現代1-01 新しい世界
(……痛い)
全身に感じる痛みに、リリーの意識が僅かに覚醒する。けれど、衰弱からか、薬のせいか、はっきりと意識を取り戻すには至らない。
(瞼が重い、目が開かない……)
必死に瞼をこじ開ける。目に映ったのは不明瞭な世界。だが、リリーの胸は静かな感動に打ち震えた。
(凄い……っ!)
初めて目にする光景。なのに、リリーには「ここは病院だ」と分かった。美咲の身体の記憶が、リリーの意識に流れ込んで来る。動けない身体のまま、リリーは急速にこの世界のことを学んでいった。
(凄い凄い凄い……!)
全身を蝕む痛み、指一本動かせない状態。リリーが乗り移った美咲の口の端が、ほんの僅か、吊り上がる。
「っ!」
頬に痛みが走り、リリーは顔をしかめた。それがまた、別の痛みを生む。
どうやら、美咲の身体は満身創痍のようだ。その理由を彼女の記憶から読み取って、リリーは二人の間の因縁に「へぇ」と感心した。
(美咲も、殺されたのね……)
魂が限りなく近いとはいえ、そんなところまでお揃いである必要はないのに。
リリーは身の安全を確かめようと周囲に視線を巡らし、見える範囲に誰もいないことにホッとする。恐らく、集中治療室と呼ばれる場所にいるのだろう。であれば、早々に命を脅かされることはない。
(まぁ、美咲を殺そうとした犯人は分かっているのだし。こうして病院に居る今、この世界では、それほど気を張る必要はなさそうね)
リリーの瞼がゆっくりと落ちていく。だが、閉じかけたリリーの視界に人影が映った。開いたドアから入って来る白衣の女性。その女性の姿に、リリーの胸の内に熱い思いが込み上げる。
所謂、パンツスタイル。美咲の記憶から、彼女が「看護師」という専門職に就く女性だと分かる。リリーのいた世界ではあり得なかったこと。この世界の女性の生き方に、動かぬ身体が一筋の涙を流した。
(ああ、凄い!私、この世界でなら何にだってなれる。何だって出来るんだわ……!)
一言も発せずに横たわる美咲の身体の内。リリーの意識は、目の前に示された可能性に興奮を抑え切れずにいた。また一筋、リリーの目から涙が零れ落ちる。
看護師がこちらへ近寄ってくる。瞼からこめかみへ、優しく触れる布の感触を感じて、リリーは今度こそ目を閉じた。
気の高ぶりに疲れ切った意識が、再び深い眠りへと落ちていく。
次に目を覚ました時、リリーの意識は前回よりもはっきりとしていた。全身の痛みも少し和らいだ気がする。
上半身を起こすことのできないリリーは、視線だけで周囲を見回した。以前と同じ部屋、同じベッドに寝かされているようだ。横になった視界の上の方、自身の顔近くに視線を巡らせたリリーはハッとした。人がいる。
こちらを覗き込むようにしてベッドサイドに立つ男。リリーは思わず身を起こそうとして、失敗した。未だ指一本持ち上がらない状態なのは変わらない。僅かに、指先がピクリと動いただけだった。
動いた指を確認するように、男が動いた。
(倉島裕也……)
美咲の夫。彼女の死の原因である男を、リリーは無感情に見上げる。
美咲の記憶を持つとはいえ、今やこの身体に宿るのはリリーの魂だ。倉島裕也に対して、リリー自身は何の感情も抱かなかった。愛情も、憎悪も。
(……強いて言うなら、嫌悪くらいはあるかしら)
リリーは、自分と最も近しい魂を持つ相手――美咲を好ましく思っている。世界を越えて自身に新たな生を与えてくれたことに恩義も感じていた。倉島裕也はその彼女を貶めた相手だ。機会があれば、美咲に代わって復讐を果たすのもやぶさかではない。
(……けど、流石にこの状態じゃ何も出来ないわね)
今は身体を治すことが優先。裕也の存在を無視すると決め、リリーは微睡みに身を任せた。
今は未だその時ではない。目を閉じたリリーの口元が僅かに弧を描いた。
それからどれくらい眠っていたのだろうか。リリーが三度目を覚ました時、そこに倉島裕也の姿はなかった。それだけを確かめて、リリーは一瞬の覚醒を手放す。
そんな風に睡眠と覚醒を繰り返す内に、リリーの覚醒時間は徐々に長くなっていった。その間、リリーが倉島裕也の姿を見たのは最初の一度だけ。リリーが上半身を起こせるようになった時も、一般病棟へ移った時も、彼が病室を訪れることはなかった。
ただ、担当医とは話をしているらしい。リリーは、診察に訪れた当の担当医からそれを聞いた。
(ふーん?私のことは放っておく、面倒ごとは先延ばし、ってことかしら?)
それならそれで構わない。
リリーとて、今の満身創痍な状態で倉島裕也とやり合いたくはない。やり合うなら、勝てると分かっている状況で、万全の準備を整えてから。
「そのためにも」と、リリーは模範的な患者でい続けた。仮初の平和、単調な入院生活の中で、美咲の身体は着実に回復へと向かっていく。
意識を取り戻してから何度目かの診察。遂に、リリーは担当医からリハビリ開始の許可を得た。幸いなことに、大きな後遺症は残らないだろうと言われている。車椅子でもいい。せめて、日常生活が送れる程度に回復したい。リリーは、死に物狂いでリハビリに挑んだ。
そうして一か月、事故から三か月以上経った頃、リリーは一人で立ち上がり、支え無しに数メートル歩くことに成功した。
リハビリ室の鏡の前、リリーは不格好に立ち尽くす女の姿を眺める。棒切れのような手足。頭には大きな絆創膏が残っている。こけた頬に落ち窪んだ眼。美咲の記憶にある彼女の姿からは程遠い女の姿に、けれど、リリーは嗤った。
(……私は美咲。この身体は私のもの)
この世界に渡り、初めて自らの足で歩いたその日、リリーは美咲として生きていく覚悟を決めた。
自身の身体をギュッと抱きしめる。
(もう二度と、誰にも美咲を傷つけさせない……!)
鏡に映る黒の瞳が爛々と輝く。その瞳に一瞬だけ青い光が灯るが、瞬きの間にかき消えた。
車椅子まで自力で戻ったリリーは、「さて、これからどうするか」と思案しながら車椅子を動かす。病室へ戻る廊下の途中、リリーはふと手を止めた。視線の先にあるのは長期入院患者の個室が並ぶエリア。黒の瞳が再び青い光を帯びる。いくつかの壁を越えて見通す先、病室の光景に、リリーは嘆息した。
(……まだ起きない、か)
そこには、三か月前、美咲とともに運び込まれ、未だ意識の戻らぬ男――柏木翔が眠っていた。