【第二章 犯人は二人】 (十九)誘拐
着替えをすませ、スーツをガーメントバッグにしまって出てくると、車は門前から少し目に付きにくいところに移動していた。
運転席には、長い髪を金髪に染めた男がうつむいていた。寝ているのかもしれない。
そっと窓をノックすると、ああ、とけだるげな声が聞こえた。
「すんません。うしろに籠があるんで、そちらに入れていただけます?」
男はまた、うつむいてしまう。
渥は仕方なく、後部のスライドドアを開けて、車に乗り込む。車内は、あの、錆びた苦いにおいに満ちていた。車が古いのか、レンタルの喪服にいろんな線香のにおいが染みこんで、おかしなことになっているのか、と考えつつ、バッグを籠に入れようとした。
そのとき、車が急発進し、スライドドアが閉まった。渥は座席の肩をつかみ、体が転がりそうになるのを防ぐ。
「すみません、俺、まだ乗っているんですけど!」
運転席に向かって怒鳴ると、金髪の男が振り返った。
「知ってるよ、檜渥さん」
見覚えがある顔だった。昨年十二月、結城の葬儀に来ていた「龍」の頭領、青龍だ。
何でこんなことを、と言おうとして、錦に青龍とは話すな、と言われていたのを思い出す。
黙っていると、青龍が明るい声で笑った。
「お利口さんだ。さて、夢現流で何が起こったか、話してもらおうか」
それは、森島たちの事件のことだろうか。
「……答えねえか。――知らねえのか?」
渥はバックミラーに向かってうなずく。
「困るなあ。あのさあ、明がすごく泣いているんだよ。わかる? 夢現流のやつに聞いているかもしれないけど、『龍』ってのはさ、やみくもに人を殺しているわけではないんだ」
聞いてねえぞ、と思いながら、渥はバックミラーを見つめる。青龍はつまらなそうに目を細めていた。
「俺が殺せと言った奴しか狙えない。生け捕りにしろと言った奴は、そのまま『龍』まで連れてくる。傷の深さだって、このくらいでやれと俺が命じている。間違えると、場合によっちゃ破門だ。破門ていうのは、俺が責任もって命を奪ってやるということなんだけどな。――殺し間違いが、組織にとって致命傷になることもあるんでね。ちゃんとしているんだよ」
――殺しの手順にきちんともくそもあるか。
心の中でつぶやき、頭を整理する。
新井明が泣いているということは、森島、吉岡の二人は殺しの対象ではなかったことになる。それなのに、死者が出た。破門の危機なのかもしれない。
「明はさ、俺の息子になる男なんだ。困るんだよな。そういう大切な奴に対して小細工されると。わかる?」
大切という割には、声は冷めている。場合によっては、新井明を殺して別の養子を探してきてもいい、というくらいの冷め方だ。「龍」はそういうところなのかもしれない。新井燦だって、頭領候補で二十歳以上まで育っていたのに見捨てられた。
最近入った人間を殺すくらい、何てことはないのだろう。これでは、確かに新井明も泣くかもしれない。
少し、かわいそうになった。
「あの。確かに、新井明……さん以外には合理的に考えて犯人と言える人が、現状いないのは確かです。でも、誰も殺した瞬間を見ていないので、断定はできない。そういう状況です」
今、変な決断をしないでほしかった。新井明が殺したと考えれば、現場から逃走した人が見つかっていない理由にはなる。けれども、彼自身は渥たちの前で、殺していないと明言している。実際殺していたのなら、そんなことを言う必要もない。
――それに……。
思い当たって、渥は顔を上げた。
「新井明さん、左利きですか?」
島田は、吉岡の傷について、×印になったもののうち、左胸から右下にかけての傷が酷かったと言っていた。前方から刺したなら、左利きの人がより力が入りやすい傷だ。背後から抱えるようにして刺したのなら右利きだが、新井明は小柄だから、とうてい、そんな刺し方はできない。
「右利き。使おうと思えば左も使えるだろうよ。それで?」
「致命傷は左胸から右下への傷らしいです。新井明さんの体格で、右利きなら、つけにくい傷ですよね」
頼むから、新井明を殺すなんて選択はすぐにするなよ、と言外に込めて言う。
立場上、敵に分類される相手であれ、間違いで処刑されるのは気持ちがよくなかった。
「それでも、明以外の人が殺したという合理的な理由が見当たらない?」
「今のところは」
ふん、と青龍が鼻で笑った。
車は最寄り駅の前で停まった。
「おもしろいな、あんた。いい子だから、解放してあげよう。お駄賃だ。手を出せ」
手のひらを差し出すと、青龍は十円玉を三枚乗せた。
「俺に金をもらう奴なんて、おまえが初めてじゃないかな」
それから、出ろ、というように顎をしゃくる。渥は慌ててスライドドアを開け、外に出た。ドアが閉まると同時に、車は発車した。
渥は手のひらの十円玉を眺めた。公衆電話で連絡して迎えにきてもらえ、ということなのだろうが、夢現流道場の電話番号を知らないままだった。
――怒られるだろうなあ。
そう思いながら、公衆電話に十円玉を入れ、檜家の番号を押した。
すぐに電話はつながり、檜家の執事である岩田の気取った声がした。すぐに十円玉を追加する。
「ああ、俺。渥だ。今、夢現流に最寄りの駅にいるんだ。夢現流道場に連絡して、誰か迎えをお願いしたいんだ。道場の電話番号知らなくて」
また、十円玉を追加。これで使い切った。
「ともかく、最寄り駅に迎えを頼んでよ。俺、金もないし、道場まで戻れないんだ。え? 兄さん? 言わなくていいから。事情? 金がないって」
東京から三重まで何キロあると思っているんだ、と思いながら、「じゃあ、よろしく」と言って受話器を置く。もう少し長くしゃべっていたら、通話途中で切れるところだった。
――まあ、金があって兄さんに事情を知られて叱られるよりはマシだな。
うっかり青龍に車に乗せられたなんて言ったら、錦がどれだけ怒るかわからない。
――でもあの感じなら、檜家の襲撃はないかもな。
駅前のベンチに腰掛けて、そんなことを考えているうちに、龍之介が迎えに来た。
「檜渥」
いちいちフルネームで呼ぶのはやめてくれ、と思いながら、「はい」と言って車に乗り込む。
「どういうことだ。なんで、おまえがここまで移動してるんだ」
「レンタルスーツを返しただけです。車の後部に籠があるから入れろと言われて。で、中に入ったらそのまま車が走り出したから、こういうことになっています」
「レンタルの人がそんなことするか? 電話架けて本当かどうか確かめるぞ」
どうやら、渥がレンタルの人に頼んで脱出を図ったとでも思っているらしい。
「連絡はやめておいたほうがいいですよ。レンタルの人、青龍でした。確かに、俺が参列するんだったら、ばかでかい喪服が必要になること、簡単に予想がつきますよね」
新井明が殺したのではないという声明が「龍」から出たのだとしたら、あちらはもう、多津見流の人が亡くなったことを知っていたということになる。夢現流の人たちは着物の喪服があっても、渥が持ってきているはずもない。
きっと、最初から渥をつかまえて事情を聞くつもりで、レンタルショップのふりをしたのだろう。
「はあ?」
怒りと戸惑いを含んだ声が返ってきた。
「だから、『龍』側は最初から、貸した衣装を返却させるついでに俺と話をしようとして」
「おまえ、青龍と話したのか」
「しましたよ。そりゃあ、向こうだって事情を聞きたいでしょう」
「何を話した? ……いや、道場に帰ってからだ。現と一緒に聞く」
急に気分が重たくなった。
錦以外に渥をこっぴどく叱りそうな人がいる。現一狼だ。
渥はシートに背を預け、面倒くさいことになった、と思った。




