【第四章 四人の男】 (二十九)岩田
惣時郎のねぎらいの言葉も聞かず、岩田は部屋に入っていった。
それを見届けると、惣時郎は遺書を眺める。
背後から現一狼の声がした。
「岩田君が執事を継ぐんじゃないのか」
振り向くと、遺書を覗き込んでいる。
「現一狼が見るようなもんじゃないよ」
「数行とは、遺書にしては短いな。山下さんの筆跡で間違いないのか」
「間違いないよ。ただ、俺が見る限り、山下さんは健康そうだったけれど」
溜息をつき、遺書を折りたたんで懐にしまう。
現一狼は困ったように天井を見上げた。
「それで? おまえは、これをどう見る?」
「どうもこうも。訳が分からない。執事としての話だと考えると、おかしい。譲るべき次世代がいないってこともないし。岩田がいるだろ」
こんなことを書くくらいだから、やはり山下は岩田を殺し屋候補として育てていたのだろうか。だから、執事としての仕事を継ぐものがいない、と?
ただ、「檜家に必要な次世代」という言い方はひっかかる。執事としての仕事に対する誇りからすれば当たり前なのかもしれないが、檜家全体から見れば、大げさなようにも思える。当主によっては、山下のような人物を置かず、自分で管理していた場合もある。
じゃあ、これまで檜家に欠かせないものは何だったかというと、当主と殺し屋だ。もちろん、檜家に関わる者たちがいてこそ成立する檜家だったが、どれだけ彼らががんばっても、当主と殺し屋なしでは何もできない。
つまり、これまでの檜家としてのありようは、惣時郎が一人っ子のまま跡を継いだことで、失われたのだ。ゆのが惣時郎に詰め寄ったのも、檜家が崩壊するという危機感からに違いない。すでに叔父を失ってから、檜家は活動停止状態にある。
このままでは、今までのありようがすべて否定されることになる。檜家に関わる者たちにとっては存在意義を問われる危機的な状況なのかもしれない。
檜家は崩壊するのか――惣時郎としては、その通りだ、としか、檜家に関わる者には言えない。
殺し屋はいない。
育てる気も、指示する気もない。
明日に光があるかのように、強いていうのならば「変わる」のだ。
これからは、皆、殺人には関わらない。まっとうに生きていくだけだ。
静穏をおびやかす者がいても、手を下すことはできない。そういった者たちとも折り合いをつけて生きていくか、警察など公を頼みに告発するか、だ。
自分たちで手を下せた時代から見れば、まどろっこしいだろう。だが、父も惣時郎も、それを選んだ。
嫌だと言うものは多いに違いない、というのを、惣時郎は、ここ数日で体感している。葬儀の日に言葉を交わした若い男たちもそうだ。ゆのもそうだし、あのとき、惣時郎たちを取り囲んだ者たちもそうだ。
ともかく今の檜家は不安定だ。惣時郎も未熟で、彼らを納得させられるとは思えない。ここで、山下が育てていたという殺し屋候補が出てきたら、一気に当主と殺し屋がいる檜家を保つほうに、皆の考えが動くだろう。
――でも、叔父さんみたいな訓練された男を、山下さんが育てられるのかな。
みどりの両親の力がなければ無理だ。あるいは、叔父自身が育てていなければ。そういった人物を、父が知らないはずはない。父だって、叔父の周りには警戒をして、幾人もの側近に情報を集めさせていた。惣時郎は父の死後、まだ、彼らには接触していないが、居場所がわかる程度には誰かがわかっている。それに、殺し屋がすでに育っているのなら、檜家に関わる者たちのうちから、殺人の対象にしたい人物をほのめかす者も現れるはずだ。だが、いなかった。叔父が死に、肝心の殺し屋がいないからだ。
父の側近に見つからずに山下が育てていたとしたら、叔父の周辺にかかわらずに技を習得した殺し屋ということになる。岩田がそうだとしたって、父に危険視されていた気配はないから、檜家の殺し屋にふさわしい力は、まだない。
檜家の殺し屋は独特だ。技を習得しているだけではない。幼少期からの生活で身についた研ぎ澄まされた感性を活かして、記憶や思考力を総動員して戦う。用心深く、平穏な性格に見せることができ、端から見れば紳士的ですらある。そんな人物をいつから育てていたというのだろう。
ただ、気になるのは、ゆのが言っていたことだ。
〝山下さんは、林次郎様の代わりになる男を確保している、とおっしゃっていました〟
山下の言葉も同じようなことを言っている。「方法は一つある。難しい方法だが、それが生き延びる道だ」という部分だ。
惣時郎は首を傾げる。
みどりが対象ならわかる。だが、少女であるみどりが対象であるはずがない。
だとすれば、誰だ?
みどりが、叔父について「残すものは残している」と言っていたことを思い出す。それは、惣時郎が現一狼に斬りかかったのを見た後に、発せられた言葉だ。
――……まさか、俺ってことはないよな。
惣時郎は一瞬浮かんだ嫌な考えを振り払う。
叔父の影響は受けているが、皆に囲まれたときも、一線は越えていない。当主として育てられ、身に染みついた考え方が、それを許さなかった。
それに惣時郎が殺しをするというのなら、誰が指示をするのだろう。山下? 彼の号令で、皆が納得しただろうか。
惣時郎が当主であるかぎり、惣時郎は殺し屋にはなれない。
いくら未熟だと言っても、惣時郎以外の当主は、皆が納得しないだろう。
やはり、叔父ほどとは言えなくても、それなりの殺し屋を育てていた、としか。
でもそれでは。
「何を考え込んでいるんだ、惣時郎」
現一狼の声で我に返る。堂々巡りしていた思考を意識外に追いやる。
そもそも、殺し屋候補としてどんなやつが現れても、惣時郎が承知しなければいいだけのことだ。
「何でもないよ」
惣時郎は無意識に、にこりと笑って見せていた。現一狼が真剣な顔で見下ろしている。真面目なことを考えているというより、危険を感じて身を強ばらせている、という感じだ。
「おまえこそ、どうした?」
ここは檜家だ。死臭に敏感な現一狼には、嫌な雰囲気が満ちているだろう。ちょっとした空気の流れで、離れのにおいがこちらまできたのかもしれない。
惣時郎は手を取って居間に連れていこうかと思った。縁側に出れば、表通りのにおいも漂ってくるかもしれない。殺人とは関係のないにおい。だが、現一狼に不用意に触れれば、投げ飛ばされてしまう。屋内の狭い廊下では、受身を取っても壁に激突してしまうかもしれない。
逡巡していると、現一狼が表情を緩めた。
「やっぱり、おまえは当主が似合っている」
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと静かに告げる。
「何だよ、どうしたんだ?」
「真実が知りたいか」
「何の?」
「山下さんの事件の」
「もちろん」
「じゃあ、覚悟をしろ。見届けてやる」
何の、と聞き返す暇はなかった。
現一狼が背を向け、去り際に言った。
「あの部屋は、仕組まれた部屋だ。脚立やロープが用意されていたのも、そのためだ。誰が何の目的でやったのか、調べろ」
それは、事件のヒントということだろうか。そうだとして、現一狼はいつ、それを知ったのだろう。
惣時郎は、ぽかんとして立っていた。
だが、二階の客室にあった物を思い出し、台所を覗き込んだ。
「ひろちゃん」
声を掛けると、ひろ子が奥から前掛けで手を拭きながら出てきた。
「惣時郎様、今日の夕飯は水炊きの予定です」
思わず、惣時郎は頬を緩める。鶏肉と野菜を煮た水炊きは、好物だった。だが、そんなことを聞きにきたのではない、と思い出し、頬を引き締める。
「ちょっと聞きたいんだけど、父さんの葬儀の日、物置から脚立を出した人って、誰かわかるかな?」
客といた惣時郎が気づかなかったとなると、檜家で働いている者たちの誰かが、二階に脚立を運んだはずだ。物置で物音がすれば、台所にいることが多いひろ子は気づくだろう。
「ああ」
ひろ子の表情が曇った。
「あの、岩田さんに悪いところはなかったと思うんです」
「岩田?」
「黙っていてすみません。岩田さんが叱られると思って。離れでの宴会の最中、山下さんが怖い顔して、岩田さんをお呼びになって。脚立を持たせて一緒に二階に行ったんです。三嶋様が上がられる前でしたけど」
――山下さん自ら、脚立を運ばせた、というのか。
まさか、自分が殺される準備を自分でするわけがない。岩田に脚立を運ばせた理由は、ほかにあったはずだ。
「わかった。ありがとう、ひろちゃん」
惣時郎は台所から二部屋隣の岩田の部屋のドアをノックする。
顔を出した岩田は、顔色が悪かった。
「どうした? 具合が悪いなら、いいけど。ちょっと話を聞きたいんだ」
「大丈夫です。……どんな話ですか」
開けたドアに手を掛けたまま、岩田は口の端を引きつらせている。
「ごめん、ほんとうに少しだけ。あのな、山下さんが亡くなる前に、一緒に二階に上がっただろ。脚立を持って。脚立、何のために運んだのかな」
あからさまに、岩田の様子がおかしくなった。惣時郎に視線を当てたまま、唇を震わせている。震えは頬にも振動を与え、顔色が一気に悪くなった。
もういい休め、と言おうとしたとき、岩田が振り切るように視線を逸らした。
「ごめんなさい。……ぼくには、できませんでした」
「え?」
表情を確かめようと、覗き込む。それを避けるように、岩田が顔を上げた。
「惣時郎様を拷問にかけるなんてできませんでした」
小さな声なのに、震えているのがはっきりとわかった。
「……拷問?」
「山下さんは、檜家のために必要なことを承知していただくために、惣時郎様を縛り上げて天井から吊るすつもりだったんです。惣時郎様を押さえつけるには、一人じゃ無理だからって、協力するように言われました。きっと惣時郎様はふつうにしていたら承知しないだろうからって」
理解するのに時間がかかった。
山下は、当主である惣時郎を拷問して言うことを聞かせようとしていた。
うそだと思いたかったが、山下の言ったことも、書いたことも、裏付けになる。
そもそも、当主である惣時郎が承知しなければ、どんな者も殺し屋として使うことができないのだ。
逆に、惣時郎さえ承知すれば。
「ぼくには、どうしてもできなくて。だから」
岩田は涙声だ。目も涙でいっぱいになっている。見開くことで、どうにかこぼれないようにしている。
「もういい。悪かった。部屋で休んでいてくれ。つらかったな」
何とかねぎらいの言葉をかけ、岩田の部屋の戸を閉めた。
かっと頬が熱くなるのをおさえられないまま、自室に戻る。現一狼は本棚にもたれて、『三国志』を読んでいた。
その晩、惣時郎と現一狼は一言も話さなかった。




