6
♢
アリスを屋敷に迎え入れた日の事を、ロンは今でも良く覚えている。
痩せた身体を小さく丸め、酷く怯える少女。
胸が痛くなる光景だった。
虐げられる事には慣れているが、大事にされる事には不慣れな少女。
アリスがアンダーソン家でどのように扱われていたかは知っている。
早く人間らしい、少女らしい暮らしをさせたいと強引に連れて帰ってきてしまったが、それは彼女を余計に傷付けたりしないだろうかと毎日が心配でならなかった。
アリスはロンの人生において何よりも大切な存在だからだ。
アリスが、カイエン伯爵邸に来てから屋敷の雰囲気は変わった。
まるで花が咲き乱れるように、明るくなった。
一番顕著だったのは使用人達の表情だ。
この屋敷に住んでいるのはロンだけであったから、いつも静寂が支配している張り詰めた空間だった。
そこにアリスという異分子が加わった。
使用人達は小さな事にも必ず礼を言うアリスをいっぺんに気に入ったようだった。
彼女が喜ぶように、モノクロームで統一された屋敷の調度を変えた事も良かったのかもしれない。
何れ巣立っていくだろう彼女ではあるが、屋敷にいる間は不自由無く暮らして欲しい。
そして、彼女を抑圧していたアンダーソン家にはきっちりと責任を追及した。
実に長い時間が掛かったが、やっと彼女を解放出来た。
アリスにその事実を伝えた晩餐の席で、泣きじゃくる姿を見て、ロンの人生が報われた気がした。
戦時中、幾つもの命を屠る生き方をして来たロンの唯一といえる希望であるアリスを救えた喜びを、ロン以外に知る者は居ない。
後は誰にロンの大切な大切な宝を託すか。
ロンはそれだけを考えて頭を悩ませていた。
♢
生憎その日は曇りだった。
アーサーとの発語練習を終えた昼下がり。
キャシーに茶を淹れてもらい、二人で嗜んでいた。
「最近大分良いですよ。お役御免になる日も近いかもしれませんね」
「アーーサー先生、冗談がお上手ですね」
アリスが苦笑をすると、アーサーが真面目な顔をした。
「冗談じゃありませんよ。大分吃音を出さない喋り方が板についてきました。私としては寂しいですが、良い傾向ですよ」
「あのーー、ありがとうございます」
「努力の結果ですよ」
アリスはアーサーに手放しに褒められ嬉しかった。
その時アリスは浮かれていた。
少し大胆になっていたのだ。
ロンがアリスを大事にしてくれ、当たり前のように手を差し伸べてくれる。
そんな人がアリスの夫なのだ。
ロンは親子のように兄のように慕って欲しいと言っていた。
しかし、結婚しているのだから、普通の夫婦としても受け入れて貰えるだろう。
そんな風に考え出していた。
だからアーサーに聞いてしまったのだ。
「アーーサー先生、ロン様と夫婦として仲良くなりたいんです。ど、どーすれば良いですか?」
アリスが言い終わると同時に落雷の音が響いた。
かなり近くに落ちたようだった。
アリスは肩を縮めた。
アーサーは窓の外を見てから、アリスに視線を向けた。
「私も結婚しているわけでは無いので何とも言えませんが……」
アーサーは困ったようにキャシーとユウリ、ジョネに目配せした。
「やっぱり夜の時間じゃないでしょうか!」
小柄なジョネが身を乗り出す。
「お二人のペースがあるのよ!ジョネ、適当な事を言っては駄目よ!」
「でも、奥様が来て十分な時間が経っているわ」
ユウリが嗜めると、ジョネが反論した。
「確かにそうですね。旦那様は大分奥手のようですので、奥様から寝所に行かれてみてはいかがでしょうか?」
キャシーがジョネに加勢した。
「アリスさん、大丈夫ですか?」
アーサーがアリスの顔の前で手を振った。
アリスの頭の中では刺激の強いワードが渦巻いていた。
雨は益々勢い付いて、土砂降りになってしまった。
結局その日、アーサーは帰宅が出来ず、カイエン伯爵邸に泊まることになった。
♢
アリスは浴室でカイエン伯爵邸に初めて来た日より念入りに洗われていた。
「今日は大事な日ですからね!」
「奥様、本当に大丈夫ですか?」
「だだ、だだだだだ、だだ大丈夫、ぶ、ぶ」
「全然大丈夫そうじゃありませんけど」
ユウリが心配そうな顔をする。
アリスは全身を隈なく整えられながら、緊張で心臓が口から飛び出そうだった。
「女は度胸ですよ、奥様!」
ジョネが拳を作って見せた。
アリスは一大決心をしてロンの部屋へと向かう事になったのだ。
「さ、奥様。準備が整いましたよ」
夜着を着た背中をキャシーに伸ばされた。
「ご案内致します」
ユウリが先導し、ロンの部屋へと続く廊下を歩き出す。
足が震えて今にも縺れそうになったが、アリスは歩みを止めなかった。
本当の夫婦になりたい———。