ハイビスカスの少女(夏詩の旅人シリーズ第2弾)
2004年8月。
僕は車で伊豆の最南端に向かっていた。
海岸線を走る車の、窓から差し込む風が心地よかった。
低く絞ったボリュームのFM。
微かに聴こえてくるのは、アメリカンオールディーズのナンバーだった。
数日前。
僕が伊豆に来ているという噂を聞きつけた、岬不二子からメールが入った。
「ブラブラしてやる事ないんだったら、ちょっと私の仕事手伝ってくれない?」
「ほう?で、どんな仕事?」と僕は返事を打った。
岬不二子と僕は、数年前に湘南の音楽イベントで知り合った。
彼女は当時、20代の若さながら独立起業し、音楽イベントを手掛ける会社を経営する、やり手であった。
不二子の話はこうだった。
この夏、伊豆の最南端の地で、新たにFM放送局が開局することになった。
そして彼女の会社が、そのオープニング企画を任される事になったらしい。
僕が今回、不二子から依頼されたのは、開局記念の目玉となるであろう、お盆シーズン3日間限定の、30分間の音楽番組でのメインパーソナリティーに僕を抜擢したいという事であった。
「番組で、あなたの曲を流してもいいわ」
「生で歌ったっていいわよ」
「悪い話じゃないでしょ?」
と不二子。
「俺に、そんなパーソナリティーみたいなもん出来るかねぇ…?」
と僕が返信すると。
「あなたなら大丈夫じゃない(笑)」
「まったく心配してないわ」
と、すぐに返信が戻ってきた。
ははあん…。
さては、いつか他局でゲスト出演したときの、僕のラジオでのしゃべりくりを聴いていやがったなぁ…?(笑)
「わかった。とにかくそっちへ向かうよ」
そう返信すると、僕は宿をチェックアウトし、車へと乗り込んだ。
夏休みに入った海岸線は大渋滞だった。
同じ伊豆でも、現地へ着くまで思ったよりも時間が掛かってしまった。
現地に到着すると、浜辺の傍に広くて静かな駐車場を見つけた。
ここなら銭湯も近くにあるし、数日間ならとりあえずここで車中泊でもいいかな…。
僕は車をその駐車場へと入れた。
それからその夜、僕は不二子と駅前のBARで再会した。
スラっとした身長に、上下黒のスーツ姿。
ストレートな長い髪は、以前と同じままだった。
30代半ばに入った彼女の表情は、以前にも増して充実しており、いい女に成長していた。
ちなみに彼女は、駅前の大きなリゾートホテルに滞在中だそうだ。
僕が「車中泊してる」というと、「相変わらずね」と吹き出した。
それから僕らはカクテルをやりながら、番組の打ち合わせを始めた。
彼女はA4用紙にプリントされた企画書を、テキパキと僕に渡す。
「明後日からか…」
「明後日からよ…」
「ずいぶん急だな」
「でも大丈夫でしょ?」
「まあな…」
「だからあなたにお願いしたのよ」
短いやりとりの中で、僕らは互いの信頼感が、以前にも増して強くなっているのを感じていた。
「じゃあ明日、スタジオで…」
そう言うと、踵を返す彼女は颯爽と歩いて行った。
「ああ…」
彼女に僕はそう言うと、不二子の後姿を見送っていた。
長い髪が夜風に揺れていた。
翌日。
港の側にあるスタジオに、僕は10時頃に到着した。
車を降りると、僕の頭上にはカモメたちが旋回していた。
それから不二子とスタジオでの打ち合わせやリハを行い、それらを全て終えたあと、僕はまた、車中泊をしている駐車場へと戻って来た。
駐車場にある松の木からは、蝉の鳴き声が聴こえる。
時刻は15時になろうとしていた。
僕は、近くの入り組んだ商店街にある銭湯へ行く事にした。
狭い路地裏を抜けて行けば、銭湯はすぐ近くにある。
古い木造家が建ち並ぶ風景の中、僕は歩いて行く。
(こんな風景は、最近東京ではあまり見かけなくなったなぁ…)
そんな事を思いながら歩いていると、一軒の民家から「わぁッ!」という女性の声が聞こえた。
垣根越しに覗いてみると、おばあさんが脚立から落ちた様で苦しんでいた。
「大丈夫ですか!?」
僕は急いで垣根越しから声を掛けた。
僕はその民家の庭に入って行くと、庭いっぱいにハイビスカスの鉢植えが置いてあるのが見えた。
「おばあちゃん大丈夫!?」
腰を押さえて痛がっている女性の傍で、孫らしい小学生くらいの少女が声を掛けていた。
幸い、脚立は三段ほどの低いものであった。
どうやらおばあさんは、庭木を手入れする為、脚立からバランスを崩したみたいだった。
骨折や捻挫ではなく、バランスを崩した弾みで、以前やったぎっくり腰を再発してしまったという事だった。
「慣れない事はするもんじゃないねぇ…。」
おばあさんは苦笑いをしながら僕を見た。
(ぎっくり腰は炎症だから冷やした方が良い。)
そう思った僕は。
「何か冷感湿布とか置いてありますか?」
「無ければ買って来ましょうか?」と、おばあさんに言った。
僕がそういうと、おばあさんは手で制して、「こういうのはしょっちゅうだから…」と、へへへと笑った。
「しのぶ!湿布持っといで!」
おばあさんは、隣の少女にそういうと「孫なんです…」と言って僕に微笑んだ。
“しのぶ”と呼ばれた少女は、駆け足で縁側から家の中へと入って行った。
そして暫くすると、木で出来た薬箱を持って出てきた。
「これで静かにしてれば大丈夫…。」
孫に湿布を貼ってもらったおばあちゃんが言った。
湿布は、ちゃんと冷感湿布であった。
「良かったら、僕が刈りましょうか?これ…。」
僕はおばあさんに言う。
実は、僕は多少剪定の心得があった。
父が亡くなった後、生前に父がやっていた実家の庭木の手入れを、今は僕がやっていた。
「そんな悪いですって…」
「大丈夫ですよ。」
「僕も自宅にあるドウダンつつじの手入れは、よくやってますから」
おばあさんは背が低いから脚立なしだと刈り込めないが、僕ならこのドウダンが胸くらいの高さだからすぐ終わる。
僕は手際よく、ドウダンを丸く刈り始めた。
「すみませんねぇ…」
おばあさんは言う。
「辛いでしょうから横になって休んでてください」
「終わったら声かけます」
剪定をしながら僕は言った。
「それじゃお言葉に甘えて…」
おばあさんは「どっこいょっ」と言って、縁側の奥へと入って行った。
“しのぶ”と呼ばれた小学生は縁側に座り、足をブラブラさせながら僕の作業を後ろから眺めていた。
「何年生?」
「5年生です」
「ハイビスカスがいっぱいあるね?」
僕が聞くと、少女は黙ってコクンとうなずいた。
強い午後の日差しに蝉の声。
額に汗を拭きだしながら、僕は植木を黙々と刈る。
(こりゃ銭湯の後のフルーツ牛乳が最高だな…)
そんな事を思いながら僕はニヤニヤしながら作業をしていた。
そして植木を刈ってる間、僕は少女の身の上話を少しだけ聞いていた。
しのぶは、去年まで東京で両親と住んでいた。
しかし父親の仕事の関係で、外国へ移り住む事となった。
そして異国の環境に馴染めなかった彼女は、ついには不登校となってしまったらしい。
ちょうどその頃、田舎のおじいちゃんが亡くなり、しのぶの母は、独りぼっちになったおばあちゃんの事が気になっていた。
それならば一層、祖母の元へしのぶを預けた方が彼女の為にも良いのでは?と、母は考えた。
祖母に話すと、祖母は大歓迎だった。
こうしてしのぶは親元を離れ、一人日本へと帰って来たのであった。
「そうか…、でも良かったじゃないか?」
作業が終わった僕は、縁側で麦茶を飲みながら隣の少女に言った。
するとしのぶは、顔をブルブルと左右に振って、(良くない良くない)という仕種をした。
「新しい学校も、なんか馴染めないの」
「友達できないし…」
「私、人見知り激しいからダメみたい…」
しのぶが言う。
「こんなに喋ってるじゃないか?」
僕がしのぶに笑いながら言うと。
「おじさん、なんか喋りやすいんだよね…。」
しのぶがボソッと言った。
「ああそうなの…。」
僕は目の前にある、ハイビスカスの花壇を眺めながらそう言った。
そして、ふと考えてみた。
(もしかして、しのぶは今まで他人に全て決められて来た様な人生ばかりを、歩まされてきたのかも知れないな?)と…。
僕が「作業が終わった」と、奥で寝ていたおばあさんに声を掛ける頃、空は夕暮れに染まっていた。
「じゃあ…」
僕は二人に挨拶をして別れると、近くの銭湯へ向かって行った。
翌日。
ついに番組がスタートした。
昼からの放送はあっという間の30分間だった。
この日は、自分の好きな70年代の洋楽ロックを中心に紹介し、自分の曲も1曲、番組でかけさせてもらった。
放送が無事終わり、スタジオを出ると不二子がそこに立って待っていた。
「上々ね」
「この調子で明日もお願いね」
彼女が言った。
放送が終わった僕は、駐車場へ戻った。
メールを確認すると不二子からだった。
「あなたの曲、反響あったみたい」
「問い合わせメールがたくさん来てたわ」
「明日はギター持って来て」
「生で歌ってちょうだい」
彼女からのメールは、そんな事が書いてあった。
その日の夕暮れ。
銭湯の帰り道。
昨日のしのぶが目の前を、てくてくと歩いているのを見かけた。
「よお」
僕は彼女に声を掛けた。
振り返った彼女の表情は、なんかすぐれない感じだった。
「なんだ?なんだ?どうした?」
僕は、しのぶと夕暮れの帰り道を歩きながら話し出す。
「もうすぐ夏休みが終わっちゃう…」
「学校行きたくないの…」
彼女はそんな事を僕に言い出した。
どうも話を聞いていると、彼女の内向さは、人のいう事を聞く子供こそが、全て正しいものなんだと思い込んでいる様だった。
親の決めた事には常に逆らわず。
また、自分の意見を露わにする行為は、他人に対して迷惑をかけてしまうから、やってはイケないという考えを、どうやら彼女は持ちすぎているふしが僕には感じられた。
でも、しのぶが思う様に、確かに現実はそうだ。
学校でも会社でも、上の人の言う事を「ハイハイ」と聞く人間が、一般的には評価されている。
しのぶの親は、海外で仕事をする商社マンであった。
エリート街道を出世していった父親の姿を見て、しのぶは子供ながらにそんな現実を分かってしまっていたのかもしれない。
「なあ…」
僕はしのぶに言った。
「たとえ世界中の人間が、君とまったく違う意見だったとしても、君の意見が本当に間違っているかどうかなんってのは分からないんだぜ」
「僕らは民主主義…、えっと…、君にはちょっと難しいか…」
「つまり多数決で決めている僕らの世界なんてものは、片方の意見が、たまたま多かったから、多い方の意見に決めましょ!っていう、ただそれだけの話で、それが本当に正しい選択なのかどうかなんて分からないという事さ」
「法律や規則なんてものは、単に今の人間らの価値観で決めたルール過ぎない」
「現に、人間の価値観なんていうものは100年前と今では、まるっきり変わっているんだよ」
「だから、多数決でみんなが決めたからって、その意見をそのまま鵜呑みにしちゃあいけないんだ」
「それが本当に正しいものなのかどうか、君も考えなくちゃいけない」
「いいかい?」
「正しい事や、新しい事を始めるとき、人はいつも反対に合うものさ」
「でも、そういう事に逃げてちゃだめなんだ」
「だから君もこれからは、人の事ばかり気にするのではなく、自分で考えて、自分で決める人生を進むべきなんだ」
「自分の信じる道をね…」
「どうだい?」
「自分で決めた人生なら、失敗したって、くよくよと後悔しないだろ?」
路地裏の街灯が点灯し始めた頃。
しのぶの家の前で、僕の話は終わった。
「うん、わかったやってみる…。」
そういったしのぶの目は、まっすぐ僕へと向けられていた。
日は明けて、放送2日目の時間になった。
この日、僕は番組の途中で弾き語りを披露した。
放送中にメールが、どんどん入ってきた。
くすぶっていた僕の音楽人生に、少しずつだが、小さな波が起き始めている気がした。
その夜、不二子からメールが入った。
僕は倒した車のシートに寝そべりながら、そのメールを確認する。
明日、秋山プロデューサーが放送局にやってくるとの事だった。
秋山プロデューサーと言えば音楽業界で、今一番賑わしている大物だ。
実は秋山プロデューサーの会社も、今回の開局イベントに関わっている。
彼は放送で僕の歌を聴いた様で、「ぜひ会ってみたい」と申し出て来たとの事だ。
忙しい中、番組終了後に、30分だけ僕に時間を取ってくれるそうだ。
「新しい番組で、曲が採用されちゃうかもね♪」
不二子は、少しからかう様なメッセージを僕に送って来た。
「よし…」
「明日は気合入れてくか…」
窓から見える月に向かって、僕はそう囁いた。
そして放送3日目。
僕の担当する特番の最終日となった。
昨日は興奮してあまりよく眠れなかった。
僕は余裕を持って準備をし、スタジオへ向かう為、車のエンジンをかけた。
その時であった。
けたたましく鳴り響く、消防車のサイレンの音。
火事だ!
駐車場からはっきり見える黒煙は、銭湯がある住宅街から見えていた。
嫌な予感がした。
あそこは木造の住宅地で火の回りが早い。
しかも、あの狭い路地裏には、消防車が入っていけないのでは!?
しのぶの力では、あのおばあちゃんを運び出すのは無理だ。
内気なあの子に、助けを呼ぶ事が出来るのだろうか!?
僕はエンジンを止め、黒煙が舞う住宅地へ走り出した。
住宅地へ着いた。
路地裏は、家財道具を持ち出して逃げ惑う人たちで、ごった返している。
僕は人込みをかき分けながら、しのぶの家へと向かった。
きな臭い煙が目に染みた。
「こっちだこっちだ!」
向かい側の路地で、地元の男性が消防隊員に手で合図していた。
消火ホースを抱えた隊員が、走り抜けていく姿が見えた。
僕はしのぶの家の前に着いた。
幸い、火はまだここから少しだけ離れていた。
熱い…。
夏の暑さに加えて、更にこの熱さだ。
僕はしのぶの家の庭に入り、キョロキョロと確認する。
「おじさんッ!」
すると後ろから彼女の声が…ッ!
「大丈夫かッ!?」
僕はしのぶに駆け寄った。
「おばあちゃんは無事か!?」
そう聞くとしのぶは泣きながら、「大丈夫…、お隣さんに助けて貰って、今学校へ避難したとこ…。」と、なんとか僕に伝えたのであった。
「あたしね…、自分で考えて…、決めて…、ちゃんとやったよ…。」
そう言うと、しのぶはわんわん泣き崩れた。
「そうか、そうか!」
「頑張ったなッ!」
「よく頑張ったなッ!」
僕は彼女の頭をゴシゴシ撫でながら言った。
撫でた彼女の頭が揺れていた。
「ハイビスカス燃えちゃうかな…?」
しばらくして、冷静になれたしのぶが目を赤くはらして言った。
「大丈夫さ。」
徐々に近づいて来る炎を見つめながら、僕はしのぶに言った。
火は、しのぶの家のすぐ隣でなんとか鎮火した。
庭のハイビスカスは、消防ホースから跳ねた水を浴びて濡れていたが、元気に咲いていた。
それから僕は、学校に避難しているおばあちゃんのところへ彼女を送り届けてから、車が止めてある駐車場へと戻った。
車に置き忘れた携帯を確認したら、不二子から大量の着信が入っていた。
港にあるFM局の駐車場へ着くと、腕を組み、少し怒った顔をした不二子が立って待っていた。
「残念ね…」
夕暮れの駐車場。
彼女が言う。
スッポかした僕のせいで、番組は大混乱だったらしい。
大物秋山プロデューサーも、「全くもって、なんて無礼なやつだ」と、怒って帰ってしまったそうだ。
だが言い訳はしない。
自分で決めた行動なんだから…。
「あなたの歌、聴かせたかったわ…」
不二子がポツリと言った。
「なあに、歌なんてどこだって歌えるさ…」
僕がそう言うと。
「変わらないわね…」と、彼女はフッと微笑んだ。
「迷惑かけたね…」と僕は手を差し出す。
「いえいえ…」
不二子は、そういうと僕と握手した。
夕暮れの港。
僕らの頭上には、やっぱりカモメが飛んでいた。
東京へと戻る、夜の海岸線。
この時刻、車はもうほとんど走っていなかった。
(もうこれで、しのぶは、きっとうまくやっていけるだろう…)
そう思いながら、僕はアクセルを少し踏んでスピードを上げた。
fin