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 僕とエルラが出会ったのは、降りしきる雨の夜のことだった。

 僕は独り、血の塞がらない腕を庇いながら、【魔王の森】を行く宛もなく歩いていた。

 朦朧とする目は、熱を持って脳の奥まで焼けるようだった。打ち付ける雨は熱を奪うには至らず、導となる物も何も無い。その時点での僕は、旅の仲間を失っていたのだから。

 外されたのだ。パーティーを。こんな終盤で、苦難を共にした者達から、僕という存在を危険視された。正しくは、僕の持つ能力を。《剥奪》スキルの制御を誤って、信頼の置ける仲間達から、その人生を懸けた才や技能を奪いかけた。森の中で度重なる魔物達との連戦が、この“目”の持つ力を肥大化させたのかもしれない。

 一定時間の対象の目視、それがスキル発動の条件だ。能力は図らずも僕の想像を飛び越え鍛えられ、ただの一瞥のみで事を成せるまでに到達してしまった。そんな力を頼もしい味方とするには、肩を並べて戦う立場からすれば、安心しろと言うのが無茶な話だろう。

 喉元に刃を突きつけられてるのと変わりない。僕の目は、戦力として活用するにはあまりにも手を持て余した。彼彼女らの判断を、僕は我ながら冷静に聞いていたと思う。

 スキルを奪う度、記憶を侵食される僕を労ってくれた、始まりの街から冒険を共にした巫女が言った――『貴方が怖い』と。

 憎まれ口が偶に疵だけど、僕の世界の料理をいたく気に入ってくれた、狩りの名手が言った――『俺達はお前の獲物じゃない』と。

 この世界に来て右も左も分からなかった僕を助けてくれた、旅の苦渋を分かち合った剣士が言った――『その目を俺に向けるな』と。

 予期していた顛末だったように思う。

 このスキルをくれた女神の顔も、転移した経緯も、戦いの連鎖と力の対価でぼんやりと薄くなっていた。この世界に喚ばれて与えられた“勇者”の役割を全う出来なくなった僕は、存在意義を見失って、暗い森を漂った。そんな道中で遭遇した魔物達のせいで、傷を負ったのだと思う。無意識で、もう覚えていない。惰性感に引き摺られ、僕は歩き続けた。

 

 そんな自暴自棄の最果てに、僕は一つの家屋に辿り着いた。

 木で建てられた簡素な造りの、田舎町の掘っ立て小屋。初め、そんな所感を抱いた。

 霞む視界と、雨にぼやける景色から、幻覚の可能性を疑った。

 だってその家の前に立つ少女は、現実感を不確かにさせるくらい、綺麗だったから。

 白銀の髪を雨に滴らせ、なのにその美を一切損ねない、赤い瞳を夜に輝かせる女の子。

 彼女に近付いている筈なのに、その輪郭が確かになるに連れ、夢を見ているような錯覚に囚われる。それ程に少女は美しかったし、僕も夢見がちなものだと、自分を笑えた。

 叶うなら、彼女のような存在に看取られたい。

 そんな願望が生んだ幻想だと信じて、僕は彼女の前で倒れた。

 消え入る意識と、遠くなる雨の音。そんな騒音の中にあって、彼女の厳格な声は不思議と頭に響いた。


 「ほう。こんな辺境に足を踏み入れるとは、どんな屈強な勇者かと思えば、何、死体の紛い物であったか。これが主の旅の幕切れか? 随分とつまらぬ死に様よのう、人間」


 閉じかかる瞼に抵抗して、倒れ伏した視界の端に彼女を捉える。

 項垂れた銀髪に囲われた彼女の顔貌が、酷薄な笑みを象った。


 「まだ意思があるようじゃな。その灯火が消え入るまで、存分に悔い入るがいい。……しかし、その目は解せんな。まるで、いつ死んでもいいとでも言うような。妾はぬしを知らんが、魔に名を連ねる者として、立ち会う死は最も陰惨で後悔が滲んだものが望ましい。――だというのに、なんじゃその体たらくは。主は全力で生き抜いた結果に、ここで力尽きるのではなかったのか? 死に方すら落第じゃぞ、貴公」


 何か、理不尽なことを言われている気がする。

 それでも、真上を覆う彼女が発する声音の一つ一つは、どんな高尚な聖書を読み上げるよりも、僕に降り積もったと思う。彼女は屈んで、想い秘めるように語り掛ける。


 「……気が変わった。貴公が死を受け入れる心算なら、妾はそれを赦さんよ。主が死を楽と感ずるほどに、生を苦として味わったのなら、妾がそれを引き延ばそう。絶望を与えるには希望から、じゃ。とくと苦しめよ。これから主は、妾の下僕じゃ」


 答えも、肯定も否定も要さない、自分勝手な決定事項。

 そこに考えを見出す暇もなく、僕の意識は途切れた。

 


 ◆



 目が覚めると、雨に滲んだ天井が僕を迎えた。


 「…………」


 一概にも衛生的ではないとの第一印象に、遅れて雨漏りの水滴が何かしらの容器に落ちる音を耳に拾う。僕が最後に見た、感じた出来事が幻覚でないなら、ここはあの銀髪の少女の住処の筈で、そしてお世辞にも、その環境は整っているとは言い難かった。

 薄暗い部屋の中、固いベットに横たわりながら、僕は雨の音頭を聴いていた。


 「……全く、雨漏りで頭を痛めるとは、自分で飛び出たとはいえ、城の生活が如何に便利じゃったか、改めて思い知らされるわ」


 扉を開く音と共に、愚痴めいた少女の声がやってくる。目で追えば彼女は桶のような物を手にして、雨漏りに必死に抗っていた。

 まがりなりにも勇者をやっていた者として聞き捨てならないことを聞いた気がして、僕は喉を働かせる。


 「……城っていうのは、もしかしてあの【魔王の城】のこと?」


 背を見せていた彼女は首を返し、舞う銀髪が不敵な笑みを追いかけた。


 「目覚めたか、下僕。好奇心旺盛なのは結構じゃが、妾が質問を許したか?」


 彼女は迷いのない足取りで、僕の前に立ち塞がる。見下ろす目に溢れた余裕は、こちらの自由を制限する、上位者の威厳に満ちている。けれど少女の、武装のない身なりや不用意とも言うべき距離の取り方から、敵意といったものは感じられなくて、僕は自ずと、彼女の言に込められた強制力に従っていた。


 「その通り、ですね。訊くより先に、言うべき事がありました。僕はカルトと言います。勇者って、もう名乗っていいいのか分からないけど、そんな一行に属していた者です。手負いの道中、こうして助けて頂けるなんて、本当に、ありがとうございます」


 身を起こし、ベットの脇に腰掛ける姿勢を取りながら、彼女に礼を述べる。包帯に巻かれた右腕に意識を促し、多少心許なくなった握力を確かめる。……そんな体裁を取りながら、本当は、眼前の彼女を直視することを恐れていた。

 僕の“目”は、この恩人からさえ、可能性を容易く奪ってしまうだろうから。

 俯くことを、自分に課した。

 

 「名乗れと命じた覚えもないが……真っ先に礼を述べるか。つまらんな。人の良さを被ったところで、先刻の主の面を妾は忘れんよ。して貴公、本当に勇者の一人であったか。まさかあんな無様を晒して、勇者当人とは言わぬよな?」


 「その、まさかです。……落胆させてしまうかもしれませんが」


 申し訳さを装いながら、その実僕は何も感じていなかった。もう全ては終わったことで、罵られようと、見下げられようと、失った信頼を取り戻すことは出来ない。そんな諦観に彩られた僕を迎えたのは、外の雨音すら掻き消すような、少女の高らかな嗤い声だった。


 「……ハ、ハハッ! 落胆! 落胆とな⁉ いや逆じゃ! 愉快よのう従僕! 貴公は父上を討つべく差し向けられた尖兵でありながら、こんな旅半ばで見捨てられたのか! いや傑作じゃ! こんなに愉快に笑ったのはいつ振りじゃろうて……」


 腹を抱えたのか、笑い過ぎて涙でも零れたのか。想像出来る彼女の反応を窺うことはせず、僕は首を折ってその嘲笑をやり過ごす。言い返す気力も湧かなかった。

 けれど、そんな逃避を許さないとでも言うように、細い指が僕の両頬に添えられた。

 力強さは感じられなかったのに、その手が有無を言わさず僕の顔を上げる。

 目と鼻の先で、真っ赤な双眼が、僕を突き刺すように見つめていた。


 「カルトといったか。何故俯く? おもてを上げ、その歪んだ顔を妾に拝ませよ」


 「……出来ません。貴方は恩人ですが、その願いだけは、どうしても」


 彼女の力ない拘束に抗って、真横に顔を逸らす。……こんな至近距離では、僕の力は効力を増して発動してしまう。それに何より、僕は彼女を長時間直視することが、どうしても出来そうになかった。敵と対峙するのとは別種の緊張に強張って、突き放すことも出来ない。

 彼女の赤い瞳は、甘い毒だ。本能的にそう感じた。じゃなきゃ、怪我も治まった状態で、こんな頭が惚けたような熱を感じる筈がないのだから。不可解な感情と戦う僕を、彼女の手が再度追いかけ、また僕達は向かい合う。彼女の視線は僕の顔を巡るように観察して、最後に、僕の忌まわしい“目”の奥を深く捉えた。

 彼女の唇が、その心中をつまびらかにする。


 「願いではない。これは命令じゃ。――よい瞳を持っておる。穢れを知らぬ空色じゃ。その目を以って、何を恐れる?」


 互いに見つめ合っていたからか、それが嘘でないことが分かった。

 彼女はこんなへんぴな所に居るべきではない、高貴な存在だと実感出来た。

 真実味を帯びて、僕の力の象徴を“無害な物”と評した彼女に対して、僕は知らず知らず、全てを語り出していた。


 「……この目は、他者から力を奪う物です。その才能も、培ったものも、全部無作為に取り込んでしまう、忌まわしい代物です。そうなるように、僕が育ててしまいました。仲間達から疎まれ、恐れられて、今の僕はここにいます。だから、」


 自分の言葉を今一度確かめて、その罪深さを痛感していく。彼女の小さな肩に手を添えて、そっと押す。彼女から身を離して、再び視線を地に落とした。


 「どうか、貴方から目を逸らす無作法を、お許し下さい」


 「……誠、無礼よな。寝床を貸す宿主を突き放すとは」


 「すいません。僕はもう、ここから――」


 腰を上げて、立ち去る決意をした、瞬間だった。

 肩を突き飛ばされて、身を投げ出したベットの上、小柄な体重に伸し掛かられる感覚。

 僕の頭を挟み込むように両腕を突き出し、馬乗りになった彼女の、怒気を放った眼差し。

 洪水のように垂れ下がる長い銀髪に頬をくすぐられながら、簡単に振り払える筈なのに、僕は身動き一つ出来なかった。釘を打つように、言の葉が降り注ぐ。


 「ならん。今一度心に刻み込め。貴公は妾が拾った。一挙手一投足、その呼吸のいとまさえ、妾が握っているとゆめ思え。妾が舌を噛み千切れと言えばそのままに。生きよと命じれば、またそのように立ち振る舞え。命じるぞ、下僕。妾から、目を逸らすな。……何、心配せずとも、貴公が危ぶむようなことにはなり得んよ」


 「…………」


 沈黙。

 静寂。

 唐突。


 「………………何か、言わぬか」


 明後日の注文が来たので、予てから思っていたことを口にする。


 「真っ赤な、綺麗な瞳です」


 白い肌を朱に染めて、初めて、彼女の方から目を逸らした。


 「自分で振ってなんじゃが、こうも面と向かって言われると、面映いものじゃな……」


 火照りを冷ますように掌で自身を扇いで、気を取り直して彼女は、真に迫った表情で僕を見る。

 視る。

 診る。

 五分は、経過しただろうか。時間の観念がぼやけるくらい、熱烈な体験だったけど。

 “目”の力は、何時までも反応を示さなかった。


 「何も、起こらない……?」


 驚愕する僕を、彼女は軽やかに笑い飛ばした。


 「ハッ、言ったじゃろう。何も起こらんと。何せ妾からは、奪う物など何もありはせんからな」


 彼女はベットから下りて身だしなみを整え、乱れた銀髪を掻き上げる。

 起き上がって、その所作の一つ一つを、僕は目で追いかける。

 見ることが、許されている。

 瑣末な感動を他所に、彼女は口を開く。

 朗々と、堂々と。僕の不幸なんて、取るに足らないとでも言うように。


 「名乗り忘れておったな。妾はエルラ。魔王の娘が第一子。故あってここで離れて暮らしておる。丁度小間使いが欲しかったところじゃ。捨て鉢で生き甲斐を欠いた人生なら、その命、妾の為に消費する栄誉を賜わそう。無論、異論は受け付けんがな」


 情報が押し寄せる。彼女が最初に呟いていた、【魔王の城】との、れっきとした関連性。

 魔王の娘。

 整理のつかない事実に襲われて、なのに何処か平然と受けれてしまっている自分。そんな僕自身を客観視して、寧ろその方が道理だと納得する。彼女の立ち居振る舞いから感じていたそれは、決してただの人間に出せるものではなかったから。


 「……変だね。無茶苦茶言われてる筈なのに、君の命令に、抵抗する気力が湧かないや。何か、魔法にかかったみたいだよ」


 何時の間にか何らかの洗脳に掛かったのだと、自分の状態を説明付ける。

 だって、そうでもないと、心の機微が余りにも不自然だ。

 彼女――エルラに近付く度に生じる胸の動機は、きっと魔法や呪いの類。そうあたりを付けた。

 僕の思考を裏切って、エルラは吐き捨てる。


 「魔法? か弱き者が強者に楯突く為に要する外法の名か? ……妾には、最も縁遠き言葉よ」


 不機嫌に目を釣り上げるエルラに、僕は言い重ねる。


 「じゃあ、これは多分、君の瞳のせいだ」


 何の魔力も感じなかったけど、僕が異常をきたしたのは、彼女に見つめられてからだ。

 その異常は、時間が経つに連れて、どんどん強くなっていく。

  

 「……君の目を覗いてから、心臓がうるさいんだ」


 痛みではないけれど。苦しい訳でもないけれど。止まない。こんな病を、僕は知らない。

 エルラは数瞬きょとんとして、次に僕の方へ歩み寄った。

 膝立ちで屈んで、僕の上半身に頭が来る位置取りで、その耳を胸元に押し付けた。

 彼女の身動きに感応するように、ハートがビートを刻んだ。


 「……ほんとじゃな」


 「……ごめん、余計ドキドキしてる」


 「……言葉を慎めんのか、主は」


 僕を上目に見上げて、威厳の降格したエルラの叱り言。

 そんなやり取りに安らいでいる事実を、僕は包み隠さず伝える。

 

 「ありのまま喋っただけだよ。……今までなかったんだ、こんな経験。僕が意識せずに見つめても、無事でいれる人がいるなんて」


 《剥奪》発動の要求時間は、対象の魔力の総量に依存する。もし僕が気を緩めて、戦う力を持たない村人や町娘を一瞥すれば、簡単に《剥奪》はなし得てしまう。そんな出来事も、一度や二度ではなかった。

 だから戦う以外では、目隠しして歩くことさえあったのだ。

 僕が自然体で触れ合えて、意志の疎通を図れる存在は、エルラが初めてだった。

 その感謝を、伝えきれないのがもどかしい。せめて瞳を逸らさないことを誓って、彼女の動向を見守る。彼女の両腕に首周りを包まれて、引きずられるように僕は、前屈みの姿勢になる。

 互いの吐息が届きそうな距離で、感情に色付いた声が零れた。


 「……妾にとっても、この目に価値を付けてくれた人間は、お前が初めてじゃよ」


 喜びに目を細め、エルラはその身に纏わる事柄を話した。

 

 「この目の色は、妾が母上から受け継いだものじゃ。母上は旧い一族の末裔でな。人心を奪うのに長けておった。その業は今で言うなら《魅了》という奴に近いかもしれんな。……主が奪えるのは、所謂いわゆるスキルだけじゃろう? 妾の権能は、鳥が翼を広げるような、魚が尾を振るような、四肢の延長、機能の一種じゃよ。主の能力がいくら規格外でも、剥奪出来んものはある、という訳じゃな」


 言いながら、自分で頷くエルラ。前例のない理屈はあまりにも都合が良くて、つられて僕も笑ってしまう。


 「さすが、魔王の直径だね。無理が通る」


 「……これでも、道理に困らされた身じゃがな。さぁ、これで外堀は埋まったじゃろ。精々惨めたらしく、妾に主従を乞うがいい。手始めじゃ。屈服の証明に、一声鳴いてみせよ」


 前置きはお終いとばかりに、エルラが命じる。

 僕は胸の高鳴りに理由が付いて、安心したような、ちょっぴり残念なような、判然としない気持ちに揺れながら、もう答えは決まっているのだと諦めがつく。

 僕は、この心に従おう。

 心から、彼女に騙されよう。

 

 「――誓います。勇者カルトは、その使命を志半ばに放り投げ、魔王の血族に屈します。身も心も人生も、貴方に捧げることを誓います。……これくらい愚かしく振る舞えば、君の眼鏡には適うかな?」


 肩に力が入り過ぎていただろうか。みっともなく受け取られないことを願いながら、彼女を窺う。何だか鳩が豆鉄砲を食らったような表情で、唇をあうあうと蠢かせ、彼女は赤ら顔を逸した。


 「……うつけ者。前半はともかく、そんな小っ恥ずかしい文句では、まるで別の儀に聞こえるではないか」


 新しい表情を発見する度、僕の荒んだ何処かが濯がれていく。

 欲張りな自分が突き出て、ついでに一つ、申し出る。


 「それと一つ、宜しいですか?」


 彼女は恨めがましく僕を睨み、冷厳と返す。


 「許す。申せ」


 「君の名前を、呼ぶ許可を」


 直球。

 ……硬直。

 …………首肯。


 「これから宜しく。エルラ様」


 「……様は要らん。堅苦しいのは苦手じゃ」


 「分かった」


 腕の輪を解いて、エルラが立ち上がる。嫌味たらしく、悪役ぶる様に彼女は言う。


 「精々傷を癒やして、治療に励め。万全が整ったら、嫌というほどしごいてやる。はわ……妾も疲れた」


 彼女は手で口を覆い伸びをして、ベットに乗り上げ隣に回る。その行動に理解が及ばず、僕は案山子の如く思考を廃棄して、寝そべるエルラの一部始終を見ていた。


 「……エルラ?」


 「下僕、早速仕事じゃ。怪我のない腕を寄越せ」


 言われるがまま、僕も横になって、左腕をエルラの方へ近付ける。彼女はそれを枕に見立てるように動かして、そのポジションに満足したのか、淀みなく頭を落ち着けた。

 添い寝されているような間取りで、彼女の存在が側にある。

 さらさらとした長髪をくすぐったいだとか、思う以上に重くはないとか、冷静に分析している場合ではないのだけど、事の張本人は瞼を閉じて感想まで言い出すのだった。


 「ほう。細身じゃが、鍛え抜かれた腕じゃ。寝心地は良くないが、妾は寛大じゃ。これくらい我慢しようて。……言っておくが、余計な気を起こすなよ?」


 「……言ってることとやってることが、上手く結びつかないんだけど」


 「ここは妾のベットじゃ。主人が使うのに、何の不都合がある筈もなかろう」


 「じゃあ、僕が床で寝た方がいいのでは」


 「怪我人が生意気を言うではない。……貴公のあるじとして、経験しておくべきこともあったしな」


 不毛なやり取りを打ち切って、エルラが寝返りを打つ。

 僕も意識しないよう努めて、彼女を視界から締め出す。

 雨音に隠れそうな声で、僕の主は弱く柔く吐き出した。 


 「…………心臓の音とは、誠五月蝿いものよな」


 もう一度、エルラの背中を見る。

 その心情を追求することなく、僕は彼女が寝息を立てるまで見守った。

 

 結局眠れなくて、互いに寝不足だったのは、言うまでもないことだろう。


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