中編
夜。
ジェームズは目を開けたまま、横たわっていた。
エイプリルは、ジェームズがストックしていたカップラーメンを食べるとゴミをそのままテーブルに置いて、ベッドで眠りについたようである。
だるい体を動かして、容器を洗った後、ゴミ箱に捨てる。
冷蔵庫に入れていたビンの中身は全てエイプリルが捨ててしまった。
ジェームズはひどい喉の渇きを覚えている。
昨日から、二日間も晩酌をしていない。
そのせいか、体に力が入らなかった。
唐突に、昼間に会ったヘンリーという若者を思い出す。
唯一の手がかり、か。
ジェームズは一人、家の外に出て行った。
エイプリルは、ジェームズが出て行く玄関の音で目を開ける。
眠っていたわけではないのだ。
ヴィシーを見ると、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべていた。もっとも、この使い魔はいつも何かしら笑っているのだが。
「ジェームズ・アーカーが外に行ったみたいね。散歩かしら」
ポツリとそう言うと、エイプリルも外へ出た。
行き先は決まっていた。
しっかりとした足取りで進み、あるボロいアパートの前で立ち止まる。
先程、ヘンリーを送っていった建物だ。
エイプリルがヘンリーを家に帰らせたのには訳がある。
「唯一の手がかり」を自分の目の届く場所に置いておくことと、姿を見た彼の元に吸血鬼が現れるのではないかという期待があったのだ。
吸血鬼たちは、自分の姿を見た者を、決して許さない。
「上手く、エサに食いつくといいけど」
エイプリルはアパートの向かいの建物の屋根の上に登る。
向かいから二階にあるヘンリーの部屋を覗くと、ベランダに面した大きな窓は開け放たれており、部屋の明かりをつけ、ベッドに座って何かを見ている。
テレビでも見ているのだろうか。
(いや、違うわ!)
エイプリルが「ヴィシー!」と叫ぶと、ヴィシーは翼を広げ、それをどんどん大きくする。
人ひとり乗れる大きさになったところでエイプリルが飛び乗った。
「出遅れたわ! 吸血鬼が先に入ってる!!」
ヴィシーがエイプリルをヘンリーの部屋の窓まで運ぶと、エイプリルは窓から部屋へ侵入した。
ヘンリーはエイプリルを見て叫ぶ。
「あ、ああ、あんた! 奴が俺を追ってきた!!」
部屋の中には、ヘンリーの他にもう一人。
黒いマントに身を包み、帽子を目深に被った背の高い人物が立っていた。
そいつはエイプリルに目を向ける。
オペラ座の怪人のようなマスクを被り、唯一見える目は赤く血走っていた。
(……不気味な奴! からかっているんだわ。)
エイプリルはそいつの異様な出で立ちに面食らい、一瞬だけ出遅れる。
吸血鬼は、それを見逃さなかった。
さっと猫が木に登る前の様に身をかがめると、窓の外に飛び出す。
「吸血鬼め……!」
エイプリルは、スカートの下に隠していた銀のリボルバー式拳銃を素早く取り出した。
特注品の純銀製の拳銃は手のひらにズシリと重い。有無を言わずに、吸血鬼めがけて弾を撃ち込んだ。
一発目、ベランダから外に飛び降りようとしていた吸血鬼はひらりとかわす。
マントにかすり、穴が空いた。
すぐさま、二発目を放つ。
しかし、それもかわされてしまう。
吸血鬼はエイプリルを仮面の奥から見据えると、三発目を放つ前にベランダから、飛び降りた。
エイプリルはすかさずベランダから外を見る。
走る吸血鬼めがけて、続けて三発を撃ち込む。
これは、吸血鬼の体の一部に命中したようだ。が、吸血鬼は止まる事なく逃げ続ける。
エイプリルもベランダから飛び降りるが、吸血鬼の姿はもうどこにもなかった。
「くそ……! 取り逃がしたわ!!」
ヘンリーの部屋に戻ったエイプリルは、窓から再び侵入した。
ヘンリーは、ベッドの上で腰を抜かしていたため、そのままの状態でエイプリルに聞く。
「な、なあ、あいつ、倒したのか?」
エイプリルは、爪を噛みながら眉間に皺を寄せた。
「いいえ、かなり素早いやつで、取り逃がしたわ」
「じゃあまた俺のとこに来るって事かよ!! くそっ、あんた、クソなんとかっていうんだろ!! 俺を守ってくれよ!!」
ヘンリーは恐怖で怒鳴りつけるが、エイプリルは怯まずにぴしゃりと言った。
「おだまり! 普通なら信じるはずのないあなたの話を真剣に聞いただけでも感謝して欲しいわ。それに、クソじゃなくてエクソシストよ! 間違えないで」
自分より5歳は下に見える少女の迫力に、ヘンリーは気圧され何も言えない。
「それに、目星はついているのよ。そいつは善良な市民のフリをして、人を襲っている。許せないわ。大丈夫よ、ヘンリー。もう二度とあなたを襲わせたりしないわ」
エイプリルのしっかりとした口調に、ヘンリーは落ち着きを取り戻すとともに、自分の態度を恥じた様だった。
ふう、と一息つくと言った。
「さっきは悪かったよ、大声を出したりして。こ、怖かったんだ。でも、驚いた、あんた、勇敢なんだな」
素直なヘンリーの言葉にエイプリルはにっこりと笑う。
と、その時。
トトン、トトン、トトン
何者かが外の階段を登ってくる不規則な音が聞こえた。
エイプリルとヘンリーは思わず顔を見合わせる。
そして、
ドンドンドン!
ヘンリーの部屋のドアが激しく叩かれる。
まさか、吸血鬼が戻ってきた?
先ほどの恐怖を思い出したのか、ヘンリーの体はガクガクと震え、エイプリルにしがみつく。
しかし、次に聞こえた声に、彼は安心した。
「俺だ! 昼間のジェームズ・アーカーだ! ヘンリー、大丈夫か!?」
ジェームズの声に、ヘンリーは昼間に会った体格の良い刑事を思い出す。
自分の話を全て信じてはいないようだったが、彼は信頼できそうだった。
「あ、ああ! 今、鍵を開けるよ……!」
しかし、ヘンリーが立ち上がろうとするのを、なぜかエイプリルが制した。
手はヘンリーの前で待てのポーズをとりながら、目は玄関に向けられている。
その表情は、今までみたこともないほど厳しかった。
「ジェームズ・アーカー刑事。随分タイミングがいいわね?」
突然聞こえたエイプリルの声に、ジェームズは困惑したようだった。
「お嬢ちゃんか!? なぜ、ここにいる!」
「あなたこそ、なぜここへ?」
「俺は、散歩で裏を通りがかったら、ヘンリーの家の方で大きな音が聞こえたんで、気になってきたんだ。ここを開けてくれ! ご近所さんに、変な目で見られちまう」
確かにジェームズはたった先ほど、ここへ到着したのだから、吸血鬼の姿も、エイプリルがいることも知る由はない。
しかし、扉を開けるように頼むジェームズに、エイプリルは心の中で思う。
(しらじらしいわね……)
「そう言えば吸血鬼は、招かれないと家の中に入れないなんて話があったわね」
エイプリルはボソリと呟くと、玄関に近づいて行った。
「それは、結局迷信なんだけど、ジェームズ・アーカー刑事。あなた、いつ足を怪我したの?」
エイプリルは問いかける。
こちらに向かう足音に、片足を引きずるような音が聞こえたのだ。
扉の向こうで息を飲む声がした。
「……よく、わかったな。足は、さっき散歩中に野良犬に噛まれたんだ」
「偶然ね。私もさっき、吸血鬼の足を撃ち抜いたのよ」
部屋の真ん中でへたりと座り込み、二人の会話を黙って聞いていたヘンリーも、流石にエイプリルがなにを言わんとしているかが分かった。
しかし、まさか。
ジェームズはため息をついたようだった。
「いい加減にしてくれないか。俺は間違いなくジェームズ・アーカーだ。疑うなら、覗き穴から覗いてみろよ」
挑むような口調のジェームズに歴然とした態度でエイプリルは言った。
「いいえ。あなたがジェームズ・アーカーである事は疑っていない。ただ、あなたがジェームズ・アーカーで、かつ吸血鬼であると確信しているのよ」
エイプリルはドアノブに手をかける。
「ちょっと、開けるのかよ!?」と言うヘンリーの声を無視して、ガチャリ、とエイプリルは扉を開ける。
その手には、銀色の拳銃がしっかりと握られていた。
扉の向こうには、酷く怖い顔をしたジェームズ・アーカーが立っていた。
いつもなら後ろに流している髪の毛はボサボサとまとまりなく、目の下にはクマがある。
左足から流れた血が、廊下に赤い点々を描いていた。
エイプリルに拳銃を突き立てられながらも、ジェームズは口の端を片方だけあげて冷静に言う。
「なぜ、俺が吸血鬼だと思うんだ」
口調は困惑していたが、その目は異常にギラギラと光っている。
「あなたの態度、初めからおかしかったわ。私を見て、怯えるんですもの。オカルト嫌い、以上にね」
エイプリルは拳銃を突き立てたまま、一歩進む。
反対にジェームズは一定の距離を取るように、一歩下がる。
「あなたの冷蔵庫にあったビン。今、調査機関の結果待ちだけど、中身は人の血液ね? ヘンリーを部屋に戻して、あなたが襲うか確かめたかったのよ」
ヘンリーの、「ひどい!」と言う喚きは無視してエイプリルは話を続ける。
「結果として、あなたはここへ、二度も来た! 動きようのない証拠だわ。ヴィシー!! 縛り上げて!!」
エイプリルが使い魔の名前を叫ぶと、ヴィシーがどこからともなくやって来て、体を紐のように伸ばすとジェームズの胴体を何重にも縛り上げた。
「これで連続殺人はお終いよ、吸血鬼!! あなたが最後に見るのは、この私に退治される光景だわ!」
そう言って、エイプリルがジェームズに向かって銃の引き金を引こうとした瞬間である。
ジェームズは、自力でヴィシーの体をバチンと引きちぎると、紐状態のヴィシーをエイプリルに投げつけた。
エイプリルは一瞬怯むが、なおもジェームズに銃を撃ち込む。
ジェームズは、引き金が引かれる瞬間に避けるが、弾は右肩を貫通したようだ。
「ぐっ……!」
激痛に短く呻き、ジェームズはよろける。
「沢山の人を、分別なく襲うなんて。吸血鬼にはそれなりの美学があると思ってたけど、お前はダメね。餌にがっつく飢えた犬のようだわ」
エイプリルはジェームズにまた一歩近づく。
ジェームズの目は、エイプリルを捉えようとするが、次第に視界は歪んで行く。
(血が、足りねぇ……!)
エイプリルが来てから、碌に食事をしていない。
体に力が入らず、小刻みに震える。
「お前には、聞きたいことがある。だからまだ、殺さない」
ジェームズが気絶する前に最後に見たのは、怯えた顔のヘンリーと自分を見下ろすエイプリルの目だった。
彼女の目は、酷く憎しみに満ちたものだった。
それは、エイプリルの幼い時の記憶。
父は教師だった。
母は昔、保育士をしていたが、エイプリル誕生とともに家庭に入った。
父はひたすらに一人娘に甘く、母はやんちゃすぎる娘にときおり厳しく、しかし、とても優しかった。
夕飯を家族揃って食べながら、エイプリルの一日の報告をするのが決まりだった。
エイプリルの大切な温かな思い出だ。
エイプリルが8歳の誕生日を迎えた日だった。
誕生日はいつも、父は半日休みを取り、祝ってくれる。
学校から帰ると、エイプリルはただいま!と大声で言った。
しかし、出迎えてくれる両親の姿はない。
おかしいな、あ、もしかしてサプライズかな。
そしたら、私も驚かせよう!
エイプリルは足音を立てないようにそっと廊下を進む。
心はイタズラに弾んでいた。
そして、リビングのドアを勢いよく開けた。
シーンと静まり返るリビングで、まず目に入ったのは「エイプリル、お誕生日おめでとう」の文字が一つずつ書かれたガーランド。
机の上に並べられた豪勢な食事。
エイプリルの好物のハンバーグとオムレツが乗っている。
真ん中には大きなケーキも。
それから、立っていた見知らぬ男と、
横たわり、絶命した両親だった。
* * * *
翌日。
夜。
エイプリルがこの街に来てから三回目の夜。
彼女は一人、時計台の針の上に座っていた。
ここからだと、この街がよく見える。
空は分厚い雲が覆っており、星はおろか、月の光さえ届かない。
辺りはしんっと静まり返っている。
続く奇怪な殺人事件のため、人々は夜の外出を控えているようだ。
吸血鬼であるジェームズ・アーカーは捕まったが、まだ一般には公表していない。
警察が彼の家宅捜索を始めたところ、黒いマント、帽子、仮面が物置として使っている倉庫から発見された。
マントにはエイプリルが撃った跡が残っていた。
ヴィシー、とエイプリルは呼びかける。
しかし、返答はない。
(そうだ。ヴィシーはいないんだったわ)
昨日、体を引きちぎられたヴィシーを思い出す。
エイプリルはそっと目を閉じた。
両親の死体を目の当たりにしたエイプリルは、男への恐怖と憎しみが湧いた。
倒してやろうと思ったのかは覚えていない。
気がついたらエイプリルは、そいつに飛びかかっていた。
殺されなかったのは、エクソシストが助けに来たからだ。
男を殺した後で、そのエクソシストは言った。
勇敢な子だね。
昔の記憶を思い出して、エイプリルは目を開けた。
そう、吸血鬼なんて、許せない。
今、ジェームズ・アーカーの身柄はエイプリルが預かっている。
ヴィシーがジェームズを見張っているため、変な動きはしないだろう。
(まあ、あの怪我じゃ、簡単には動けないか)
昨日ヴィシーの体がちぎられた時、エイプリルの中に激しい怒りが湧いた。
もっとも、悪魔であるヴィシーがそんな事で死んだりはしないのだが。
ジェームズはまだ気を失っている。
エイプリルは立ち上がると、どこかへ去っていった。
クリス・ポール警部は、警察署に残っていた。
昨晩、突然自宅を訪れたエイプリルにも驚いたが、それよりも、ジェームズ・アーカーが吸血鬼であると聞かされた時の衝撃は凄まじかった。
ジェームズにエクソシストに同行しろと言ったのは、彼が優秀な人材であるからに他ならず、吸血鬼だと思っていたからではない。
偶然だが、結果としてそれが彼の捕獲に繋がったのだとしたら、幸運なことだと思う。
と、人の気配を感じて振り返る。
「君は……」
そこには、どこから侵入したのか、エイプリルが腕組みをして立っていた。
その顔は険しい。
「昨日、言い忘れたことがあって、来たわ」
自分よりずっと年上のポール警部にも、エイプリルは物怖じせず言う。
大したものだな、とポール警部は思う。
「ジェームズ・アーカーは、我々エクソシストが責任を持って処分するわ。安心して。もう人が襲われることはない」
「あ、ああ」
ポール警部は曖昧に返答をする。
昨日まで部下であったあの男が、きっとエクソシストに処刑される。
そう思うと少し残念であった。
「部下たちには、ジェームズ・アーカーが一連の事件の犯人であり、既に死亡が確認されたと伝えている」
今日の朝、そう伝えると、皆驚愕の表情を浮かべていた。
エイプリルは満足そうに言った。
「あなたは物分かりのいい、優秀な方だわ。ご協力に、感謝いたします」
エイプリルが去った後、ポール警部は深いため息をついた。
彼の足がちくりと痛む。
一仕事を終えると、署を後にしたのだった。