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【第四章 四人の男】 (十六)呪詛

〝二階の部屋の窓の上に人の体がぶら下がっているんだ! 母屋の、北側の、真ん中あたりの〟


 立川(たちかわ)は、そう言った。庭から見たのだろう。

 けれど、今は秋も深まって寒い。風呂上がりに散歩に出るような季節ではない。


 ――立さん、いったい何をしに庭に出たんだ?


 惣時郎(そうじろう)は居間に足を向けた。どれだけ精神的に参っているかわからない。ともかく、事情を聞く前に、様子を見なければいけない。


 話をできるかどうかは、中野(なかの)の判断を仰いだほうがいいかな、と思いつつ、廊下を歩き始めたときだった。

 台所に近い部屋からみどりが出てきた。着替えを済ませて、長い髪もうしろでくくっている。ランドセル代わりなのか、赤いリュックサックを背負っている。

 惣時郎は少し迷ったあと、近づいていって声を掛けた。


「おはよう」

「おはようございます。惣時郎様」


 あいかわらず印象に残りにくい落ち着いた声で、みどりが恭しく頭をさげた。夜中に惣時郎のあんな姿を見たのに、動揺している様子も、怖がっている様子もなかった。


「……昨日は、驚かせてごめんね」


 日付としては今日なのかな、と思いつつ、惣時郎は謝る。


「いいえ」


 みどりの声が明るかった。惣時郎が覗き込むと、みどりはさっと顔を上げた。微笑(ほほえ)んでいる。

 惣時郎は一歩下がりそうになるのを、さすがに失礼だと踏みとどまる。みどりから感情を感じたのは、初めてだった。


「惣時郎様」


 みどりは背伸びをすると、惣時郎の首に触れた。思ったより力が強く、惣時郎は前屈みになる。みどりが指先で前髪をすくい上げた。そして、額に口づける。


「いいことがたくさんありますように」


 みどりは惣時郎の額から唇を離すと、そう言った。


〝惣ちゃんに、いいことがたくさんありますように〟


 惣時郎は叔父の声を思い出し、たまらず体を引いた。みどりは姿勢を戻し、微笑んだまま、立っている。


「みどりちゃん、今の」


 そんなまじないじみた行為は、叔父しかしたことがない。

 それなのに。


「我が家に伝わる祈りです。お祝いに。嬉しいって、こういうことなんですね」


 まがまがしい話が始まっているのだと、惣時郎は気がついた。やめろと言いたかったが、声が出なかった。


林次郎(りんじろう)様からうかがっていました。ちゃんと、残すものは残しているって。でも、林次郎様の代わりになる人はいないし、技を継承した人もいない、と思っておりました」


 みどりは、笑顔のままだ。


「昨晩のことで林次郎様のおっしゃっていたことがよくわかりました。両親も地獄で喜んでいると思います」


 ――どうでしょう。みどりを、妻になさっては。


 山下(やました)の声が蘇る。

 あのときは、十一歳の少女に対してそんなことを言うなんて、山下もどうかしていると思った。

 でも、違う。

 檜家の殺し屋は、幼いころから殺しの技を教える家で育つ。十歳くらいで戻ってきたときには、すでに殺し屋として働けるようになっている。


〝檜家の次男に殺人作法を教える役の人は、誰だ〟


 現一狼(げんいちろう)の問いに、答えが出つつあった。


「みどりちゃん。君のご両親は」


 ようやく出した声は、かすれていた。


「林次郎様を十歳までお育てした者たちです。その後も度々お立ち寄りいただき、幼い私も可愛がっていただきました」


 みどりの微笑(びしょう)が、冷たい刃のように感じられた。


 檜家が殺しの機構を維持する以上、殺人術を教える家の保護は欠かせないはずだ。

 つまり、みどりを家族として受け入れ、守るということは、檜家が受け継いできた殺人術を守ることにつながる。


 みどりは、どこまで、殺人術を身につけているのか。


 問いたい気持ちを胸の底に押しやる。愚問だ。みどりの両親が亡くなったのは最近だ。檜家の次男は、十歳でそういう家から戻ってくる。

 もし、みどりが殺人術を習っているのならば、殺し屋として一人前になっているに違いなかった。山下は、これまで次男が担ってきた殺人者の役を、みどりに担わせるつもりだったのだろうか。

 実際に、現一狼は、みどりが人を殺したことがある、と考えている。

 

 でも、それならば。

 

 ――叔父さんは、いったい俺に何を残したんだ?

 

 尋ねようと、肺に空気を吸い込んだ。

 みどりの顔から、表情が消えた。


「それでは、学校に行ってまいります」


 みどりは再び恭しく頭をさげ、惣時郎の脇をすりぬけた。

 玄関扉が閉まる音がしたあと、惣時郎は急に動悸を覚えてしゃがみこんだ。

 息苦しい。

 優しかった叔父の笑顔が思い浮かぶ。幼い惣時郎と添い寝してくれた叔父、稽古をつけてくれた叔父。父に叱られていた叔父。それでも、家に帰ってくれば人好きのする笑顔で両手を広げ、惣時郎が胸に飛び込んでくるのを待っていた叔父。


 ――叔父さん、俺に、何をしたんだ?


 自分の体も精神も檜家が背負うまがまがしい過去に巻き取られていくような嫌な感じが、全身を覆っている。これからは人殺しをしないなどといわずに、歴史に飲まれたほうがよほど苦しまずに済むようにすら思えた。


〝檜家は、勝手に人を殺すんじゃないよ。静穏のために殺すんだ〟


 あの優しい笑顔で、叔父はそうも言っていた。


 ――違う。


 惣時郎は、脳裏の叔父を思考の外に追いやる。

 違うのだ。殺人はもうしない。どんな理由があろうと。檜家はそういう家ではなくなるのだ。父がそう決めた。惣時郎もそれがいいと思った。叔父だって、受け入れたはずだ。


「冗談じゃない」


 惣時郎はそうつぶやくと、立ち上がった。

 深呼吸をする。手首で脈を取り、落ち着くのを待つ。

 立川の様子を見るのに、こちらの具合が悪いようでは何の役にも立たない。


 惣時郎は、叔父が何を考えていても構わない、と思うことにした。

 叔父はもう、死んでいる。死んだ人に何ができるというのだ。


 ――当主は俺だ。


 脈は、いつもの速度に戻った。

 惣時郎はきびすを返し、居間に向かった。

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