現代1-04 引き抜き
目を覚ました柏木に、けれど、リリーは会いに行かなかった。
退院後、忙しかったというのもある。だが、それ以上に面倒だった。
目を覚ました彼のこれからの生活を、リリーは身を以って知っている。リハビリは辛く、それ以外の時間は退屈極まりない。それに何より、閉鎖的な空間で世間から取り残されていく感覚は心を寒々とさせる。
リリーはそれを一人で乗り切った。「だから」という訳ではないが、柏木にも一人で乗り越えてもらわねば困る。彼は、支えられる側でなく、支える側の人間なのだから。
柏木の様子は担当医から電話で報告を受けるに留め、リリーは自身のことに邁進した。
裕也との離婚は成立し、夫婦のマンションは美咲の名義となった。当初の離婚条件にはなかったものだが、ローンがないため、もらって困ることはない。裕也からむしり取ってくれた田上の手腕には頭が下がる思いだ。
田上の尽力は、事業の譲渡にも及んだ。彼女の事務所の弁護士をつけてくれたおかげで、リリーの新会社「ラピュセル」は上々の滑り出し、入れ物だけは立派なものが出来た。
(……問題は中身。あと一歩、なのよね)
元の世界では、リリーは膨大な魔力を資本に好き勝手していた。一人で研究することに何の不都合もなかったが、この世界で同じことは出来ない。
だからこその「人」。PHテクノからの人材の引き抜きは重要な課題だった。
幸いなことに、当初の目論見通り、化粧品部門の大半がリリーについていくと表明してくれている。若手中心ではあるが、美咲と仲が良かった女性たちの存在は頼もしかった。
(だけど、あと一人。彼女だけはどうしても欲しい……)
平日の夕暮れ。リリーは待ち合わせの人物と会うため、オフィス街の喫茶店を訪れていた。
どうやら、先方はまだ到着していないらしい。店内を見回したリリーは目的の人物が居ないことを確かめると、窓際の席を選んで腰を下ろす。ガラス張りの窓の向こう、行き交う人を眺める内に、遠目に近づいてくる女性の姿を見つけた。
彼女も、こちらに気付いたらしい。足を速めたその人は、窓越しにリリーに会釈をした後、店のドアを潜った。
「……すみません、お待たせしたみたいで」
「いいえ、私も今着いたところです。……飲み物、何か頼まれます?」
アイスコーヒーを二つ頼んだ後、二人の間に暫し沈黙が訪れる。リリーは、気取られぬよう、目の前に座る女性を観察した。
如月涼子。
金縁眼鏡の知的な雰囲気を持つ彼女は、現在の化粧品部門の責任者だ。確か、美咲より一回り年上で、医薬品部門に同い年の夫がいる。その夫がPHテクノの最初期メンバーなので、彼女をラピュセルに引っ張るのは難しいと考えていた。
だが、彼女なくしてラピュセルの成功はない。
「……髪」
「え?」
涼子の漏らした一言を、リリーが聞き返す。
「あ、すみません。髪、切られたんだなと思って。……美咲さんの髪、綺麗だから。ロングも素敵でしたけど、今の長さもよくお似合いです」
話の取っ掛かり。話題として髪型を褒めてくれた涼子に、リリーは微笑んで、「ありがとうございます」と答える。
リリーは背中まであった美咲の黒髪を、肩口の長さで揃えていた。
「事故で頭を何か所か切ったものですから。長い髪は結構、邪魔で」
言って、リリーは「この辺りです」と未だ髪の生え揃っていない箇所を指し示す。それに、涼子は困ったような笑みで応えた。彼女の反応に、リリーは慌てて「ごめんなさい」と謝罪する。
「傷口なんてあまり見たいものじゃありませんね。無神経でした」
「いえ。事故のことは聞いていましたから。……お元気になられて、本当に良かった」
涼子の心のこもった言葉に、リリーはホッとする。そのつもりはなかったが、彼女がリリーに同情的であると知れて、話が切り出し易くなった。
「涼子さんの貴重な時間を無駄にするつもりはありません。……単刀直入にお伺いします。PHテクノを辞めて、私についてきてくれないでしょうか?」
頭を下げたリリーに、涼子の返事は無い。リリーは顔を上げた。
「……断られなかったということは、少しは期待しても?」
「それは……」
「私は駆け引きとか、そういうまどろっこしい真似が出来ません。ですから、率直な意見をお願いします。ここで話す内容を他に漏らすことは絶対にしませんし、あなたの今後のキャリアに悪影響を及ぼさないとお約束します」
前のめりなリリーに、けれど、涼子の反応は芳しくない。リリーは「それなら」と告げた。
「外には漏らさないとお約束しましたが、涼子さんご自身が面談を録音するのは構いません。採用の条件についてもお話しますので、持ち帰ってご家族と相談してみてはくれませんか?」
「……」
「私は、どうしてもあなたに来てほしい。新会社に、涼子さんは不可欠だと考えています」
リリーは、涼子から視線を逸らさずにそう告げる。気まずげな表情で、彼女がアイスコーヒーのグラスに手を伸ばした。
「どうしてそこまで……。どうして、私なんですか?」
金縁眼鏡の奥、思慮深い瞳がリリーを見つめる。
「小野さんや橋田さんが新会社に移ると聞いています。彼女たちがいれば、会社は十分回ると思うのですが……」
「ええ。彼女たちも大切な戦力。ついて来てくれることには、感謝しかありません。ですが、私はあなたも欲しい」
「何で……」
そう呟いた涼子は、言い辛そうに言葉を続けた。
「美咲さん、私のこと嫌っていますよね……?」
「いえ、嫌ってなど……」
指摘された内容に、リリーは内心で大いに嘆息する。
(やっぱり、気付かれてた、か)
流石に、「嫌っていた」は語弊があり、美咲の感情としては「苦手だった」が正しい。が、どちらにしろ悪感情であることに変わりはない。
リリーは、潔く頭を下げた。
「涼子さんに対する私の態度は不適切でした。不快にさせてしまって、ごめんなさい」
「いえ。あの、こちらこそ……、あなたを不快にさせることがあったんだと思うから……」
涼子の言葉に、リリーは首を横に振る。
「いえ。涼子さんには何の落ち度もありません。ただ、私が……」
言いかけて、リリーは言葉に迷う。美咲が彼女に向けていた複雑な感情を、リリーは正確には理解できなかった。だから、「多分、こうだろう」という想像を口にする。
「正直に言うと、私は涼子さんが苦手でした。……あなたは、私よりずっと賢いから」
「え、でも……」
涼子が、「分からない」という風に首を傾げる。
「こんな言い方失礼ですけど、美咲さんは倉島社長と同じ大学の出身ですよね?それに、三か国語が話せる……」
「ああ。言い方が悪かったですね」
言って、リリーは苦笑する。
「PHテクノの製品、医薬品や化粧品という分野において、あなたは私より遥かに多くの知識を持っている。対して、私にあるのはそれを売り込むために身に着けた知識だけ……」
広く浅く。悪い言い方をすれば、表面的な部分をさらったに過ぎない。営業や広報という立場であれば、それは決して悪いことではないのだが――
「…ほら、私ってプライドが高いでしょう?」
言って肩を竦めるリリーに、涼子は曖昧な笑みを返す。
「あなたと個人的な場面で絡んで、底の浅いバカだと思われたくなかったんです」
「そんな……。美咲さんは、うちの商品をちゃんと理解して、広報も積極的になさってたじゃないですか」
「そう、思っていただけてたなら嬉しいです」
驚きの表情を浮かべる涼子に、リリーは薄く笑った。美咲の涼子に対する嫉妬は、リリーには未知のもの。だが、涼子が美咲を認めていたと知って、心のどこかが満たされた。
リリーは、口角を上げてニッと笑う。
「でも、まぁ、一度死にかけたら、そんなの馬鹿らしくなってしまいまして」
「え?え?」
「だって、そうでしょう?私のちっちゃなプライドのせいで、優秀な人材を逃がしちゃうなんて!そんなの絶対、許せない!」
リリーは、二人の間にあるテーブルに身を乗り出した。
「と言う訳で、涼子さん!どうか、私の会社に来てもらえませんか?私にはあなたが必要なんです……!」
「……」
瞠目した涼子が、リリーをマジマジと見つめる。やがて「あー……」と息を吐き出した彼女は、コクリと一つ頷いた。
「……分かりました。私も、美咲さんについていきます」
「っ!本当……っ!?」
知らず、リリーの顔に満面の笑みが浮かぶ。
「嬉しい、ありがとう!絶対に、後悔させないわ!でも、あの、本当にいいの?会社が軌道に乗るまで、今よりお給料が下がっちゃいますけど……?」
次第に勢いを失ったリリーの言葉に、涼子は「構いません」と答える。彼女の表情が、キリっと改まった。
「……私、浮気や不倫をする人って駄目なんです」
「え?」
「美咲さんが会社を辞められてから、倉島社長、愛人を秘書代わりにされていて……」
知らぬ情報だったが、然して興味の無かったリリーは「なるほど?」と頷いた。
「公私混同が過ぎるというか。非常にイライラさせられたので、辞めたらスッキリすると思います」
そう言って嬉しそうに笑った涼子は、「お給料のことも心配ない」と告げる。
「夫が、好きにすれば良いって言ってくれてるんです。私の収入が減っても、彼が支えるからって……」
彼女のはにかんだ笑みにつられて、リリーの口元も綻ぶ。
自分には分からぬ感情。縁遠い関係だとは思ったが、リリーは確かに、涼子たち夫婦の絆を「良いな」と感じた。