1
私は透明。
家族は誰も私に気付かない。
屋敷の中の使用人は、みんな私を無視する。
アーロンだけは私の味方。
アーロンは私の執事。
私だけの執事。
♢
子爵家アンダーソン家には使用人以外に四人の人間が住んでいる。
子爵位を持つマルク・アンダーソンを筆頭に、その妻ユリアと二人の娘であるブリジットとマリアン。
しかし、正式にはもう一人娘がいる。
名をアリスといった。
アリスは藁に古いシーツを被せたベッドの上で朝を迎えた。
小さな狭い屋根裏部屋だ。
部屋には小さな窓が一つ。
いくら掃除しようとも直ぐに埃っぽくなってしまう小さなアリスの居場所だ。
うーん、と一つ伸びをして起き上がる。
小さな窓を開けると、空は綺麗に晴れていた。
アリスは部屋の床に付いた出口から梯子で階下に降りた。
そんなに大きな屋敷では無い。
一階に降り、使用人の使う裏口から外に出ると井戸がある。
アリスは井戸水を汲み、井戸の脇に置いてある盥に移す。
顔を洗って口をゆすぐ。
伸び放題の髪を束ねると、ポケットにしまってあった一本のリボンで髪を結ぶ。
綺麗なエメラルド色のリボンだ。
アリスが持っている大事な物の一つ、アリスだけの持ち物。
アリスは立ち上がると、裏口から厨房に入る。
調理台の上に置いてあるブレッドケースを開けた。
中にはふかふかのパンと湿気ったパン。
アリスは迷わず湿気ったパンを手に取る。アリスにはそれしか許されていないからだ。
水差しから木でできたコップに水を入れて食べ出した。
粗末な食事を終えて片付けをする。
厨房にも裏の井戸にも使用人はいた。
しかし誰もアリスには声を掛けない。
何故なのか。
それは屋敷の主人でもあるアンダーソン家の面々が皆アリスをそのように扱うからだ。
廊下に出るとアリスの一つ下の妹、ブリジットが居た。
「お、お、お、おはようございます」
アリスが頭を下げて挨拶をする。
しかし返答は無い。
ブリジットが通り過ぎるのを待っていると、マルクがアリスよりも五つ下の妹マリアンを抱いて現れた。
「お、おはようご、ございます」
矢張り返事は無い。
アリスはこの屋敷で透明なのだ。
居ない者として扱われている。
ずっと。
アリスは今年で丁度十歳だ。
アリスが八歳になる歳までは屋敷にはアーロンという執事が居た。
アーロンはアリスを唯一無視しない存在だった。
屋根裏部屋で暮らすアリスの世話をしてくれていたのはアーロンだった。
アーロンも自らの仕事の合間にやってきてはあれこれ世話をしてくれたが、決してしたくてしていたのではないとアリスにも分かっていた。
それでもアーロンがアリスにとっての唯一の拠り所だったのだ。
そんなアーロンも、アリスが八歳の年に屋敷を出て行った。
実家の都合により遠縁に養子に行く事になったと言っていた。
最後にアーロンは、いつも髪を結んでいたエメラルド色のリボンをアリスにくれた。
アーロンの瞳はリボンと同じ色だった。
それからアリスはいつも屋敷で一人きりだ。
誰にも見えない、透明人間だ。
アーロンが居なくなってから、時々自分が本当に存在しないのではないかと思う時がある。
透明人間はとても悲しい。
アリスはそう思うのだ。
アリスは学校にも通っていない。
普通の貴族の子は大体四歳頃から家庭教師を付けて学び、六歳の年には学校へ通う。
アリスにはそんなものは与えられない。
だが、読み書きだけは出来る。
数を数える事も。
アーロンが教えてくれたからだ。
アリスが夕食を食べて暫くするとアーロンがやってきた。
そうして寝るまでの一時間か二時間程を使って教えてくれた。
もう今はアーロンは居ない。
代わりにアーロンに貸して貰った本を擦り切れる程読んだ。
本は、様々な冒険が描かれた夢のような内容だった。
アリスはアーロンに貸して貰った本を読むと必ず屋根裏部屋の小窓から空を見上げる。
今日は満点の星空だ。
———アーロンは元気にしているかな?
アリスは帰らぬアーロンを思っていた。
♢
アリスは十五歳になった。
相変わらずアリスは透明人間だ。
でも、アリスが成長してから気付いた事がある。
どうやらアリスは本当の透明人間ではなかったらしい事だ。
アリスが屋敷の廊下で家族に会うと、睨まれる事がある。
特にきつく睨んでくるのは母のユリアと一つ下の妹ブリジットだった。
アリスはその度に小さくなる。
嫌だと思った。本当の透明人間は寂しいけれど、睨まれるよりは幾分マシだと思った。
夜、いつものようにアリスが屋根裏部屋でアーロンに借りた本を読んでいると、誰かが梯子を上がってくる音がした。
梯子が壊れてしまうかと思う程乱暴な足音。
アリスの屋根裏部屋にアーロン以外が来た事は無い。
アリスは小さくなって身構えた。
床に付いている入り口を乱暴に押し上げて入ってきた人物。
ユリアとブリジットだった。




