現代1-03 救いではない
病棟に監視カメラがないことは把握している。柏木翔とは知らぬ仲ではない。最悪見つかっても、「見舞いだ」とか何とか、言い訳は何とでもなるだろう。
リリーは、スタッフステーションの前を何食わぬ顔で通り過ぎ、長期入院患者の病棟へ足を踏み入れた。遠目に何度か覗いたことのある病室の扉を開く。スライドしたドアの向こう、部屋の大半を占めるベッドの上に、柏木翔は居た。
リリーはベッド脇に立ち、彼の姿を観察する。
(……直接見るとこんな感じなのね)
美咲の記憶とはかなり印象が異なる。彼女の記憶にある「物静かで誠実な青年」の姿はそこにはなかった。長期の入院生活の影響かもしれない。が、そもそも、美咲の彼に対する記憶が曖昧だった。
(ちゃんとした記憶として残ってるのは、最後の事件の時くらい、か……)
鏡越しの暗い双眸は、美咲の記憶にも、そして、リリーの心にも強く残った。果たして、目覚めた時、この男はどんな目でリリーを見るのだろうか。
リリーの片頬がニィッと吊り上がる。
(さて、それじゃあ、グズグズしてないで、さっさと目覚めてもらいましょうか)
リリーは指を組んで両の手を合わせる。身体に巡る魔力を練り上げ、禁術の一つを唱えた。
(『憑依』)
あちらの世界で死にかけた時、リリーが美咲を探すために使用した術だ。魂だけになったリリーは、柏木翔の意識へ潜り込んだ。美咲の時とは違い、身体と魂を繋ぐ魔力が尽きる前に元に戻らなければならない。
(……結構、きついわね)
魔力が、どんどん消費されていく。
今、美咲の身体にある魔力は、リリーの魂がこちらに持ち込んだもの。魔力のないこの世界で、一度消費してしまった魔力は二度と戻らない。
(まずいわね……)
潜り込んだ柏木翔の意識は、美咲と違い、真っ暗な闇に覆われていた。これでは、彼の魂を見つけられない。舌打ちしたい気分で、リリーは彼の意識の中を飛び回る。
時間の感覚が失われる世界。それでも、かなりの時間が経ってから、リリーは漸く、目的の人物を見つけた。彼の傍まで飛んでいく。
「……全く、とんだ手間を取らせてくれたわね?」
「……」
闇の中、何が楽しいのか、真っ黒な汚泥に首まで浸かった男が、リリーを振り仰ぐ。
「柏木翔。あなた、こんなところで何をやっているの?いつまでも籠ってないで、さっさと目を覚ましなさい」
真上から見下ろすリリーに、感情のない目が向けられる。
「……誰だ?」
「何、言ってるの」
美咲に決まっているだろう。そう言いかけて、リリーはハタと気付く。憑依を使い、魂だけになった今、リリーは元の姿をしていた。
「……別に、私が誰だろうと関係ないでしょう。いいから、早くそこから出てきなさい。あなた、そのままじゃ死んじゃうわよ」
「……そうか、俺は死ぬのか……」
男がホッとした様子を見せたことに、リリーは苛立った。
「ちょっと、勝手に一人で満足しないでくれる?言っておくけど、美咲は生きてるわよ?」
「……っ!?」
「残念ねぇ?せっかく命がけで殺そうとしたのに、殺し損ねるなんて。死にかけてるのはあなただけ、大失敗じゃない」
実際は、美咲は既に命を落としているわけだが、リリーは態と彼を煽る言葉を選んだ。これで、彼が再び奮起するだろうと見込んだのだが――
「……美咲さん、生きて……、生きてるのか……」
言って、柏木翔は泥だらけの真っ黒な手で顔を覆う。リリーは呆れてため息をついた。
「ちょっと、どうしてあなたが泣くのよ。後悔してるとか言わないでね?だったら、最初から殺さなければいいじゃない」
彼の意思は、リリーが期待していたより随分と弱かったらしい。一度の失敗で心折れる程度だったのかと落胆していると、男が真っ黒に汚れた顔でリリーを見上げた。
「……もう、行ってください。……俺はここに残る」
その、妙に達観したような表情に、リリーの苛立ちが募った。
「あのねぇ?本当にそれでいいと思ってるの?」
「はい。……俺には、死んで償うくらいしか出来ないから」
「はぁっ?」
リリーの語気が荒くなる。
「冗談言わないで!美咲は、あなたのせいで独りぼっちになっちゃったのよ!?」
柏木が目を見開く。「え?」と零された声に、リリーは眉間に皺を寄せた。
「あなたのせいで、美咲は全身に大怪我を負って、自分では歩くことも出来ない。なのに、夫との離婚が成立して、彼女を支えてくれる人は誰もいないの。慰謝料だって、自由になるお金は全くもらえなかったんだから!」
「そんな……っ!?」
暗闇でも柏木の顔色が変わったのが分かり、リリーは薄ら笑いを浮かべる。
(嘘は言っていないわ……)
大怪我だったのも歩けなかったのも本当。慰謝料として現金をもらう予定もない。
「……あなたのせいよ」
「っ!」
「あなたのせいで、美咲は苦しい人生をたった一人で生きていくことになった」
「あ……」
柏木の顔から完全に表情が消えた。虚空を見つめて動かなくなった男を見下ろして、リリーは小首を傾げる。
(……ちょっと、虐め過ぎたかしら?)
そっと彼の傍に降り立ち、手を差し伸べた。
「……だから、ね?あなたが美咲の傍にいてあげないと」
「俺、が……?」
「そうよ。独りぼっちになった彼女には支えが必要だわ。彼女からすべてを奪ったのはあなたなんだから。償うというなら、彼女の傍にいてあげて?」
柔らかく微笑みながら、リリーは少々焦っていた。魔力が尽きかけている。躊躇いがちに柏木が手を伸ばそうとしている気配は感じたが、悠長に待っている暇はない。
汚泥の中にズブリと手を差し入れたリリーは、彼の手を引っこ抜く。
「いい?約束よ?絶対に目を覚まして、美咲を支えるの。ここで勝手に野垂れ死ぬなんて許さないわ。何としても生き返りなさい!ああ、もう、帰らないと……!」
柏木が何か言う前、リリーは繋いだ手をブンブンと振った。一方的な約束を結ぶと、大慌てで彼の意識から離脱を図る。
数瞬後、リリーは疲労困憊で柏木のベッドにもたれかかっていた。
(疲れたわ。何なの、この男の意識……)
美咲の明るく心地よかった意識とは大違い。魂の相性云々以前の問題で、もう二度と憑依したくない息苦しさだった。
リリーは、疲れた体を奮い立たせる。立ち上がり、ノロノロと部屋の外へ向かった。最後に振り返ったベッドの上、男は変わらぬ姿で眠っている。
「柏木の意識が戻った」とリリーが聞かされたのは、翌日の昼のことだった。