ロンドン橋が落ちた。(1)
1
ヘッドホンから、対策本部の緊張した雰囲気が漏れ聞こえていた。
『聞こえますか、移動指揮本部。JR東北線荒川橋梁内で発生した列車ジャックの現況を報告してください』
「橋梁の上なので、簡単には近付けない状況です。車輛の周囲に監視カメラが取り付けられていまして。そうですね、こちらの一寸した動きにも、敏感に反応を見せています」
荒川の土手に停められたワゴン車に、移動指揮本部が設置されていた。
警視庁刑事部捜査第一課特殊犯捜査係、班長の荒瀬順三警部補は、無線機に向かって状況の報告を行っていた。
報告の見返りのように、立て篭もり犯の情報が無線を通じて伝えられた。
荒瀬は録音のスイッチを押した。小まめに音声を文書化して、結果をプリンターから出力した。印刷された用紙を、頭の中で整理しやすいように並べ直していく。
大柄の荒瀬にとって、無線機前の小さなテーブルでは窮屈だった。
荒瀬はボールペンを探した。無造作に置かれた書類が落ちそうになった。せっかく纏めた用紙がテーブルの下に落ちた。
隣で耳を澄ませていた部下の曳地巡査部長が、拾った用紙に鉛筆を添えて手渡した。
荒瀬は手刀を切って、曳地に礼をした。伸び気味の髪に鉛筆を刺し込んで頭皮を掻くと、追記したい情報を用紙の上に書き取っていく。
情報が必要な順番に並べ直されて、粘着テープで無線機の前面パネルに貼りつけられていった。
無線機が最後の情報を流した。荒瀬は報告の終了した日時を書き足して、全体を大きく丸で囲んだ。
貼り付けた用紙を眺め、荒瀬は書き込んだ丸の上を人差し指でトントンと突いた。
「おい、犯人の身元が割れたぞ」
荒瀬は横を向いて曳地に告げた。無線機のパネルに貼り付けたメモを剥がし、確認しながら内容を説明していった。説明した順に、今度はテーブルの上に並べていく。
「奥畑純行、二十九歳。独身だ。三か月前まで総合商社五陵洋行の営業マンとしてコロンビアに駐在勤務していた。広島県出身で母親と祖母がいる。国内の過激派との接点は、今のところ確認できていない。特別な繋がりはないな」
「それでは、奥畑は単独犯なのですかね。同時的に発生している列車防護無線の誤発報とは、関係ないですか。組織化された同時多発テロの一端が、奥畑の列車ジャックだと考えれば、もっと何か隠された目的がありそうですが」
丁寧に刈り上げられた坊主頭を突き出しながら、曳地が率直な疑問をぶつけてきた。
「奥畑から要求が出てくれば、何かが見えてくるかも知れんがな。一切、沈黙じゃ、入り込む隙がない。せめて、マイクだけでも取り付けられたらなあ」
占拠された車輛がトラス式橋梁の中央部に停車していた。現状は、思ったよりも人質救出のオペレーションには重い足枷になっていた。
隠れて近付こうにも、監視カメラの死角が少な過ぎて、すぐに勘付かれる。
人質に拳銃を突きつけられると、捜査員の動きを止めざるを得なかった。
「狙撃はどうですか? 土手からでも、腕次第では狙えませんかね」
曳地の質問に荒瀬は苦笑して答えた。
「まだ、早すぎる。この段階で狙撃しては、世論が黙っていない。それにな、特殊急襲部隊《SAT》の話では、奥畑と人質二人の位置関係に加えて、トラスが邪魔をして、非常に照準を合わせ難い状況だそうだ」
「作業船で橋脚から接近したらどうでしょう。自分らでやりますよ、班長の許可さえ頂ければ」
曳地が申し出ると、巡査長の城田が真剣な顔で頷いた。
「気持ちは判った。だがな、奥畑の監視カメラの性能が不明だ。隠れて行動した時に、過剰な反応に出ないか不安が残る。まずは正攻法で対処すべきだな。まずは俺が線路を伝って交渉に向かう。後方で援護を頼むぞ」
「それなら班長、まずは自分が行きます。最初から現場の司令塔が倒されたのでは、後が困りますからね」
曳地が東北訛りのイントネーションで、荒瀬に申し出た。緊張すると、普段の標準語が消え、曳地は出身地の方言が飛び出すようになる。荒瀬は笑って、曳地の背中を叩く。
「ありがとうな、気持ちは受け取っておくぞ。しかしな、埼玉側からも協力で、埼玉県警の班長が橋を渡って列車に接近するそうだ。ここは俺が行かなくては、仁義にもとる」
立ち上がってワゴン車のドアを開けた。外に出ると川を渡る穏やかな風が吹いていた。
2
荒瀬は窮屈に縮こまっていた身体を伸ばした。
対岸に停められた埼玉県警の捜査車両の一群を眺めながら、荒瀬は誰にも聞かれないように独り言ちた。
「くそう、めんどうくせえな。微妙な位置に停まりやがって」
列車は県境を跨いで停まっていた。警視庁管内だけであれば話は簡単だった。
埼玉寄りに列車の一部が飛び出していたために、関東甲信越の十県警を統括する関東管区警察局から警視庁に横槍が入った。
調整の後、東京寄りに車輛が多く残っている理由から、捜査の主導権は警視庁が獲った。
事件発生が赤羽なのだから、当然だ。それでも立て篭もり犯との交渉のたびに、埼玉県警の捜査協力を仰ぐ必要があるのは、厄介だった。
荒瀬は城田を従れて線路に向かった。赤羽署の刑事とSAT隊員を残して、荒瀬は川口方面に向かって歩き出した。
無残に枕木の折れた東北本線の線路を見ながら歩く。遙か先に爆破で壊れた列車の後部が見えた。
「酷いもんですね。あんな状態で、よくもまあ、橋の真ん中まで行きつけたものだ――」
城田が歩きながら話し掛けてきた。忌々しげに、城田は話を繋ぐ。
「――どうせなら、すぐ手前で停まってしまえば良かったものを」
「まったくだぞ。しかし、埼玉側は、もう列車に近付いている。急ぐぞ、後れを取るわけにはいかない」
急ぎ足で鉄橋を渡った。足元からブルーシートのテント群が見えた。
川面の上に差し掛かると、荒瀬は少しだけ足が竦む思いがした。風が強く感じられた。
川の中空に架かっている状況は同じだが、流れる水面を見ていると足元の不確かさが余計に身に沁みた。
「停まってください。それ以上は近付かないで。それから、交渉は一人だけでお願いします」
壊された列車後部から、人質になった運転士が姿を現した。緊張しながら荒瀬に告げる。名前は磯崎路雄、中堅の運転士だった。
城田が交渉に残りたげな表情を見せた。城田の眼を見て、諭すように荒瀬は頷いた。
仕方なく、城田が橋梁の袂に帰っていく。
「犯人はどうした? 直接、話はできないか」
荒瀬は磯崎に向かって大声で話した。困った表情で首を横に振ると、磯崎が、荒瀬に答えた。
「もう一人、女子高生の人質がいます。拳銃を押しつけて、必要以上に近付くと女子高生を殺すと言っています。反対側から近付いている捜査員にも、連絡してください。まずは、足を停めないと交渉はしないそうです」
「わかった。ここから先に、足は進めない。だから、訊かせて欲しい。何が目的なんだ。いったい、何をして欲しいんだ」
無言で頷くと、磯崎が車輛の中に戻った。
『犯人は何を要求しているんだ? こちらには、人質の女に拳銃を突きつけた姿を見せたが』
イヤホンを通して、埼玉県警の班長から質問が届いた。交渉の間は、直接交信ができるようにセットしてある。
〈何を急いでいるんだ。交渉事に、焦りは禁物だ。経験が少ないから知らんのだろうが、知らないなら、埼玉は少し黙っていて欲しい〉
荒瀬はヘッドホンに付いたマイクに向かって、小声で告げた。
「今、交渉を始めた。直接ではなく、人質の運転士を通して話をしている。安易に間違った対応を選択しないように、細心の注意を払っていた。犯人は冷静な判断力を有している。行動に注意しないと、慎重さを欠いた選択は命取りになりかねないと思われる」
荒瀬の発言は警視庁、埼玉県警本部、双方の無線に同時に流されていた。時間を掛けてでも、じっくりと交渉すべきだった。
『しかし、荒川橋梁が封鎖されたままだと、首都圏の交通機能に、壊滅的な影響が発生する。現状のままで、悠長な対応を続けてはいられない。まずは、輸送態勢が僅かでも回復できる方向でも交渉されたい』
対策本部からの返答に、荒瀬は違和感を覚えた。
人質の安全確保と、二次的な被害の回避こそが、まず検討されるべき問題ではないのか。輸送態勢の回復など二の次のはずだ。
〈何か他にも、重大な問題が発生しているのか?〉
刑事の勘だった。荒瀬は事件の収拾が長引きそうに感じた。かなり厄介な問題だった。




