プロローグ
あと一分。
男は時計を見ると、缶ビール片手に立ち上がった。
「カウントだうーん・・・」
やや陽気な声でそう言った途端、男の体はぐらりと揺れた。
単身者向けマンションの一室。この部屋の主である男の足元には、一人呑みとは思えない数の空き缶が転がっている。酒には強い方だと男は自負していたが、今日の酒量はさすがに無茶だった。
「うお、結構回ってんなあ」
久しぶりの酩酊状態に戸惑いながら、男はまた時計に目を向けた。
デジタル時計の秒表示は小さい上、視界がブレているのでますます見づらい。もっとよく見ようと男が一歩踏み出した刹那、大きく揺れた身体はバランスを崩してそのまま勢い良く倒れた。
「やべ・・・」
ものすごい爆音と衝撃が頭に響いたのを最後に、男の意識は途切れた。
男が意識を手放した瞬間、時計は0時00分00秒を指していた 。
酔っ払って転び、タンスの角で頭を強打した男、村上光一はこうして、36度目の誕生日を迎えると同時にその生涯を終えた。
*
寒い。
強烈な冷気に意識がはっきりした。呼吸も満足にできず、視界も濁っている。そこで体の存在を思い出した。
何も見えない。ごろごろ、ゴボゴボという爆音の中、微かに人の声のようなものが聞こえる気がする。
手足を動かそうと試みて、はたと途方に暮れる。手足が動くということは知っているのに、やり方がさっぱりわからない。
怖い。寒い。何も分からない。
様々な思考、感情、感覚が混沌としている。
不安と不快感、恐怖がどんどん強くなっていく。
突然大声が上がった。
「ほぎゃあ」
驚いた。赤ん坊の泣き声のような大きな声が急に、はっきりと聞こえた。
あれほど煩かったあのゴボゴボという音が止んでいるのに気づくが、赤ん坊の声い以外くぐもった音しか聞こえてこない。
ますます混乱し、もう一度叫んでみた。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
そこでやっと気づく。これは自分から発せられている声なのだと。
ふと寒さが和らいでいることに気づいた。というよりむしろ、心地良い温かさを感じる。
聞こえづらさも解消され、先ほどから聞こえているのがやはり人の声だったのだと分かった。その声は優しげで、やたらと心地よく響く。
「——————————」
何を言っているのかは全くわからないが、柔らかい、女性の声。
安心したら今度は良い匂いがしてきた。懐かしいような、泣きたくなるような、良い匂い。
ああ、なんて良い匂いなんだろう。
良い匂いはどんどん近づいてきて。包まれるのを感じた。
とんでもない幸福感。温かい。甘い。気持ちがいい。
ずっと、こうしていたい。
深い安心感に身をまかせると、意識は遠のいていった。