異世界1-01 戸惑いの世界
「リリー!」
切羽詰まった男の声。光と闇の世界を揺蕩っていた美咲の意識が呼び起こされる。美咲ではない別人の名を呼ぶその声が、何故か「自分を呼んでいる」と美咲には分かった。
やがて、瞼の向こうの光を感じた美咲はゆっくりとその目を開く。自分でも緩慢だと思う動きに、焦れたような声が聞こえた。
「リリー!頼む、目を開けてくれ!私を見ろ……!」
そうして、漸くはっきりとした美咲の視界に、歓喜の笑みを浮かべた男の姿が映る。
「……ディオン、さま……」
「そうだ!リリー、私が分かるんだな?」
(分かる……?いいえ、私はこの人を知らない。……いえ、知っている。ディオン・ブリュノー殿下。この国の王太子)
覚醒したばかりの美咲の意識は混乱している。何も答えない美咲に焦れたように、目の前の男が美咲の手を握った。
「リリー?大丈夫か?……君は、自分の身に何が起きたか覚えているか?」
「いえ……」
答えてから、美咲は自分がリリーと呼ばれていることに気付く。そこで漸く、美咲の記憶が蘇った。
(私、車で……、それから、あの子、リリーって名乗ったあの子と……)
「君は、魔術棟の階段から落ちたんだ」
「っ!?」
男――ディオンの言葉に、美咲の中に新たな記憶がどっと流れ込む。
(これ、あの子の……!)
美咲は愕然とする。自分には、「美咲」として生きた記憶があるのに、同時に、「リリー」として生きた記憶もある。ゾッとして、右手に感じる温もりにすがった。
「……リリー?」
「か、鏡を、鏡を見せてください」
ディオンはハッとした表情を見せ、直ぐに傍を離れる。彼の姿が、ベッドの周囲に張られた白いカーテンの向こうに消えた。
(ここは……、医務室?)
リリーの記憶からそう推測し、美咲は上半身を起こす。周囲を確認する間もなく、カーテンが開き、ディオンが戻ってきた。
「リリー、これを」
差し出された派手な装飾の手鏡を、美咲は恐る恐る受け取る。自身の姿を確認するのが怖い。美咲のその不安をどう勘違いしたのか、ディオンが「大丈夫だ」と告げ、美咲の頬に触れた。
「安心しろ。倒れている君を見つけて直ぐに治癒魔法をかけた。傷は一つも残っていない」
「……」
彼の言葉を頭の片隅で聞きながら、美咲は鏡を覗き込む。そこに映る姿に、美咲の心臓がギュッと締め付けられた。
(私じゃ、ない……)
半ば覚悟していたこととは言え、鏡に映る姿は全くの別人。美咲の手から鏡が滑り落ちる。
「リリー……?」
(違う、リリーじゃない。私は……)
茫然と、鏡を取り落とした両手を眺める。美咲のものより華奢な、色素の薄い手。ネイルも何もされていない爪は、短く切りそろえてある。
「リリー、どうした?本当に大丈夫か?……まさか、どこか不調でも?」
案じる声とともに、ディオンの両手が伸びてくる。その手が、美咲の両手を包み込んだ。
「何か不安があるなら言ってくれ。治癒魔法は成功したが、君は一度死にかけたんだ。……出血もしていた」
言って、ディオンの片手が美咲の頭にそっと触れる。その優しい仕草に、美咲はどうしていいか分からなかった。
彼が身を案じてくれているのは分かる。だが、その優しさは美咲に向けられたものではない。リリーの記憶から、彼が彼女に好意を抱いていると分かるから余計に、その優しさを受け取ることができない。
(ごめんなさい……)
美咲が望んで入れ替わったわけではない。別人にとって代わるなんて恐ろしくて仕方ない。けれど、そのおかげで、美咲は生きている。あのまま死にたかったかと聞かれれば、答えは否だ。
「……ごめんなさい。暫く、一人にしてもらえますか?」
今はただ、考える時間が欲しい。リリーである自分を受け入れる時間が。
美咲はディオンを見上げる。彼は困った顔で逡巡して、それから「分かった」と答えた。
「だが、その前に一つだけ確認させてほしい。階段から落ちた時の状況だが……、あれは、事故、だったのか?」
眉を顰めた彼の問いに、美咲は静かに首を横に振る。
「いえ。誰かに、……誰かに背中を押されました」
「そう、か……」
ディオンの眉間の皺が深くなる。張り詰めた空気。押し殺したような声で、ディオンが「相手は?」と尋ねた。
「背中を押したのが誰か、分かるか?」
「いえ。背中を向けていたので見えませんでした。ただ……」
「ただ?」
美咲は答えに迷う。
「一瞬だけ……、落ちた後、気を失う前に、誰かを見たような……」
「誰だ?」
鬼気迫るディオンに、美咲は戸惑う。ここで下手なことは言えない。だが、階段から落ちたのはリリーの記憶で、未だ思い出せない部分が多い。
「……すみません。分かりません」
結局、美咲はそう答えるしかなかった。ディオンが、大きくため息をつく。
「分かった。……聖女である君を害する者がいるなど信じ難いが、警備を強化しよう。二度と、このようなことは起こらないと約束する。……君が無事で良かった」
そう言って、ディオンはフッと笑った。その優しい笑みに、美咲は居たたまれなくなる。そっと視線を落とした。
「……だが、流石に、ここで君を一人にするのは危険だ。クローデットを呼んでこよう。寮まで付き添ってもらうといい」
顔を上げれぬまま、美咲はディオンの言葉に頷く。彼が部屋を立ち去る気配を感じて、ベッドに身を横たえた。白い天井を見上げる。
(死ぬほどの怪我をしても、その日の内に帰れるなんて……)
魔法とは不思議だ。家族への連絡はどうなっているのだろうと考えて、美咲はリリーが孤児であることを思い出す。そこから、次々に思い浮かんでくるリリーの記憶たち――
リリーは産まれた直後に捨てられたらしく、親の顔を知らない。一番古い記憶に出て来る「庇護者」は希少な種族で、彼女は五歳になるまで人里離れた森の中で生活していた。
そんな彼女が、「魔法」に出会い、心惹かれ、庇護者の元を飛び出したのが六つの時。新たな庇護を求めて女神レステレアの教会の門戸を叩き、そこで思う存分、魔法の探求に明け暮れたようだった。
けれど、リリーが十五になる年、彼女にとって「不運な」転機が訪れる。女神レステレアの神託により、リリーが聖女に選ばれたのだ。途端、教会は彼女を囲おうとし、彼女から魔法の研究を取り上げた。曰く、「聖女に魔法は必要ない。ただ、女神に祈りを捧げるべし」ということらしい。
当然のこと、リリーはそれに猛反発した。聖女の務めをボイコットし、教会に多額の寄付をする貴族を味方につけ、王立魔法学園に逃げ込んだ。
そうして、学園の三年間を魔法研究に明け暮れ、卒業まであと僅かというところで、今回の事件が起きる――
(……何だか、凄く波乱万丈な人生ね)
美咲はフゥとため息をつく。
美咲から見てもリリーは天才だ。魔法学のみならず、魔法薬学や魔道具への造詣が深い。聖女という役目についても、実のところ、納得はしていないが受け入れてはいる。
聖女の役目は「レテル病」から国民を救うこと。ただ、救う方法は自分で決めたい。出来るのなら、大好きな魔法薬学で成果を収めたいというのが、リリーの願いだった。
(その目的のために、結構、手段は選んでいなかったみたいだけど……)
美咲は、先程とは違う意味で嘆息した。
不意に、部屋の扉が開く音がする。身を起こした美咲は、緊張しつつ、カーテンが引かれるのを待った。シャッという軽い音を立てて開かれたカーテン。その向こうに現れた女性の姿に、美咲は呻き声を上げそうになる。
(思い、出した……)
銀に近い白金のストレートの髪。深い紫の瞳でこちらを見下ろすのは、侯爵令嬢クローデット・フォール。王太子ディオンの婚約者だ。
そして、全身の痛みで動けなかったあの時。薄れゆく意識の中で見上げた階段の上、窓からの陽光に煌めいたのもまた、白金の光だった。




