20
♢
アーロンの長い独白が終わる頃、空は白み始めていた。
アーロンの失われた感情の一つ一つの所以は直接的にしろ間接的にしろアリスの為であった。
アリスはアーロンの直向きな愛情に、胸を打たれた。
こんなに一途に人を愛せる人に何故あのような辛い出来事が次々と降り掛かるのか。
アリスは運命を恨んだ。
「私は、欠落した人間になってしまったのです。だからアリス様に女性としての幸せを与えてあげられる事は今後やってきません。それが分かっていながらも、貴女を手放し難かった。それは私のエゴです。呆れてしまいますね、我ながら」
アリスは初めてアーロンの心の柔らかな部分に触れた気がした。
彼のアイアンマスクの下の繊細過ぎる心に———。
「アーロン、良く分かったから。もう、いいよ」
アリスは一筋の涙を零してアーロンを見た。
「アリス様……身勝手な私をお許しください」
「アーロン、家族になろう。少しずつ」
その一言に、アーロンがかつて人知れず飲み込んできたあらゆる後悔や焦燥、葛藤を総て許されたような、人生の苦難を乗り越えてやっと手にした希望の光が、ここにある気がした。
この日、アリスとアーロンは家族になった。
養父と養子という歪な二人はお互いを慰めながら希望を見出す存在として長い間引き裂かれていた関係が、あるべき形に戻ったようだった。
♢
「アーサー先生、お待たせしました!」
アリスがアーサーの待つエントランスホールに出た。
「今日はまた随分と可愛らしい格好ですね」
アーサーがアリスの服装を上から下まで見て言った。
アリスは水色のワンピースにふんだんにレースをあしらった格好だ。
「お義父様とこの前出かけた時に選んでもらったんです」
アリスが照れ笑いするとアーサーはやれやれと首を振る。
「カイエン伯爵には敵わないですね。では、これは私からのプレゼントです」
アーサーはつば広のストローハットをアリスの頭に被せた。
黒いリボンが付いた可愛らしい帽子だ。
「アーサー先生、ありがとうございます!」
「そろそろ先生はやめませんか?」
アーサーがアリスの左手を持ち上げて指を絡めてから甲にキスを落とす。
「まだ慣れませんっ。もう少しだけ待ってくれませんか?」
慌てるアリスにアーサーは笑みを深める。
アーサーはエントランスの扉を開けてアリスと共にカイエン伯爵邸の庭に出た。
そっとアリスを後ろから抱き締めて耳元で囁いた。
「いくらでも……。だって秋には結婚するんですから。時間は沢山ありますよ」
抱き締められたアーサーの腕をそっと握る。
二人は今が盛りとばかりに互いの気持ちを育んでいる。
「さ、行きましょうか。今日は骨董通りの先にある店に案内します」
「どんな店なんですか?」
「着いてからのお楽しみにしましょう」
「アーサー先生は偶に意地悪です」
「えーっ?」
ふと、アリスがカイエン伯爵邸を庭から見上げる。
込み上げる懐古の念が喉元まで迫り上がる。
この、包み込むような屋敷で暮らした日々を、アリスは生涯忘れる事は無いだろう。
「アリスさん?」
アーサーの声で現実に引き戻された。
思い出はアリスの胸の奥底に仕舞われてゆく。
「アーサー」
「なんですか?」
「呼んでみただけです」
「なんですか、それは」
笑い声がこだまする。
二人のたわいない会話がカイエン伯爵邸の庭先に消えて行った。
夏の暑い日の事だった———。
♢
アーロンは自室の窓から仲良く歩く二人の後ろ姿を見つめている。
眩しいのか目を細めているが、仮面の下の顔は曖昧だ。
しかし、どこか嬉しそうにも見える。
寂しそうにも見える。
コンコンと控えめなノックの後に、ユウリが入室して来た。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう、そこに置いておいてくれ」
アーロンは振り返りもせずに答えた。
ユウリはアーロンが窓の外を眺めているのを察して聞いてきた。
「アリス様ですか?」
「ああ」
「秋にはここを出て行かれるなんて、寂しいですね」
「……ああ」
答えには僅かな間があった。
アーロン自身の葛藤を表しているような間だった。
アーロンの肩は微かに震えていた。
ユウリは気を遣っているのか何も言わずにカップに茶を注いでいる。
「———彼女は幸せになると思うか?」
アーロンの口から出た問いに、ユウリは力強く頷いた。
振り返ったアーロンはユウリを見据える。
「幸せになりますとも!幸せにならなかったら、この私自ら叱咤しに参ります」
拳を握り力説するユウリが可笑しくてアーロンは吹き出した。
アイアンマスクを外し、目尻に付いた涙を拭った。
「そうか……、そうか。ではその時まで元気でいないといけないな。君の叱咤とやらを見に行かねばならないからな」
「そうですよ、旦那様。養父である貴方様がしっかり元気でいる事がアリス様の幸せでもあるのですから。でも旦那様、漸く心から笑える時が来たんですね。私などが申す事ではありませんが、本当にアリス様のお陰ですね」
ユウリはそう言うと一礼して退出して行った。
静かに閉ざされた扉を見つめてからユウリの入れてくれた茶の入ったカップを両手で持った。
雫が一滴カップに落ちた。
「そうか……、そうか」
アーロンは一人呟いた。
「巣立ちを見送るのは存外寂しいものなのだな。永遠の別れでもあるまいに」
アーロンは一人のアリスという少女の巣立ちと共に、止まっていた己の時間が動き出す予感を感じていた。
季節の移り変わりは早い。
凍えるような過酷な冬が人を試す。
しかし、明けない夜が無いように当たり前に春はやってくる。
息吹の春が過ぎ去れば、忍耐を試すような長い夏の暑さが人を惑わせる。
そうして漸く実りの秋が訪れて、人々は安堵するのだ。
その背後にまた過酷な冬が待っている事を知っていても。
それでも命の輝きを灯し続けるのだ。
明日が必ずやってくる事を知っているからだ。
アリスとアーロンの長く苦しみに満ちた日々が漸く終わりを迎えようとしていた———。
窓の外、夏の暑さが攫っていった。
透明な少女は、もう居ない———。
了