【第四章 四人の男】 (二十五)夏美
「十八になったときから、運転免許を欲しいと思っているのですが、なかなか機会がなくて」
現一狼が聞いたことがないような上機嫌で話しているのが聞こえた。惣時郎は車の後部座席で、助手席の現一狼と運転している水貴の兄の会話に耳を澄ました。
「僕も免許をとったのは最近だよ。父が車を買ったんで、誰かが運転しなけりゃならないからね」
「いいなあ。知り合いに乗せてもらってから、ずっと憧れなんです。うちでも買えないかと思って話をしたことがあるんですが、車一台で家が建つと怒られてしまって」
「あはは。確かに」
まだ少ない国産車や、各社が開発を進めているとされる小型車についての予想など、二人の会話は惣時郎の知らない方へと広がっていく。
惣時郎は肩をすくめた。
十年後くらい、すっかり大人になった現一狼が、自慢げに自家用車を運転しているのを想像したからだった。惣時郎には車に対する憧れはあまりない。自転車ですら、怪我すると危ないと山下に止められることがあった。事故を起こせば大変なことになる自動車は、なおさらだろう。自分で動かせないものに興味は持てない性質だった。
自転車はだめなのに、乗馬は小さい頃から訓練された。檜家の伝統らしいが、それなら運転免許の取り方を教えてもらったほうが、まだ、この先の社会で役立ちそうな気がする。
現一狼たちの話をぼんやり聞いていると、隣でごそりと水貴が動いた。
そちらに目を遣る。
水貴はうなだれていた。
惣時郎が現一狼に捕まってしまったことに、責任を感じているらしい。二人とも車にしか目が行っていなかったから、現一狼が隠れていることに気づかなかった。そもそも、水貴は現一狼を知らなかったのだから、気づくも気づかないもない。惣時郎が一方的に不注意だっただけだ。だが、そういうときも気にしてしまうのが水貴だった。
惣時郎はカバンから鉛筆を取り出す。
気づいて、水貴が自分のカバンを開け、ノートを開いて差し出した。
ありがとう、助かった
惣時郎はそう、記す。水貴が小さくため息をついた。本心だとわかってもらえなかったらしい、と惣時郎は察して、続けて書く。
お兄さんが車に乗せてくれなければ、現一狼に叱られていた。
水貴が、ん、という顔をして、鉛筆を取った。
どういう関係?
惣時郎はノートをのぞき込み、書き足す。
オレの客。ごえい?
あぶないめにあっているのか?
すぐさま書き足された文字に、惣時郎は考え込む。危険は危険なのだろうが、誰がどう出るのかさっぱりわからない以上、危険な目にあっているとは言えない。
大丈夫
信用ならない
不満げな水貴に、惣時郎は、ふふ、と笑った。声を聞いて、現一狼が振り返る。
「何でもないよ」
水貴の兄と車のおかげで、檜家に着いたあとも現一狼は機嫌が良かった。
檜家に続く細い道を二人で歩いている間、会話はなかったが、まっすぐ顔を上げて歩く現一狼は、いつもより穏やかに見えた。普段、少しうつむいているのは首筋を守るためだろう。叔父が、剣客は首を取られないようにわずかに身を屈めるのだと、まるで江戸時代でも見てきたように言っていた。適当なことを、と子ども心に思っていたが、案外、うそではないのかもしれない。
檜家の門をくぐるとき、現一狼が振り返った。
「何も言わずに出て行くな。あとで、中野さんに叱られるのはおれだからな。気をつけろ」
落ち着いた口調でそう言うと、石畳を歩いていった。
惣時郎は心の中で水貴の兄を思い浮かべ、小さく頭をさげた。
母屋に入ると、案の定、中野が駆けつけていて、現一狼を呼び出していた。自分に注意が向かないうちに、惣時郎は部屋に戻る。床にのばしてあった着物はきちんとたたんであった。ひろ子だろうか。現一狼かもしれない。
着物に着替え、現一狼が戻ってくるのを待っていると、部屋のドアがノックされた。
「誰?」
尋ねたが、答えはない。立ち上がり、ドアに近づくと、小さな声が聞こえた。
「そーちゃん」
慌てて惣時郎はドアを開けた。部屋の前には、小さな女の子が立っている。声を掛けるのが恥ずかしかったのか、もじもじしていた。白いセーターは首元を温めるように襟が立ち上がっている。とっくりセーターというやつだ。編んだ人が大きめに作ったのだろう。五歳の子どもの口元まで、すっかりセーターに埋まっていた。
「夏っちゃん、どうしたの?」
惣時郎はしゃがんだ。夏美はおかっぱ頭の髪をいじった。何かを言い出せないでいるようだった。
「中野先生のおつかい?」
夏美は中野の親戚だ。両親は、夏美を中野の父に託し、失踪した。ちょうど、今の中野家には小さい子どもがいない。中野の母親が子ども好きで、夏美を実の子同様に育てている。
「ん……」
夏美は困ったように足元に視線を落とす。赤いチェックのスカートの裾を握り、どうしようかという顔をしていた。
――中野先生のおつかいではないのかな?
夏美は賢い。幼くてもわかるほどで、幼稚園ではいつも覚えなければいけない言葉の多い役をもらっている。他の子は途中で忘れかけて言いよどむこともあるが、夏美に限ってそういうことはない。
明確な用事があれば、はっきり言えるはずだ。
「どうした? 夏っちゃん」
惣時郎は夏美を抱き上げる。ひゃ、というような声を上げて、夏美が惣時郎にしがみついた。
ちょうど、夏美と惣時郎の目線が合う高さだ。足元が浮いているのが気になるのか、夏美が白いタイツをはいた足の爪先をもじもじとこすり合わせた。
「お菓子も何もないけど、俺の部屋で遊ぶ?」
たしか、前に夏美が部屋にきたときに置いていった折り紙があったはずだ、と考えながら、惣時郎は部屋に入る。
「そーちゃん」
夏美が惣時郎の顔を両手で挟んだ。驚いた惣時郎の額に、夏美が自分の額をこつんと当てる。
「げんきそう」
「うん。どうしたの?」
夏美はじっと惣時郎を見つめている。幼児にしては真剣で、惣時郎はどきっとした。
さきほどまでの恥ずかしそうな態度はすっかり失せている。試験のときの学生に似た大人びた目だ。
「そーちゃん。やましたさんに、なんか、いやなこといわれた?」
突然の言葉だった。惣時郎は心の余裕を失い、夏美を抱える手に力を込める。夏美もしっかりと惣時郎の肩をつかんだ。
「……何でそんなことを聞くの?」
中野の差し金だろうか、と惣時郎は思案を巡らす。だが、すぐに夏美が答えた。
「そうじゃなきゃ、もっと、かなしいでしょう」
はっとして、惣時郎は夏美を廊下に下ろす。夏美はすんなりと惣時郎をつかんでいた手を離した。
「そんなふうに見える?」
「おじさんのときとぜんぜんちがう」
夏美のいう「おじさん」とは、惣時郎の父のことだ。人懐っこい夏美は、父にもなついていた。
「でも、げんきそう」
夏美は明るい声でそう言って、くるりと背を向けた。とんとんと階段を降りていく音を聞きながら、惣時郎は呆然と立っていた。
――なんだ、あれは?
気分が落ち着かなかった。階下で夏美が襖を開けて閉める音がした。居間に入ったのだろう。まだ、現一狼や中野が出てくる気配もない。惣時郎は、腹の底がわずかに痛くなるのを感じた。足を忍ばせ、一階に下りる。台所で熱い茶でも飲みたかった。
居間の前を通りかかったとき、中野の声が聞こえた。
「元気そうなのはいいけれど。惣ちゃんは、ほんとうに何も気づいていないのかな」
惣時郎は足を止める。
「おそらくは。でも、おれは何も知らないままのほうがいいと思います」
こちらは現一狼だ。
――知らないままのほうがいいって、何がだよ。
踏み込んでやろう、と思ったとき、中野が言った。
「いったん、家に帰ろう。なっちゃん、おいで。晩ご飯を食べなくちゃ」
夏美の前で、中野たちとケンカじみた話をするわけにはいかない。
惣時郎はあわてて階段へと戻る。
襖が開いた。
間に合わない、と思ったとき、夏美の声がした。
「わたし、そーちゃんのへやにわすれものした」
とってくる、と言って、夏美が居間から出てきて、襖を閉めた。
階段のそばで立ち止まっている惣時郎を見ると、夏美はにこりと笑った。首を傾げた拍子に、黒くつややかな髪がさらりと頬にかかる。
しい、というように、夏美が唇に人差し指をあてた。
どうやら、夏美は廊下に惣時郎がいるのに気づいていたらしい。
惣時郎は拝むように手を合わせて、口の形だけで、声を出さずに、ありがとう、と伝えた。
夏美がうなずく。
惣時郎は階段をそっと上り始めた。
足音を立てないように部屋に戻り、ドアを閉めたあと、階下で夏美が居間へと走って行くのが聞こえた。
夏美の賢さに、すがすがしい感謝を覚える。
けれど、その気持ちが消えたあと、もやもやと不満が湧き上がってきた。
――何も知らないままのほうがいいと思います。
ここ数日親しくしてきた現一狼が、陰でそんなことを言っていたことに腹が立っていた。




