現代1-05 欺瞞の終わり
涼子の引き抜きに成功し、ラピュセルは何の憂いもなく、その業務を開始した。
主力と呼べるほど抜きんでた商品はない。が、元製薬会社の作った基礎化粧品は手堅く、堅実に、それなりの売り上げを続けていた。
(取り敢えず、みんなのお給料が払えないなんて事態には陥らなくて済みそう)
だが、これだけでは足りない。
リリーの想定では、ラピュセルはいずれPHテクノの業績を抜く。それを以って、美咲を裏切った輩どもに一泡ふかせる予定なのだ。そのための手段、新商品の開発に悩むリリーの元に、その報はもたらされた。
柏木翔の退院――
平日の昼近く、リリーは、今も通院を続けている総合病院の玄関前に立っていた。暑い日差しの下、ツバの広い帽子を僅かに押し上げ、サングラスを外す。玄関口を出入りする患者やその見舞客たちの視線がチラリチラリと、リリーに向けられていた。
リリーは、ガラス張りの玄関に映る自分の姿を眺める。グレーのタイトワンピースを纏う美咲の身体は、出るところは出て、引き締まるところは引き締まっている。ここ数か月、リリーが必死になって取り戻した、美咲本来の健康的な美しさだ。元の身体では持ち得なかった優美な曲線に、リリーは満足の笑みを浮かべる。
自動ドアが、ウィンという音を立てて開いた。流れ出てきた冷気に視線を向けると、険しい表情の男が、手にしたスマートフォンの画面を睨みながら歩いてくる。こけた頬に無精ひげ。延びっぱなしの前髪の奥には落ち窪んだ目。
目当ての人物の荒んだ姿に、リリーは首を傾げる。
(……何だか、前より人相が悪くなってない?)
男――柏木翔は、急いたように大股で歩き、こちらに気付かぬまま通り過ぎていく。リリーは彼を追い、背後から声を掛けた。
「柏木君」
「っ!?」
凄い勢い。バッと音がしそうな勢いで振り返った柏木は、リリーの姿を認めて大きく目を見開く。彼の口が「みさきさん」と、音にならない言葉を紡いだ。
「お久しぶりね。無事退院出来て良かったわ」
「……どうして、ここに?」
「あなたを迎えに来たの。話があるからついてきてくれる?」
美咲の言葉に、柏木は手にしたスポーツバッグに視線を落とし、躊躇う様子を見せた。だが、ここで彼を逃がすつもりはない。
「あなたの今後について重要な話、と言えば分かるかしら?ついてきてくれるわよね?」
「……っ!」
顔を上げた柏木の表情が固い。リリーは彼の返事を待たずに歩き出す。柏木は、黙って後をついてきた。
駐車場に停めてある国産車。美咲が好んで乗っていたそれに近づくと、柏木が足を止める。リリーが運転席に向かうと、彼が口を開いた。
「運転は、俺が……」
「嫌よ」
最後まで言わせず、リリーは彼の提案を退ける。
「私があなたの運転する車に乗ると思う?」
「っ!」
柏木の顔から一瞬で血の気が引いた。「倒れるんじゃないか」と不安になるほど真っ白な顔。リリーは車の後部に回り、トランクを開いてやる。
「荷物はこっちに入れて。座るのは助手席ね。そっちの方が話がしやすいから」
「……」
ぎこちない動きで、柏木がバッグをトランクに入れる。リリーはさっさと運転席に乗り込んで、シートベルトを着けた。
助手席側のドアが開き、細身の身体が遠慮がちに入ってくる。座りの悪そうな柏木がシートベルトを締めるのを確かめて、リリーはアクセルを踏んだ。
「……柏木君、痩せた?」
「いえ。……いや、あの、はい、多分」
曖昧な返事が返って来て、リリーは「どっちよ?」と笑う。
「……リハビリ前に比べると、だいぶ、戻りました。けど、入院前に比べると……」
律儀に説明する柏木に、リリーは「ふーん」と答えて、チラリと隣の男を見遣る。
「怪我の方は?どこか不調が残ってたりするの?」
「……いえ。どこも、問題ないです」
担当医から聞いて知ってはいたが、彼自身の答えに満足し、リリーは頷いた。
「ならいいわ。柏木君には、これから私のところで働いてもらう予定だから」
「……」
リリーの言葉に、柏木が沈黙する。隣から伝わってくる緊張に、リリーはダッシュボードを指さした。
「開けてみて。一番上に裕也から柏木君への手紙、……誓約書?が入ってるから」
柏木がノロノロと手を動かし、ダッシュボードを開ける。車関係の書類の上に、裸で折り畳まれた紙が一枚置かれている。彼が中身を確認する間、リリーは黙って前を向いていた。
カサリという紙のこすれる音。隣から、小さな吐息が聞こえた。
「……と言う訳で、柏木君。あなたには、明日から私の会社に来てもらうわ。会社の場所と出勤時間はメールしておく。雇用契約書も明日用意するわね」
「……」
柏木からの返事は無い。
(そんなにショックだった?まだ、あの男に期待してたのかしら?)
リリーは裕也の手紙、とも言えない「一筆」の中身を知っている。柏木に対し、「今後は好きに生きて構わない」とあるだけ。柏木のこれまでの献身には一切触れておらず、感謝や労いの言葉もない。
(解雇通知も受け取ってるはずだし、そもそも、見舞いにも来ないような男に何を期待出来るっていうの?)
自身のことは棚に上げ、リリーは呆れのため息をつく。
「ねぇ、柏木君。分かってると思うけど、あなたに拒否権はないの。私を酷い目に会わせたんだから、その償いはしてもらわないと」
「だから大人しく、自分の下につけ」というリリーの無言の圧力に、柏木の口から掠れた声が漏れた。
「……どうして」
「え?なに?」
「……だったら、どうして、俺を雇うなんて言うんですか?そんなことせず、警察に訴えれば……!」
柏木の声が震える。リリーはハンドルを握ったまま、「うーん」と答えた。
「警察に訴えたところで、私の望む償いは得られないから、かな?」
「どういう、意味ですか……?」
「金銭的な補償が欲しいわけじゃない。あなたが懲役刑を受けたところで、私に返ってくるものはない。だったら、私の望む形で償ってもらった方がいいじゃない?」
柏木が息を呑んだ。前を向くリリーは、左頬に痛いくらいの視線を感じる。
「そ、んな、そんなことが許されるわけない……」
「それを決めるのはあなたじゃなく、私よ」
「っ!でも、俺がやったことは犯罪で……!社長だって……!」
柏木の言葉に、リリーは黙ってハンドルを切った。車を道路わきに停め、クルリと隣に視線を向ける。
「……裕也が、何ですって?あなた、まだあの男と連絡取り合ってるの?」
「っ!?」
「出しなさい、スマホ」
有無を言わせぬ言葉に、柏木はぎこちない動きでスマートフォンを取り出す。メール画面の開かれたそれを受け取ったリリーは、盛大に顔をしかめた。
「何よこれ。あの男は何様なの?王族?青い血でも流れてるの?」
メールの内容は自己中心的で、柏木にとっては酷く残酷なものだった。曰く「柏木の起こした事故は殺人未遂だ。自首して罪を償え」、「裕也個人もPHテクノも、事件には一切関係ない。当然、責任も負わない」という尻尾切り。おまけに、「事故で廃車となった車は弁償しろ」とあるから恐れ入る。
「柏木君は私がもらうって言ってるのに、陰でこそこそ連絡、というか、脅し?かけるなんて……」
これでは、一筆書かせた意味が全くないではないか。柏木を切り捨てたくせに、リリーの下につくのも邪魔するとは。男の姑息さに腹が立つ。
リリーは手にしたスマートフォンを柏木に突き返した。
「着拒にして」
「え?」
「裕也からの連絡。電話もメールも着信拒否にして」
柏木がおずおずとスマートフォンを受け取る。そのまま操作し始めたのを確かめて、リリーは車を出した。
渋滞のない街中を抜け、向かうのは柏木の自宅アパート。リリーの――以前の倉島夫妻の――マンションに近いそこは、立地の関係上、広さに見合わぬ中々のお家賃だったりする。リリーがそれを知っているのは、そこがPHテクノの借り上げ社宅で、現在はラピュセルの社宅として借り上げているからだ。
目的地に到着し、リリーはアパートの前に車を横づけした。
「着いたわ。……柏木君、裕也の連絡先、ちゃんと拒否出来た?」
「……はい」
「そう、良かった。今後、あの人と勝手に連絡を取るのは止めてね?私が身の危険を感じちゃうから。……どうしても連絡を取る必要がある時は、私に相談して」
相談したからと言って、連絡を許すかどうかはまた別の話だが――
美咲の言葉に、柏木は視線を落とす。承諾の返事は無い。
「……ねぇ、柏木君。あなたもう、散々、裕也に尽くしてきたじゃない。受けた恩っていうのも、十分に返したんじゃないかしら?」
彼は視線を落としたまま、膝の上で握った自身の拳をじっと見つめている。
「柏木君、こっちを見て」
「……」
彼の視線が、ゆっくりとリリーに向けられる。
「裕也にどれだけ恩義を感じているかは知らないけど、あなた、あの男のために人殺しにまでなったのよ?」
「っ!?」
土気色の顔。瞠目した柏木は何か言おうとして口を開くが、言葉にならない。
「これって、一生分の恩を返した、どころか、あなたの方が彼に貸しが出来たくらいなんじゃない?」
そう言ってニッと笑ったリリーに、柏木は恐ろしいものでも見たかのように、首を左右に振る。狭い車内、逃げ場のない男に、リリーは囁いた。
「もう、強情ねぇ。だったら、言い方を変えましょうか?……殺人教唆。あなたが私を殺そうとしたのは裕也が命じたから。警察にそう通報されたくなかったら、彼との関係は切って」
リリーの脅しに、柏木の膝の上の手が震え出す。口を開いた彼が、聞き取れないほどの微かな声で呟いた。
「あなたは……」
「なぁに?」
「あなたは……、誰だ?」
恐怖に見開かれた瞳。リリーを凝視してそう尋ねる柏木に、リリーは「おや?」と片眉を上げる。
「何を言ってるの?私は……」
「違う!」
悲鳴のような声が、リリーの言葉を遮った。
「絶対に違う!あなたは美咲さんじゃない!美咲さんはもっと……っ!」
「へぇ……?」
柏木の反応に、リリーはうっそりと笑う。
弁護士である田上や同僚だった涼子たち、ついでに言えば、夫だった裕也でさえ気づかなかった違和。美咲が美咲でないと気付いたのは、柏木が初めてだった。
(普通、気付かないわよね。この世界に魔法は無いのだから……)
気付く方が異常。正気を疑われるだろう。が、それでも柏木は気づいた。それだけ、彼は美咲のことをちゃんと見ていたのだろう。
湧き上がる感情のままに、リリーは口角を釣り上げた。
「……ところで、柏木君。あなた、料理は出来る?」