【第二章 犯人は二人】 (十)古参
あまり呼吸をしないようにして建物を出ると、早足に奥の建物に向かう。屋根が大きく、金属で覆ってある。おそらく、もとは茅葺きの家なのだろう。
奥の家の玄関を入ると、土間で現一狼が待っていた。風呂敷包みを抱えている。父親への手土産らしい。事件で汚したのか、袴を履き替えてもいた。
「すみません。いきなり事件で」
現一狼は苦い顔をして頭を下げた。
「いや、おまえのせいじゃないんだし」
「もう片付きました。今夜から明日にかけて、あれこれありますけれどね。……ともかく、新井の父に挨拶してしまいましょう」
何も声を掛けずに、現一狼は草履を脱いで家に上がった。
「現一狼のお父さん、ここに一人で住んでいるのか」
新井の父。つまり、父親の名字が「新井」ということなのだろうが、言い方が変な気がした。でも、その人の名字を受け継いでいるだけなら、現一狼自身は「龍」とは無関係かもしれない――そんな期待を抱く。
「戸籍上は父ですけれどね。新井燦と言います。燦々と、の燦。僕と同じ身の上の者ですよ」
「同じ?」
「気づいているでしょう? 『龍』から連れ出された、『龍』頭領の親族です」
渥は土間に立ち止まったまま、上がりかまちのところで振り返る現一狼を見上げる。
「おまえが?」
「ええ。僕は、先代『龍』頭領・緑龍の息子です。今の青龍は緑龍の養子ですよ」
「なんで」
「僕、小さい頃は体が弱かったので。見込みがなかったんでしょう。捨てられました」
さらっと言い放ち、現一狼は家の奥へと向き直る。
「新井さん! 現が戻りました!」
それから、手を頬に当て、大声で奥に呼ばわった。
建物にはふすまや障子がない。ただ、明かりがなく、わずかに入ってくる日光では、どこに何があるのかよくわからなかった。
不意に、がさり、と畳がこすれる音がした。
「現か。お帰り」
しわがれた声がして、高齢の男性が現れた。見た感じでは、九十歳近い。背中は丸くなり、袴の皺は乱れ、襟元がゆったりするように着物を着ている。現一狼たちは着物の下にシャツを着ているが、この老人は着ていない。
「ただいま。新井さん。これ、お土産です。伊勢名物ですよ」
「ああ、お伊勢さんか。懐かしいな」
「まあ、名古屋から西側の駅では、比較的どこでも売っているものですけれどね」
「いやいや。食べると昔を思い出す」
老人は菓子の箱を捧げ持った。ふざけているようにも、真剣であるようにも見える。
感情が読み取れず、得体が知れない。
「いい思い出ですか? それ」
現一狼があからさまに顔をしかめた。
「あの地獄があればこそ、今、一世紀近く生きられているのだからな。多少の不便が小鳥のさえずりのごとき可愛らしく思える」
「不便があれば門下生にお伝えください。よろしければ今、僕がうかがいましょうか」
「ああ、そうかね」
現一狼が老人の口元に耳を近づけた。老人がぼそぼそと何事か言う。現一狼がため息をついた。
「わかりました……。でも、その設備がこの古い家につくかどうかわかりませんよ。それより、照明をつけませんか」
「活動は日があるうちでじゅうぶん。照明なんてつけたら、夜、居場所を隠すのにいちいち消すか、布を被せるかせんと。面倒だ」
「空襲はもうありませんよ。灯火管制もありません」
「だが、襲撃があるそうだ」
現一狼が黙り込んだ。
「おまえが予告をうけたのだろう。目的ははっきりしているのか」
「……はい。新井さんが明かりを点けたって、問題ないと思いますよ。――最悪、僕一人で防ぐ自信があります」
「それは、しばらく現一狼が空席になるような作戦か」
また、現一狼が沈黙した。
渥は土間で立ちすくんでいた。二人が怖い顔をしているのは、暗がりの中でもなんとなく分かった。ただ、話が見えない。
「なるべく、そうしたくありません。わかりました。照明の件は、このままで」
「うん。それで、そちらの人が」
老人が渥を指さす。
「そうです。檜家の、今の次男です。渥さんとおっしゃいます」
現一狼が声をひそめた。
「なるほど。あの檜家」
「その辺り、僕は理解していません」
「推測できるだろう。檜家に行ったのなら」
「しかし、ご存じならお聞かせ願いたい。……もちろん、あとで結構です」
二人は小声でやりとりすると、そろって渥を見た。
人には言っていないが、渥はかなりの地獄耳だ。だから、今の会話もすっかり聞こえている。突っ込みを入れたいところはいくつもあったが、まずは挨拶をしよう、と心を落ち着ける。
「初めまして。檜渥と申します。お世話になります」
「ああ、どうぞ。お上がりなさい」
老人がこれまでとは打って変わった凜とした声で告げた。
靴を脱いで揃え、部屋に入る。
「菓子です。お納めください」
正座して、手土産の箱を差し出す。
「ありがたい。これはわたしの好物だ」
「えっ、そうなんですか」
現一狼が菓子箱を見つめた。
「これはどなたがお選びになったのかな」
老人が目を細めた。試すような視線だった。
「兄の錦が取り寄せたものです」
「なるほど、先代現一狼も、檜家の先代当主も、おしゃべりだったとみえる」
「え?」
「おそらく、わたしのことを先代現一狼が檜惣時郎さんに話したのだろう。惣時郎さんは錦さんに話した、と」
老人が得意げに説明し、菓子の箱を現一狼が渡した箱の上に乗せた。
現一狼がため息をついた。
「どうやったらあの先代を饒舌にさせるんですかね」
「檜惣時郎さんはそういう人だったよ」
「お会いになったことがあるんですか」
「いいや、でも、先代が随分親しくしていたからな。戻ってくる度に、惣時郎惣時郎言われては、理解もしようというもの」
渥はなんだか恥ずかしくなる。
確かに父は、人を惹きつけるところがある。それは若いころからで、渥くらいの年齢ですでに女子校でファンクラブができていた、と聞いたことがある。通っていた高校でも、宗教みたいになっていた、とも、高校の生徒会の頃から檜惣時郎をサポートしていた人たちが、葬儀や法事の場で話すのを聞いたことがある。現に、当時副会長だった人が、檜惣時郎の選挙区を守るという名目で政治家になっている。錦が被選挙権を得たらすぐに代わると言っているが、案外、本気かもしれない。
だが。
子どもである渥から見れば、檜惣時郎は計算に強く、抜け目がない人物だった。悪く言えば、腹黒だ。父親だから尊敬しないわけではないが、あまり好きではなかった。つねに、何かを隠しているような雰囲気があったのだ。
たぶん、誤解で心酔したんです、と言いたいのを堪え、渥は「そうですか」とだけ答える。
「では、客人と少しお話をしようかな。現、さっきの話、龍之介のところに持っていってこい」
「今、ですか? 渥さんは」
「久しぶりに迎えた客だからな。最古参のわたしが話をしないと」
「何を話すんです? この人については、事前に手紙でご連絡差し上げたはずですが」
「知っておる。余計なことはしない。ただ、檜家とは関係のない話をしたいだけだ」
「言っておきますが、彼はふつうの高校生ですからね。門下生と同じようには扱わないでください。その上、安全確保のために預かっている人なんですから」
「ああ、わかった、わかった」
面倒くさそうに手を払う。現一狼が不満そうに眉を寄せたが、老人は全く動じる気配はない。
「……わかりました。早めに解放してあげてください。一時間後には迎えに来ます」
「そんな余裕があるのかな」
「どういうことです」
「さっき、龍之介に持ってこさせたんだが――これよ」
老人がふところから風呂敷を出す。開くと、血の付いたアーミーナイフが転がり出た。血で風呂敷を汚さないためか、指紋をつけないためか、ビニールに入れられている。
「龍之介の話では、森島がさきにやられて、吉岡が次にやられたようだ、という。凶器はこの一本だ。さっき、ちょっとアルミニウムの粉を使ってな、調べてみた。指紋はきれいに拭き取られているな。なるほど、凶器を引き抜いた者がいるようだ」
「殺人事件として内部で処理中です」
「現、このナイフは、におうか」
「……新井さん、こんなところで」
「殺したてなら、まだにおいが残っているだろう。どうだ、におうか」
老人はビニールごしに柄を持ち、血の付いた刃の部分を現一狼に向ける。現一狼が顔を背けた。
あの錆びた、苦いにおいが、ふわっと漂った。
「ええ、人を殺した凶器だという、証のにおいが」
「では、おまえは誰が犯人だかわかっているのではないか?」
「何をおっしゃりたいんです」
「しらを切るな。なぜ、犯人の名を言わない。……現。ハンカチを持っているな? 見せろ」
老人の視線は厳しかった。現一狼は、やれやれ、といった調子で懐や袂を探る。あっという間に、畳の上に手ぬぐいや包帯、身の回りの道具などが並んだ。
「持ち物はこれだけですよ。ハンカチにしているのは、これ」
現一狼は手ぬぐいを老人に差し出す。老人が端をつまんで広げた。
白地に薄い模様が入っているだけの、シンプルな手ぬぐいだ。汚れはない。血もついていない。老人は日光に透かして、長い間手ぬぐいを見ていた。
「現。……わたしの行動を読んでいたのか」
「まさか。何をお疑いですか? 僕がおきてを破ったとでも?」
「では、おまえが吉岡と森島を見つけたときには、二人はもう死んでいたと? 逃げた者も見ていない? 事件の第一容疑者は、元多津見流の新井明らしいが、ほんとうにそうか?」
「事件のことは、若い者に任せてください」
現一狼は落ち着いた声で言って、畳の上の物を懐にしまい始める。
「さきほどのお話、龍之介に伝えてきます」
最後に、老人の手から手ぬぐいをとると、現一狼は一礼して立ち去った。




