ってみて、美咲は視界の低さに驚いた。
どうやら、リリーはこちらの世界では小柄な方らしい。クローデットや彼女の背後に立つ人達と目を合わせるには、美咲が目線を上げなければならなかった。特に、その中の一人、ディオンの護衛騎士は見上げるほど背が高い。
美咲の視線を感じたのか、護衛騎士である青年が頭を下げる。騎士の隣に立つ茶色の髪の生徒が、美咲の視界を遮るように前に出た。
「リリー、大変だったね。一人で歩ける?俺が抱えていこうか?」
冗談とも本気とも分からない言葉。緑の瞳に茶目っ気を浮かべて近づいてくる彼――ディオンの側近であるアルマン・ルーベルは、こちらへの好意を隠そうともしない。両手を広げて本当に抱きしめようとするから、美咲は、一歩、後ずさる
「だ、大丈夫です。自分で歩けますから……!」
美咲の言葉に、アルマンが怪訝そうな顔をする。
「何で敬語?」
言われて、美咲はハッとする。
学園には一応「身分に関係なく」という規則がある。だが、そんなものは建前であると皆理解しており、リリーも貴族ばかりの学園でそれなりに気を遣っていた。しかし、相手からの許可があれば、その限りではない。アルマンも侯爵令息ではあるが、「気心知れた関係」ということで、敬語などとうに抜けていた。
思い出したがもう遅い。やってしまったと思った美咲は曖昧に笑う。益々、不審そうにするアルマンに代わって、クローデットが口を開いた。
「リリー様もお疲れなのでしょう。大変な目に会った後です。今は、早く休ませてあげるべきでしょう」
「ああ、うん、そうだね。……そうだよね、疲れてるよね」
言って、アルマンが美咲の手を引いた。
「寮の前まで送らせてくれる?ああ、勿論、クローデット様もマノン嬢も一緒だよ?」
彼の視線に、美咲はもう一人の少女に目を向ける。癖のある背中までの茶色の髪はフワフワとして温かみがあるが、その表情は厳しい。引き結ばれた口、黒い瞳は忌々しげに美咲を睨んでおり、憎悪を隠そうともしない。
マノン・モルチエ。クローデットの友人である彼女の手にあるものを見て、美咲は慌てて彼女に近づく。
「すみません!それ、私の鞄。……お持ちくださったんですね」
礼を言って、美咲は鞄を受け取ろうと手を伸ばす。が、マノンが強い口調で「いいえ」と首を振った。
「寮まで私がお持ちします。……リリー様は怪我人ですから」
「えっと、ですが、怪我はもう治療していただいたので……」
「構いません。私がお持ちします」
マノンが鞄を渡す気配はない。引っ込みのつかない手に困っていると、アルマンが美咲の手を引いた。
「行こう、リリー。マノン嬢もこう言ってるんだ。甘えちゃいなよ」
「でも……」
「いいから、いいから」
美咲の反論を封じ込めるように、アルマンが歩き出す。繋いだ手に引っ張られて、美咲も歩き出した。一度だけ、チラリと背後を振り返ったが、強い視線と目が合い、直ぐに前を向く。
(リリー、あなたって……)
ここに居ない「聖女様」に対して、美咲は心の中でもう一度嘆息した。
寮に送り届けてもらったその日から、美咲は自室に閉じこもるようになった。リリーである自分を受け入れる時間が必要だったし、それに何より、外の世界が恐ろしかった。
家具の少ない部屋の中、美咲はベッドの上で膝を抱え、リリーの記憶を掘り起こしていく。その内に、美咲は彼女が気付いていないものに気が付いた。いや、より正確に言うならば、リリーも気付いてはいた。が、「どうでもよい」と切り捨てていた部分だ。
(何が、『それなりに慕われている』よ、もう……!)
確かに、リリーの言葉に嘘はない。慕うどころが、聖女であるリリーを熱狂的に崇め奉る人たちもいる。それが顕著なのが、女神レステレアを信仰する教会の信者たちだが、リリーは彼らに取り込まれることを良しとしなかった。
彼女は、学ぶための自由を何よりも渇望していた。
(……その意思は凄いし、応援したいと思うけど……)
だけど、自由を得るための手段が良くなかった。
貴族の力を背景に学園に逃げ込んだまでは良かった。だが、その成功体験が、リリーに誤った判断をさせてしまう。彼女は、学園卒業後の自由を、貴族との結婚で得ようとしたのだ。
(しかも、手あたり次第って、そりゃあ、嫌われるでしょう……)
特に入学直後の彼女は、夫と言う名のパトロンを得るため、かなり精力的に動いていた。それが、他の女生徒の反感を買うと気付いてからは、ある程度、対象を絞っていたようだが、複数の貴族令息に粉をかけ続けていたのは変わらない。
恐ろしいことに、その中には、王太子であるディオンも含まれる。
(何故、よりにもよって王族。しかも、婚約者がいる相手を……)
美咲の感覚としては、「信じられない」という思いが強い。だが、リリーの立場に立つと、その気持ちが少しだけ理解できてしまう。
(教会から逃げ切るためには、教会を黙らせるだけの権力、高位貴族との結婚が必要だったってことね……)
美咲の生きた現代日本とは違う常識。この世界では、そもそも女性が学を修めることも難しい。リリーにそれが許されたのは、彼女が聖女であったからという、何とも皮肉な話だ。
だが、これから先、聖女という肩書だけでは生きていけない。女性の自立など許されない社会で、リリーはリリーなりの方法で戦っていたのだ。
何とも稚拙ではある。美咲からすると「誰かに相談して、頼れば良かったのに」と思わずにはいられない。だが、「自分ならやれる」と一片の疑いもなく信じ、邁進し続けたリリーを、美咲は嫌いにはなれなかった。
(不思議ね……)
妻から夫を略奪する女なんて最低だと思っていた。なのに、同じようなことをしているリリーを擁護する自分がいる。
(……少なくとも、彼女は不貞を働いていない)
それに、婚約者がいるのにリリーに好意を囁く男も最低ではないか。リリーがしたことは、好意を告げる相手に対し、「婚約者と別れて自分と結婚してほしい」と願ったくらいだ。
ただ、それでどうにかなるほど貴族社会は甘くない。結局、卒業間近のこの時まで、リリーに婚約者がいないことが全ての答えなわけだが――
(……リリーは気付いていなかった、みたいね)
記憶を見る限り、リリーが誰かに恋をしたことはない。どころか、「人の機微に疎いのでは?」と思う部分もある。だからこそ、躊躇いなく挑んでいけるし、結果が出なくともへこたれない。
(だからって、それで殺されてしまっては元も子もないじゃない……)
リリーを突き落としたのがクローデットと決まったわけではない。だが、この学園でリリーに敵意を抱いていた女生徒は大勢いる。
(何も、殺さなくてもって思うけど……)
この世界の結婚、婚約は、好き嫌いの感情だけでは決まらない。女性は人生が掛かっているのだから、それは必死にもなるだろう。
ままならない――
美咲は急速な閉塞感を感じてため息をつく。
リリーではないが、「逃げ出したい」と思った。「だが、どこへ?」考えた時、美咲は気づく。自分が裕也の元へ帰ることを望んでいないことに。
(元の世界へ帰れるなら帰りたい。だけどもう、裕也とは会いたくない……)
あれほどの固執があっさりと消えている。やはり、あれはもう、愛ではなく、別の何かだったのだ。
「……『ライト』」
美咲の声に呼応して、目の前に小さな光球が浮かぶ。その弱弱しい光を手に、美咲は机に向かった。
机の上には手紙の山。差出人は全てディオンで、日に一通、多い日で三通届く。そのどれもが、リリーとの面会を望むものだ。今日までずっと、返事も出さずにいたが、美咲は漸く重い腰を上げた。
動き出さなければならない。それが、リリーの望んだ未来と違っても、美咲は新しい道を模索していかなければ。
その一歩、先ずはディオンと会って話をしよう。
リリーを知り、過去に決着をつけた今、美咲はリリーとして生きていくことを決めた。