【第五章 五つの息子】 (五)二人
昭和五十五年十二月。
伊勢に参る街道から檜家へと入る小道に、人の気配がする。
檜惣時郎は手入れをした刀を床の間に据え、耳を澄ませた。
陽の射す庭からは、子どもの声がしていた。まだ幼く、言葉というよりは、明瞭ではない叫びに近い。が、惣時郎は目を細め、それに聞き入った。
だが、子どもたちの遊びに惣時郎が加わることは滅多になかった。東京で過ごしていることが多いせいもある。子どもたちは母親である夏美が大好きだ。週末や、会期明けに伊勢に戻ってくるだけの惣時郎よりも、身近な存在なのだろう。
溜息をついて立ち上がり、廊下に出る。普段着の着物の袴が擦れ合い、音がした。近頃は着物を着る者も少なくなった。プライベートより、議員として働いているときのスーツ姿のほうが目立たない、という矛盾もある。
気配は家に近づいて来ていた。檜家に入るには、一人通れるだけの狭い小道をやってこなければならない。やってくる人物は、あの大きな体であの道を歩いているらしい。
子どもたちの声がやんだ。
惣時郎は玄関の扉を開けた。やはり、二十七代現一狼だった。
もう十二月というのに、いつもの濃い緑色の羽織を着ただけの姿だ。
着物姿でも珍しいのに、黒髪を伸ばした大男では、道中、目立ったに違いない。
「珍しいな、現一狼」
「そうだな。ここを訪れるのは、二十五年ぶりか。……すまん」
「どうした?」
「ここを訪れない約束だったはずだ」
妙に暗い顔をしている。惣時郎は笑ってみせた。
「約束っていうわけじゃない。あのときは、なるべく檜家に顔を出さないほうがよかったっていうだけだ。俺はどこでもおまえを歓迎する」
上がるよう勧め、応接間に案内する。
現一狼は見慣れないように、辺りを見回した。無理もない。現一狼が過ごした檜家とは、間取りも違ってしまっている。
「もともと居間だったところだ。お客さんがきたらここ」
「応接間、か。政治家には必要だろうな」
現一狼は差し出された座布団を敷き、床の間に目を遣った。
「あの刀、使ってくれているのか」
「もちろん」
惣時郎はさっきまで手入れしていた刀を手に取った。
刀の鍔には、スズメバチの紋章が入っている。
現一狼の羽織についているのと同じものだ。
「まあ、稽古のときだけだけどな。もう、実戦はないし」
現一狼の目の前で、鞘を抜き払う。使われたことのない刀は、手入れをすればいつまでもきれいだった。
檜家に代々伝わっていた刀は、惣時郎と現一狼がやりあったときに折れてしまった。実際は惣時郎が折ったのだが、現一狼が責任を感じて元の刀と同じ大きさの鍔をつくり、自分の流派の紋章を彫らせて惣時郎に贈った上で、新しい刀をつくる費用を出してくれた。
「岩田は?」
執事の岩田の名を呼ぶ現一狼は、顔をしかめていた。
事件当時、現一狼は岩田を許していなかった。だが、その後の岩田の真面目さから、許しはしないが温かく見守ることができる程度にはなっている。
この様子では、そうそう顔を合わせたい相手ではないようだが。
「夏美といっしょに買い物に出かけているよ。ひろ子ちゃんは結婚したって言ったよな?」
「うん、知っている」
現一狼が居心地悪そうに膝を揺らした。
「わざわざ檜家にくるなんて、急ぎの用事なんだろう」
「すまん。……おまえがもう地元に戻ったと、葭原に聞いたんだ」
それで用事は、と聞こうとしたとき、庭で歓声が上がった。
岩田が竹を使ってつくってやった輪投げをしている。輪投げといっても、一メートル程度の高さの竹に、小さな子どもが二人、軽く入れるくらいの大きな輪をくぐらすというものだ。
庭で遊んでいるのは、惣時郎の息子たちだ。
一人は小さいながら、惣時郎と同じ薄茶色の着物を着ている。
もう一人は洋服だ。
「上の子が錦君、下の子が渥君だったな」
現一狼の表情が和らいだ。
「そうだ。岩田も無茶な大きさの輪投げを作るだろう?」
「輪は何でできているんだ?」
「しっかりよった藁だよ。ときどき、輪投げじゃなくて、電車ごっこに使っている」
「渥君もしっかり走っているな。一歳じゃなかったか」
渥の話をされて、惣時郎はドキリとした。
「渥だって、もう一歳九か月だ。もうじき二歳だよ。あんなものだろう」
「そうかな。龍之介はもうちょっと、足元が覚束なかったような」
「錦だってそんなものだったよ」
「錦君は二歳何か月だ?」
「二歳十か月。来年の四月から幼稚園だってさ。子どもの成長は早いな」
不意に現一狼が立ち上がり、縁側に出た。それから、おーい、と子どもたちに呼びかけた。錦と渥が不思議そうに現一狼を見る。惣時郎が慌ててうなずきかけると、縁側へと駆け寄ってきた。
「おきゃくさんですか」
錦が縁側に手を突いて、現一狼を見上げた。
「お客さんだよ」
現一狼はふわっと笑うと、錦を抱き上げる。錦の栗色の髪が揺れ、現一狼の頬をかすった。くすぐったいのか、現一狼は少し顔をそらし、ふ、と笑った。
「おまえによく似ているな、惣時郎」
「よく言われるよ」
現一狼でもそんなふうに笑うんだな、と思いながら、惣時郎は応じる。
その間に、渥が靴を脱いで縁側に這い上がってきていた。乳離れして何か月も経たない子どもにしては、あいかわらず力強い動きだ。
現一狼もそう思ったのか、おお、と感嘆の声を上げる。
「なんだ、目つきは惣時郎そっくりだ」
空いている手に渥を抱き上げ、現一狼は微笑んだ。
錦が、「おきゃくさんだよ」と言って渥に手を伸ばした。
渥はじっと、現一狼を見上げている。
ふと、渥を見ていた錦の表情が固まった。
気がつくと、渥の泣き声がしていた。
「あ、すまん」
惣時郎は慌てて現一狼から渥を受け取る。渥は青い顔をして震えていた。
「気分が悪くなったのか?」
現一狼の心配そうな声が聞こえた。惣時郎は渥の顔が見えないように、胸元に顔を伏せさせる。しばらく、渥は、すんすんと惣時郎の着物のにおいをかいでいた。
「ああ、落ち着いてきたな。悪かった、いきなり抱き上げたりして。怖かったよな」
現一狼は苦笑していた。惣時郎は曖昧な笑みを返しつつも、立ち尽くしていた。
「あつみ!」
現一狼に抱かれていた錦が、身を乗り出した。畳の上に下ろされると、錦は惣時郎の方に走ってくる。渥が身をよじり、錦へと手を伸ばした。
惣時郎が畳に下ろすと、錦の方から渥に抱きついた。力がこもっているが、渥もされるがままになっている。
ひととき、しっかりと渥を抱きしめたあと、錦は顔を上げ、惣時郎と現一狼に頭を下げた。
「すみませんでした。ぼくたち、へやであそびます」
渥が、「わなげ」とつぶやくのが聞こえた。錦が、「おへやだよ」と諭す。
現一狼は二人の様子がおもしろいのか、笑いを堪えた顔をしている。惣時郎は気が気ではなかった。
「じゃあ、部屋で遊んでおいで。靴と草履は玄関に戻しておくから」
そう言い、二人が上がって行くのを見送って、惣時郎は溜息をつく。
「どうした。かわいいじゃないか」
現一狼はこらえきれず、くつくつと笑っていた。
「笑いごとじゃない」
惣時郎は怖い顔になった。
「なんでだ。おれは気にしていないぞ。実際、急におれに抱き上げられたら怖いだろうしな」
「おそらく、そうじゃないんだ。……実は、渥が生まれて半年くらいのときから、うちは北の窓を開けていない」
不思議そうに、現一狼が首を傾げた。だが、次第に表情が強ばっていく。
惣時郎はうなずいた。
「渥は、母屋の南側の庭でしか遊ばないんだ。離れに近づこうとしない。錦が誘っても、立ち止まって泣いてしまう」
「それは……林次郎殿と同じように、死臭がかぎわけられる、ということか」
「おそらく」
惣時郎たちは黙り込んだ。
林次郎は檜家の最後の殺し屋だった。秀でた能力をもっていて、生まれたときから殺された人のにおいがわかったという。そのため、代々、幾多の殺人が行われてきた北の離れに立ち入ることができなかった。においが濃すぎるのだ。
惣時郎には、ほとんどそのようなにおいが感じられない。殺し屋となる檜家の直系の子どものうち、最も適性がある者だけが身につけている力だ。
そんな能力を持った子どもが檜家に産まれたとなると、再び、殺人を、と言い出す者がいないとも限らない。
「現一狼に抱かれて泣いたのも、おそらくは」
殺された人のにおいは、殺した側にもついている。現一狼は、殺人を犯したことがあるのだ。
「じゃあ、渥君は、岩田には」
「岩田になついているのは、錦だけだ」
まだ幼いから親以外にはなじまない、というのではない。本能的に、岩田のそばから少し離れているように見える。
「大丈夫だ、現一狼」
わざと明るく言ってみせる。
「いくら適性があっても、幼いうちに訓練をつまなきゃどうにもならないんだ。それを教えられる家はもう」
殺人術を教える家の生き残り、園田みどりは、ここにはいない。
別の寂寥が二人の間に漂った。
「現一狼、すまん。蒸し返すつもりはないんだ」
頭をさげる。だが、現一狼は畳を見つめたまま、動かなかった。
しばらくして、懐に手を入れると、こういった。
「実は惣時郎。おれこそ、蒸し返そうとしているんだ」
差し出されたのは白い封筒だった。上の部分が細く千切られている。宛先は、現一狼の本名、伊藤拓真だった。住所も夢現流道場だ。差出人は書かれていない。
しかし、奇妙な筆跡だった。
ていねいなような、乱暴なような字だ。けっして上手くないが、誠意は伝わってくる。
首を傾げて、消印を見てみる。
伊勢から近いとはいえないが、夢現流道場からみれば、ずっと近い。
封筒の中には腕時計が入っていた。最近まで使っていたのだろう。秒針が時を刻んでいる。
「その時計、十四年前に、おれが、みどりに贈ったものなんだ」
現一狼が苦しげな声で言った。
2025年1月26日16:45 誤字を直しました。




