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アリスはじっと耐えていたが、ブリジットはとうとう上がって来なかった。
代わりにマルクからカイエン伯爵と紹介されたアイアンマスクの男が登ってきた。
「もう大丈夫ですよ」
柔らかな声音だった。
誘われるように目を開くと、カイエン伯爵はしゃがみこんでアリスに視線を合わせてきた。
「行きましょう」
カイエン伯爵は先に梯子を降りて、アリスに手を貸してくれた。
「あの、伯爵様。妹はど、ど、どうしましたか?」
「ああ、あの娘。今にも貴女を罵りに行きそうな声を上げていましたから、私が先回りして貴女の部屋の下に居るのを見たらどこかへ消えてしまいましたよ」
アリスはほっとした。
と同時に新たな疑問が出た。
「あの、は、は、伯爵様。わ、私は伯爵様のお屋敷で何の仕事をす、す、す、するんですか?」
「妻です」
アリスは思わずアイアンマスクを見上げて絶句した。
♢
伯爵邸は瀟洒な建物と、噴水のある綺麗な庭で構成されていた。
「こちらです」
カイエン伯爵に手を引かれて馬車を降りる。
アリスは急に自分が恥ずかしくなった。
伸び放題のボサボサの髪。
手入れをしていない赤切れだらけの手。
身に纏った服はサイズが小さく膝小僧どころか太腿が半分近く出ている。
継ぎ接ぎだらけの粗末な服だ。
「あの……、庭先で桶い、い、一杯の水を恵んでもらえますか?」
「それは何故です?」
「あの、粗末な身形だからせめて手と足を洗いたいと思いました」
カイエン伯爵はアイアンマスクの下で笑ったようだった。
恥ずかしい。
途轍もなく恥ずかしい。
アリスは顔を真っ赤にした。
「心配要りません。さあ、こちらです」
カイエン伯爵はアリスの手を引きスタスタと歩き出した。
アプローチには伯爵邸の使用人達が綺麗に整列していた。
「お帰りなさいませ」
一斉に頭を下げた。
「誰か。彼女を清めてやってくれ」
カイエン伯爵に言われ、若い娘のメイドが三名前に出た。
何れもアリスよりは年上に見えた。
「奥様、ご案内いたします」
アリスは三人に囲まれ、何も言えなくなった。
見窄らしい姿を恥ずかしいと思ったからだ。
案内されたのは屋敷の外観にそぐう清潔そうな浴室であった。
勿論アリスは浴室になど入れて貰った事は無い。
週に二回、子爵邸の井戸で大きな盥に水を汲んで身体を洗う。
小さな頃は盥に入れたが、最近は無理だった。
垢が溜まった身体で、こんな綺麗な場所を汚すのは申し訳ないと思った。
しかも、アリスよりも身嗜みのきちんとした綺麗なお嬢さん方に洗って貰うのはもっと申し訳ないと思った。
「あの、い、う、裏の井戸で身体を洗います。ばば、場所を教えて貰えませんか?」
三人のメイド達は顔を見合わせた。
そしてにっこり笑うとアリスにこう言った。
「奥様、気にする事はございません。私達にお任せいただけませんか?」
アリスは黙って頷いた。
三人のメイド達はアリスの服を脱がせると、余りに痩せて肋の浮いた身体に驚いたようだった。
手際の良い無駄無い動きでアリスを瞬く間に磨き上げた。
「奥様、私は髪を切る心得があります。よろしければ少しだけ整えさせていただいても良いでしょうか?」
三人のメイドの内、一番背が高いメイドがそう言った。
アリスは、どう答えるのが正解か分からずに頷いた。
メイドは器用な手付きでアリスの伸び放題の髪を切ってくれた。
「あの、あ、ありがとうございます」
アリスが遠慮がちに言うと、メイドは首を振る。
「奥様、これが私達の仕事でございます。過分な言葉、嬉しく思いますが、これからはお気になさらず」
アリスは困った。
アリスは言葉以外何も持っていないからだ。
良くして貰ったのに、お礼も言えないのなら何を返せばいいのだろうか。
アリスが俯くと、慌てたように一番背の低いメイドが取り持った。
「私達は旦那様から十分なお給金をいただいております。だから大丈夫と申したのですが、いきなりは難しいですね?」
「徐々に慣れていただいたら結構ですよ」
一番年上そうなメイドが、そう言って結んだ。
「あの、でもやっぱりありがとうございます。こんなに良くして貰った事……ひひ、久しぶりだから」
アリスがつっかえながら言うと、一番背の低いメイドが白いエプロンで涙を拭く仕草をした。
「奥様、私などが申す事ではございませんが、旦那様の所へ、このお屋敷に来てくださってありがとうございます」
残る二人も頷いた。
アリスは何と返して良いか分からず黙って照れた。
人に感謝される事など透明人間のアリスにとっては初めての事だったからだ。