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入れ替わりの聖女たち  作者: リコピン
プロローグ
2/13

プロローグ

すまない、もう君を女性として見ることができない――


半年前、美咲は、夫である倉島裕也にそう告げられた。


田上法律事務所の会議室。半月ぶりに顔を合わせた裕也は、美咲を見ようともしない。彼は、隣に座る荒沢――裕也が代表を務める会社の顧問弁護士に耳打ちを繰り返すだけだった。


対話する気のない夫の姿に、美咲は唇を噛む。隣で、美咲の雇った女性弁護士――離婚問題に強いと定評のある田上が、美咲に気遣う視線を向けた。


「……本日の協議はここまでにしましょう」


事務所の所長でもある田上の発言に、荒沢が同意を示して立ち上がる。それに続く裕也の姿を見送って、美咲は深くため息をついた。


結局、今日も進展のないままに話し合いが終わってしまった。


大学卒業と同時に裕也と結婚して五年、美咲は今年で二十七になる。五歳年上の裕也は今年三十二歳。互いにまだ若く、ここで離婚を選んだとしても「いくらでもやり直すことができる」と周囲は言う。


実際、田上からも「離婚という選択肢はないのか」と尋ねられたこともある。けれど、裕也が二人の家を出て行って半年経つ今も、美咲は彼との離婚を受け入れられないでいた。


(だって、そんな、そんな簡単な話じゃないでしょう……?)


美咲のことを「女として見られない」と言った裕也には既に次の女、葉山菜々子という恋人がいる。他でもない裕也自身が「菜々子と付き合っている」と明かしたのだ。


最初、美咲は裕也の言葉を何の冗談かと笑った。菜々子は美咲も良く知る人物――仕事で忙しい美咲のためにと裕也が契約してくれた家事代行サービス会社のスタッフだったからだ。


二十三区内のマンション、それなりに高層にある美咲達夫婦の家は菜々子の手により常に居心地良く整えられており、どれだけ遅く帰ろうとも、必ず手作りの食事が用意されていた。


裕也が起こした製薬会社「PHテクノ」の広報を担っていた美咲は、自身より三つ年下の菜々子を頼りにし、それなりに親しい関係を築けていた。そう、思っていたのに――


(裕也とはそれ以上に親しい関係になっていたってことね……)


笑えない冗談に、美咲の頬がピクリと引きつる。歪んだ泣き笑いのようになった顔に、田上が「大丈夫か」と声を掛けてきた。それに惰性で頷いた美咲は、自身も家に帰るため、ノロノロと椅子から立ち上がる。


そんな美咲を支えるように、田上が手を伸ばす。


「美咲さん、あなた本当に大丈夫なの?あまり無理はしないで、あなたが毎回話し合いに立ち会う必要はないのよ?」


裕也が望むのは協議離婚。毎回、新たな条件を提示しては美咲に離婚を承諾させようとするが、美咲の答えは常にノーだった。


どれだけの条件を提示されようと、離婚に応じるつもりはない。そのため、話し合いはいつまでも平行線のまま、美咲は確実に疲弊していた。


(もう、嫌……)


田上の言う通り、全てを彼女に任せてしまうか、いっそ、すっぱりと別れてしまえば楽になれるのに――


そう分かっていても、最後の最後、納得がいかない。裕也に裏切られた胸は、未だジクジクと痛み続けている。結婚生活だけではない。大学のインターンから世話になり、卒業後は心血を注いで尽くしてきた「PHテクノ」にも、既に美咲の籍はなかった。


自分の五年間は何だったのか――


信じていたものを全て失った美咲は、誰もいない部屋で一人の時間を過ごす。ここ半年、まともに食事も摂れていなかった。当然のように減り続ける体重。田上が心配するのは、そうした美咲の身体的な変化もあるのだろう。


下まで送るという田上の言葉を断り、美咲は事務所を出た。一人、エレベーターに乗り込む。ポンという軽い音を立てて、箱が一階に到着した。


降り立ったロビー、美咲はガラス張りのビルの外に立つ男の姿を見つけ、ドキリとする。


(裕也……?)


美咲を待っているのだろうか。百九十に近い長身、学生時代にラグビーで鍛えられた身体を、裕也は未だにキープしている。その広い背中に向かって、美咲は歩き出す。だが、ビルの正面玄関へ向かう途中に気が付いた。長身の影、隠れるように寄り添う女性がいる。


(……最低)


美咲は奥歯をギリと噛み締める。


一体、どの面を下げてこの場に現れたのか。夫と並ぶ彼の恋人――菜々子の姿に、眩暈がするほどの怒りを覚えた。一瞬、二人と顔を合わせぬよう、裏口から抜け出そうかと迷う。けれど、こちらが逃げ出すような真似はしたくない。美咲は内心の怒りを押し殺し、ビルの自動ドアを抜ける。


「美咲……」


ドアを抜けた先、ビルのアプローチは二十段ほどの階段になっている。その最上段で、裕也に呼び止められた。やはり自分を待っていたのかと、美咲は裕也を振り仰ぐ。


「……何の用かしら?」


直接言葉を交わすのは実に半年ぶり。見下ろす男の端正な顔には表情がない。そのことが、思いの外、美咲を怯ませた。


裕也の眼差しは、ともすれば、怜悧と言われるほどに鋭い。ビジネスでは相手に付け入る隙を与えないよう、敢えてそうしていることを美咲は知っている。今、目の前に立つ裕也は、美咲をビジネスの相手としてしか見ていない。そこに夫婦としての情は感じられなかった。


もう何度目か分からない拒絶に、それでも懲りずに、美咲の心は傷ついてしまう。


真っ赤な鮮血を流し続ける胸の内を悟られぬよう、美咲は真っすぐに裕也を見つめ返す。彼の視線がフイと逸らされた。


明後日の方向を向い裕也が、口を開く。


「……元気にしているか?」


「本気で聞いているの?」


そんなはず無いと分かっているくせに。


酷く残酷な裕也の問いに、美咲の口から乾いた笑いが漏れた。それが聞こえたはずの裕也は、美咲から視線を逸らしたまま言葉を続ける。


「これ以上、君が何を望もうと、こちらに譲歩の余地はない。……もう、お互いに無駄な時間を過ごすのは止めにしないか?」


裕也の言葉に、美咲の胸がまたえぐられたような痛みを訴える。「無駄な時間」、彼がそう切り捨てた時間を、美咲は苦しみ、一人抜け出せないでいるというのに。


(許せない……)


なんと答えて反撃しようか。いっそ、「PHテクノをくれるなら離婚に応じる」くらいのことを言ってやろうかと口を開きかけたが、美咲の言葉は既の所で阻まれる。


「美咲さん……!」


裕也の背後に隠れるようにして立っていた菜々子が、一歩前へ足を踏み出した。


「ごめんなさい!」


そう言って頭を下げた菜々子に、美咲は冷めきった視線を向ける。


既に――二人の不貞が発覚した時点で、菜々子にはしつこいくらい頭を下げられた。だが、非情だと言われようが、美咲は彼女を決して許すつもりはない。こちらの心情などお構いなしに繰り返される謝罪には辟易していた。


「……帰って。あなたと話すことは何もないわ」


「分かっています!何度謝ったところで、私のしたことは許されません。許されるとも思っていません」


そう言って顔を上げた菜々子の目に涙が滲んでいる。


「償います。一生かけて、どんなことをしてでも償います!だから、私のことは許せなくても、どうか、裕也さんのことは許してあげてください!」


「……なぜ、貴女がそれを要求できると思うの?」


「彼は、裕也さんは優しい人なんです!だから、私のことを放っておけなかっただけで……!」


「っ!」


菜々子の言葉は、「自分の方が裕也を理解している」と言わんばかりのもの。美咲はカッとなり、怒りに任せて言い返そうとする。裕也が、菜々子を背に庇って立ちはだかった。


「止めろ、彼女を責めるな。……菜々子は今、妊娠している」


「なっ!?」


頭を殴られたような衝撃。それを、美咲は生まれて初めて味わった。言葉を失った美咲に構わず、裕也が頭を下げる。


「だから、どうしても。子どもが生まれる前に、菜々子と籍を入れたい。……頼む。離婚してくれ」


そう言って、裕也は頭を下げ続ける。不貞が発覚して以来、謝罪を口にしても、彼は決して頭を下げなった。その彼が、今、子どものために頭を下げている。


(なんで……)


泣きたいのか、怒りたいのか。


自分で自分の感情が分からないほど、美咲の心はグチャグチャにかき乱されていた。


(なんで!?どうしてよ……っ!?)


五年の結婚生活。何度か子どもを望んだ美咲に対し、「もう少し仕事が落ち着いてから」と先延ばしを提案したのは裕也だ。彼の意志を尊重し、二人の間には子どもが居なかったというのに――


「っ!嫌よ、絶対に嫌っ!離婚なんて絶対にしない!」


荒い呼吸、ズキズキと痛む頭で、美咲は吐き捨てた。裕也が、静かな視線を向けてくる。何も言わず、じっと見下ろす視線。やがて、裕也の口から疲れ切ったため息が漏れた。


「……子どもを婚外子にはしたくないんだ。頼む、分かってくれ」


「生まれて来る子に罪はないだろう」と続けた裕也の言葉に、美咲の視界がクラリと揺れる。この男は、一体、何を言っているのだろう。


「勝手なことを言わないで!あなたの妻は私よ!私を裏切って子どもが出来るような真似をしたのはあなた達でしょう……っ!」


その結果を、裕也は免罪符のように振りかざそうとしている。彼の傲慢さに、美咲は吐き気を覚えた。上手く呼吸ができなかったせいか、美咲の足元がふらつく。


これ以上、彼らと会話を続ける気力がない。


「……帰るわ」


過度なストレス。食欲不振と睡眠不足に加え、二人への怒りで本当に倒れてしまいそうだった。彼らの前で惨めな姿は晒したくない。


二人に背を向けた美咲は、階段を降り始める。が、ステップを一段降りたところで、不意にポンと背中を押されたような衝撃を感じた。


(……え?)


軽い接触だったにも関わらず、身体が傾いていく。踏ん張ることができない。転倒を覚悟した美咲の血の気が引いた瞬間、目の前に長身の男が現れた。美咲の身体が抱き留められる。


全てが一瞬のこと。自分の身に何が起こったのか。半ば唖然としながら、美咲は自分を助けた人物を確かめようと、顔を見上げた。


「……柏木くん?」


美咲が視線を向けた先、長い前髪の奥からこちらを見下ろす男。無表情に頷いたのは、裕也が個人的に雇っている運転手、柏木翔だった。


「……ありがとう、助かったわ」


だけど、何故、彼がここに?


裕也が家を出るまでは、美咲が彼の運転する車にお世話になることもあった。知らぬ仲ではない。しかし、親しいとまでは言えない彼がいきなり現れたことに混乱する。裕也たちの迎えだろうか。背後の彼らを振り向こうとしたが、柏木に阻まれた。


柏木が、美咲の腕を掴んだまま歩き出す。


「……家まで送ります」


「え、裕也たちを迎えに来たんじゃないの?」


美咲は、柏木に引きずられるようにして階段を下りる。歩きながら背後を振り向くと、階段の一番上、こちらを見下ろす裕也と目が合った。その瞳にゾクリとする。表情のない彼のほの暗い瞳が、美咲をじっと見つめていた。


恐怖と混乱に、美咲は裕也から視線を逸らして前を向く。そのまま大人しく柏木の先導に従い、路上に停めてあった車へ向かった。柏木が、見慣れた車の後部座席のドアを開く。何も言わず、彼は美咲を車へ押し込んだ。


後部座席の扉を閉めた柏木が、運転席へ滑り込む。車が走り出した。


美咲の口からため息が漏れる。諦めと安堵のため息だった。訳の分からない内に車に乗せられたが、走行中の車から逃げ出すことはできない。美咲はシートベルトを締め、革張りの座席に深く身を預ける。


暫くの間、美咲は走り続ける車の振動に身を任せた。沈黙の流れる車内。ふと視線を感じて、美咲は顔を上げる。バックミラー越しの柏木と目が合った。


「……社長と、離婚されないんですか?」


彼の言葉に、美咲は僅かに驚く。


今まで、寡黙な柏木が美咲個人に興味を示したことはなかった。彼から美咲に話しかけてたのも、初めてではないだろうか。


(裕也に、説得するよう言われてる?)


柏木翔――


年は美咲より四つ下。美咲が裕也と出会った頃には、彼は既に裕也の運転手として働いていた。高校卒業と同時に裕也の下で働き始めたと聞いているが、二人にどのような繋がりがあったのかは知らない。何となく訳ありだろうとは思うが、柏木が自身のプライベートを明かしたことはない。裕也も、彼について明確な説明をすることはなかった。


(柏木君が裕也に恩を感じてるのは間違いなさそうだけど……)


彼の言葉の端々に、裕也への心酔が窺える。つまり、今の美咲は柏木にとっても邪魔者。厄介極まりない存在だろう。


美咲は、改めて柏木を観察する。座っていても分かる細身の長身。長めの前髪の下から覗く瞳が、チラリチラリとこちらを窺っている。先程の質問、その答えを待つ彼の様子に、美咲は苦笑する。


「珍しいわね、柏木くんがそういうこと聞いて来るなんて。……裕也に、何か頼まれた?」


「いえ……」


一言で返した柏木に、美咲は肩を竦める。


「そう。どちらにしろ、私の答えは変わらないわ。……絶対に別れない」


裕也への未練ではなく憎悪から、美咲はそう口にした。柏木がまた淡々と口を開く。


「……俺の母は、離婚問題がこじれた末に、父を殺して自分も死にました」


「え……?」


衝撃的な話の内容に、美咲は絶句する。どう反応すべきか。言葉が出てこない美咲に対し、柏木は静かな声で話し続けた。


「高三の時です。……一度に両親を失って、しかも、母親は犯罪者。親戚は誰も手を差し伸べてくれない。そんな状況で、裕也さんだけが俺を拾ってくれました。……父親がPHテクノに勤めてたという、それだけの理由で」


「……そう、だったんだ」


それ以上、どう答えればいいのか。何か事情があるのだろうとは思っていたが、柏木の話は美咲の想像を超えていた。ただでさえ疲労で鈍っている思考が、グルグルと空回りする。


「……俺は、社長に恩義があります」


「……」


「美咲さん、お願いします。どうか、社長と別れてください。このままじゃ、二人とも不幸になってしまう……」


柏木の言葉に、美咲の口から乾いた嗤いが漏れる。


「不幸になる?……不幸ってなに?私はもう十分、惨めな思いをしてるのに?これ以上、不幸になることなんてあるの?」


「……」


「ああ、それとも。柏木君は、私が裕也を殺すかもしれないって心配しているの?」


だから両親の話を持ち出したのかと、美咲は柏木を睨む。


いくら裕也が憎くても、人を殺して問題を解決しようとは思わない。見くびられたものだ。怒りを込めた美咲の視線に、鏡越しの裕也が目を逸らした。


「……いえ。美咲さんがそんなことをするとは思っていません。ただ……」


「ただ、何?」


「……これ以上、形ばかりの夫婦でいることに何の意味があるんですか?」


柏木の言葉に、美咲は口の端を上げる。酷く歪んだ笑いだという自覚はあった。


「さぁ?分からないけど……、意味なんて無いんじゃない?」


意味なんてなくても別れられない。少なくとも今は。それじゃあ許せないと心が納得しないのだから。


「……美咲さん、私からの最後のお願いです。どうか、社長を自由にしてあげてください」


繰り返される柏木の言葉が、美咲を追い詰める。


「嫌だって言っているでしょう!」


唐突に、怒りが頂点に達した。感情が上手くコントロールできない。


(自由なんてっ!?)


そんなもの、許せるわけがなかった。


自由になれば、裕也は菜々子と共に新しい生活を始める。そしてきっと、二人は幸せになるのだ。傷つき、蹲ったまま、前に進めない美咲だけを置き去りにして。


「っ!私のせいで彼が不幸になるって言うなら嬉しいくらいよ!もっと不幸になればいい!もっともっと、苦しみなさいよ!」


自分と同じくらい、それ以上に。美咲は裕也の不幸を願った。バックミラー越しの柏木の瞳が、こちらをじっと見つめている。その視線の意味を問い質そうとしたが――


「……すみません、美咲さん」


「え……?」


脈絡のない謝罪と共に、突如、柏木が車のスピードを上げた。


驚いた美咲は窓の外を見る。周囲に他の車は見当たらない。阻むものの無い道路を急加速で走る車。流れる景色の速さに、美咲は悲鳴を上げた。視線を前に向けると、フロントガラスの向こう、ガードレールが近づいている。ガードレールの先は崖。立ち並ぶ針葉樹の先端が見えた。


(ぶつかる……っ!)


恐怖に目を閉じた瞬間、美咲の身体を強い衝撃が襲う。


ドンという大きな音、シートベルトが肩に食い込む痛み。次いで感じた浮遊感に、美咲は再び悲鳴を上げる。身体が上下に回転するのを感じて、美咲の意識はプツリと途切れた。



◇ ◇ ◇



――ねぇ、起きてよ!ねぇ、お願い、時間がないの!


(……時間?)


遠くに聞こえる声に呼び起こされ、美咲の意識が徐々に目覚め始める。半分覚醒したところで、美咲はハッとして目を見開いた。途端、視界に飛び込んできたのは何もない真っ白な空間。自分が寝転んでいることに気付き、美咲は慌てて起き上がる。


何故、自分はこんな場所にいるのか。直前の記憶を思い起こして、美咲はゾッとした。


「私、確か事故に……、車が落ちて、それで……」


周囲を見回すが、見慣れた場所でもなければ病院でもない。それどころか、現実にあり得ない光景に、美咲は絶望する。


「……ひょっとして、私、死んだの?」


独り言のつもりでそう呟いた声に、妙にはっきりとした声が返ってきた。


「いいえ。まだ死んでないわ」


「だ、誰っ!?」


思ったより近くに聞こえた声に、美咲は周囲を見回す。すると、上空にぼんやりと透き通った影のようなものが見えた。透き通った少女。辛うじて金の髪、碧い瞳をしていると分かる。その子は、時代がかった西洋風のワンピースを身に纏っていた。


(……幽霊?)


そう形容するのがしっくり来る存在に、美咲は僅かに後ずさる。背を向けて走り出す勇気はないため、ジリジリと距離を取った。そんなこちらの怯えを感じ取ったのか、少女が慌てて「待って!」と呼び止める。


「逃げないで。驚いたかもしれないけれど、私の話を聞いて。時間を無駄にしたくないの」


そう言って、少女は美咲が立つ真っ白な床の上へ降り立つ。


近づいて分かったが、少女の顔は驚くほど整っており、人形か何かのようだった。目線は、百六十七ある美咲よりも僅かに低い。碧い瞳が美咲をじっと見つめる。


「……うん、やっぱり、あなたで正解みたい」


「正解……?」


「ええ。説明はだいぶ省くけれど、私とあなたは魂が近しい存在なの。そして、私たちは今、同時に死にかけている」


「っ!?」


少女の言葉に美咲は息を呑む。けれど、彼女の言葉を疑いはしなかった。事故の記憶がはっきりとある。あれだけの事故だ。これが夢でなければ、自分は死んでいてもおかしくなかった。


血の気が引いたまま、美咲は彼女の言葉の続きを待つ。少女が小さく頷いた。


「うん、良かった。下手に疑ったり、騒いだりされなくて。……本題はここからなの」


表情を改めた少女が告げる。


「まず、私とあなたは全く異なる世界に住んでいる。これを前提に話を聞いて」


美咲は頷いた。


「私の世界には魔法というものがあって、私は蘇生魔法を使うことができるわ。だから、死の間際に蘇生魔法を発動させたのだけれど、結果は失敗。……どうしても、魂が身体から弾かれてしまうのよね」


(魔法……)


少女の言葉に、美咲は唖然とする。既に非現実な事態に直面しているが、まさか、魔法などというものまで出てくるとは。美咲は彼女の言葉を受け止めきれずにいた。そんな美咲に構うことなく、彼女は「だから」と続ける。


「私と同じ魂を持ち、同じく身体から弾き出されてしまった魂を探したの。同じ世界にはいなかったから、世界を幾つも幾つも渡って、……そうして、漸くあなたを見つけたというわけ」


美咲が何も言えないでいると、少女がニコリと笑った。


「ねぇ、私と同じ魂を持つ誰かさん。私と身体を交換しない?」


「身体を交換って、そんなこと……」


したくない。その前に、そんなことが可能なのか。混乱する美咲に、少女は焦ったように二人の間の距離を詰めてきた。


「でもでも、ここで身体を交換しないと、私たち二人ともこのまま死んでしまうのよ?あなただって、死ぬのは嫌でしょう?だから、魂換(こんかん)の秘術でお互いの身体を入れ替えて生き返るの。ああ!勿論、新しい世界に新しい身体だから、慣れるまでは大変だと思うわ?でも、心配しないで!」


少女は矢継ぎ早に告げ、美咲の両手をギュッと握り締める。


「魂が入れ替わっても、互いの記憶は身体に残っているの。私があなたの記憶を引き継いで、あなたが私の記憶を引き継ぐから、それほど苦労することはないはずよ」


そう口にしながらも、少女の姿は徐々に薄れていく。美咲は、僅かに握られている感触のある両手に視線を落として、ギョッとした。美咲の手もまた、彼女のように透け始めていたる。小さく悲鳴を上げた美咲に、少女が再びニコリと笑った。


「確かに、ヒト一人の体に二人分の記憶が入ることになるから、最初は少しだけ混乱すると思う。それはちょっと心配だけれど、でもまぁ、やってみましょうよ?このままじゃ、どちみち、私たち死んじゃうだけだもの」


最早、少女の姿はほとんど見えない。声だけになった彼女に、「それじゃ、いくわね?」と告げられ、覚悟の出来ていない美咲は慌てて止めようとした。が、少女の「ああ、そうだ!」と言う言葉に遮られる。


「まだ名乗っていなかったわね。私はリリー。これでも、元の世界では聖女様って呼ばれているわ!」


「えっ!?」


「だから、それなりに慕われている、はずなんだけど。……何故か殺されてしまったのよね?」


「っ!?」


物騒な言葉に驚く美咲に、リリーは「でも、まぁ、大丈夫!」と笑う。


「私の身体の記憶を使えば、そうそう危ない目には会わないわ!味方になってくれる人もたくさんいるから!」


「ま、待って!」


制止する間もなく、リリーが美咲には聞き取れない言葉を唱えた。途端、真っ白だった世界が闇に飲まれる。


「それじゃあね、私になる誰かさん!私の世界を楽しんで!」


その言葉が聞こえたのを最後に、美咲の意識は急速に遠ざかっていった――






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