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短編小説

水蜘蛛メゾネット

ミズグモ:ミズグモ科ミズグモ属の、水中で生活するクモ。体長一センチメートル程度。腹部を覆う撥水性の毛が作り出す気泡を抱えることで、水中でも肺呼吸で活動することができる。糸と水草で空気室を形成し、その中で休息・食事・交尾・産卵を行う。

挿絵(By みてみん)


 彼女の腹部はたっぷりの空気をまとい、銀色に照り輝いていた。気泡の端ほど黒く暗く、けれども輪郭は白く縁取られて、揺れるたび、それ自体が生き物のようにぬらりと光る。水草の階段をたどっていく八本の足運びは、時計の長針と短針と秒針とが、絡まることなく自立運動を保っているのに似て、命というゼンマイが切れるまでの間、永遠に続いていくように思われた。僕はといえば、そんな彼女の姿を永遠に見ていられる。


 降る雪にくれてやる目などなかった。僕は水面上に突き出していた腹を池に沈め、彼女の後を追って水草をつたい下りる。下へ下へなお下へ、水底へと潜っていった彼女は、舞い上がる泥の中からあっという間に糸虫を掬い出したかと思うと、今度は水草の階段を登っていく。

 彼女の住まいは中二階の空気室、繊細なレースを幾重にも張り巡らせて仕立てた、豪奢(ごうしゃ)部屋(メゾネット)だ。つぷつぷとその中に入り込むと、彼女はさっき調達した糸虫を優雅に喰らった。


 やけに広い部屋だ。彼女の部屋を上から眺め、僕は水草の踊り場で小休止した。レースのカーテンを透かして見える彼女のシルエットは、腹部がはち切れんばかりに膨らんでいた。産卵が近いのだ。僕は立ち止まったまま考える。今、僕にはちょうど新鮮な空気の持ち合わせがある。銀色に輝く泡を婚約指輪として、このまま彼女の部屋を訪れプロポーズすることもできるだろう。そして彼女に卵を産ませる。


 でも、なんだかそれは違う気がした。


 彼女は既に糸虫を食べ終え、じっと動かない。動かない彼女のことを、僕は永遠に見ていられる。僕の背中に並んだ八つの目は、いかなる時も北を指す方位磁石のように、常に彼女を向いている。彼女を美しいと思う。彼女を見ていると、血液循環が変拍子を奏ではじめるようだ。輪廻の彼方へ置いてきてしまった涙が目に浮かび、池の水に混じって、僕の周りの水がほんの少しだけしょっぱくなる気がする――もちろん実際にそんなことはないのだけど。彼女は、彼女にしか開くことのできない分厚いレースのカーテンの奥で、じっと「その時」を待っている。その美はあやうい調和(バランス)の上に成り立つもので、雪の花が地上へ降り立つまでのほんのわずかの間しかヘキサゴンを保てないのと同じだ。その美に僕自身が介入して均衡を崩すのは本望ではない。


 だが、言葉を持たない僕らがこの思いを伝え合うには、とりうる手段があまりにも限られている。単純な生物なのだ、僕らは。

 恋の時節がやってくれば、機械的に異性に焦がれ、追い追われて思いを確かめ合い、まじわり子を成す。そんな生物の大段落に流され埋もれていく、僕という個のコンテクストは、パッセージは、一語一語を命がけで選択していく意思は。


 しかし僕は、僕のコンテクストすら六道輪廻のはてに忘れてしまった。僕は単純な生物なのだ。僕という個は、無数の命を抱える池の水の中に、もの言えぬ虫けらの悲しみの向こうに、拡散して消えていく。その重みたるや。矮小(わいしょう)なミズグモの僕には、到底あらがうことなどできやしない。


 できやしないのだ。


 見知らぬ誰かへの言い訳が僕の中で成立すると、僕の目の奥にちかりと六花(むつのはな)が光った。

 僕は、彼女にしか開くことのできないはずのレースのカーテンを、無理矢理にこじ開ける。僕の抱える気泡の空気が、彼女のメゾネットに流れ込み、部屋の空気と混じり合う。彼女の八つの目はインキのように黒く、僕の方を向いていたものの、その焦点は僕のはるか後方、命の道筋の先の先に結ばれているかのように、うつろににじんでいた。


 気が付けば僕の目の前には、綿菓子のように細い糸の絡まり合う卵嚢(らんのう)があった。月の光を煮詰めた色の卵がレース細工の奥に透けて見える。産卵を終え疲れ果てた彼女は、しぼんだ腹を抱えて身体を休めていた。

 僕は絶望した。

 それは、彼女の美が損なわれたことそのものよりも、もうこれ以上進むことのできない袋小路へ行き詰ったことへの絶望だった。そして、手詰まりを出してしまった僕自身への落胆だった。

 今、僕と彼女は同じ空気を共有して呼吸している。しかし思いは共有されているだろうか。僕には、彼女が何を思い、何を考えているのかがさっぱり分からない。彼女の側にしてみても、僕の抱える絶望などこれっぽちも分からないだろう。交わしたのは、ただの遺伝子、生命の設計図だけ。

 広かったはずのメゾネットは、二人の体と広がる卵嚢とでひどく手狭になっている。いつまでもここにいては、貴重な酸素を浪費してしまうだろう。僕は見知らぬ誰かへの言い訳を済ませると、さっさと彼女の部屋を出た。


 水草の階段を上がり、水面に出ると雪は雨に変わっていた。大粒の雨が池の表面を打ち、無数の水の輪が飛び散っては消えていく。

 苦い嫌悪感が口中に広がる。恋の終着点というのは、こんなものなのか。これで達成されたと見なされるのか――いったい誰に? あらゆる生命の集合体に?


 そうして僕は水面に飛び出た水草の上で、長いあいだ雨に打たれていた。

 ぼんやりと池を眺めていると、季節外れの花火のような水の輪の向こうに、何かうごめいているのが見えた。

 魚影だ。

 この界隈は普段は濁っていて魚などやってこない。このところの降水により新鮮な水が流れ込み、魚の侵入を許すところとなったらしい。


 僕は池に飛び込んだ。

 八本の脚を全速力で回転させながら、僕は虫けらの頭で考えていた。僕のこの自発的行動は、生命の大段落に沿った自動思考のプログラムをたどっているに過ぎないのだろうか。この脚の時計のような回転は、果たして順転なのか逆転なのか。

 魚の前に躍り出た僕の身体は、水を掻いて下手な泳ぎを演じてみせた。針路はメゾネットの反対方面。後悔する間もなく、僕はぱくりと魚に喰われた。


 僕という文字が消えたところで、たったひとつの脱字は生命の大段落になんら影響を及ぼさないのだろう。彼女が生き延びる保証も、卵が無事に孵る保証も、どこにもない。正体の分からないものへの言い訳を塗り重ねながら、それを言葉に変換することもできず、ひたすらに畜生道の果ての希望を追い求めるみっともない僕は――どうしようもなく悲しい虫けらだった。

「夏の朝」


なにといふ虫かしらねど

時計の玻璃のつめたきに這ひのぼり

つうつうと啼く

ものいへぬむしけらものの悲しさに

――室生犀星「抒情小曲集」より


※ 室生犀星氏の著作権保護期間は二〇一三年に満了しています。

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