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擦り切りずだらけの旅装束を纏った男が、夜の森を彷徨っている。
もう老齢と呼んで差し支えない白髪を後ろで束ね、皺の目立ち始めた容貌に、老いに似使わない鋭い眼光を宿している。腰に提げた剣の柄には使い込まれた年季が窺え、彼が鍛え上げられた戦士、あるいはそれに属する何者かであることを、同じ実力ある者なら感じ取ったことであろう。尤も、それを予見する第三者は、今の所現れる気配もなかったが。
男は黙々と、夜闇を掻き分け森の緑を踏み締める。目的があるかのような足取りで、しかしその顔に焦りはなく、時折遠くから響く獣の声も、その歩みを止めるには至らない。
そんな迷いなど忘れたような彼の進行を止めたのは、森の開けた先にあった、一軒の住処だった。
男は、酷く驚いた目をした。何せこの森に踏み入る際、幾度もの外敵と相対したのだ。彼の衣装が傷を負っているのはその証左で、ここは戦いに不慣れなものが入れる場所ではない。だというのに、木造の家屋の前には畑などを擁していて、益々男の目を疑わせた。
自家栽培で暮らすには、この森はあまりにも不向きだった。
ここが【魔王の森】と呼ばれていることを知りながら進む人間は、自分くらいなものだろうと、男は信じていた。それも、ついさっきまでの話だが。
生唾を飲んで、男はその家に向かった。この場所が何を目的としているにせよ、彼には試練を切り伏せるだけの実力があったし、また、ここに住むのが無害の人間であるのなら、忠告や手を貸すことも厭わなかった。男はそのように生きてきて、そのように生き抜くことに重きを置いた、善良な人間であろうとしていた。【魔王の森】の奥地を目指す人種とは、得てしてそういうものだ。男は平屋の前で立ち止まり、二度扉を叩く。
住人は待ち構えていたかのように、さしたる間なく戸を開いた。
まだ若い、見立て十代といった風貌の、黒髪の少年が顏を出した。
少年の澄んだ青い瞳や、警戒を知らない幼い表情。
ひとまずの安心を押し込んで、男は口を開く。
「夜分失礼。私はジェイク。ジェイク・ハルバードという者だ。この森に潜む魔王を討つべく、しがない勇者をやっている。探索の際に、ここを見掛けてしまってね。単刀直入に尋ねるが……まさか君は、ここで暮らしているのか?」
問い掛けながらも、それを自分でも事実として信じられないといった面持ちで、旅装束の男――ジェイクは、少年の反応を待つ。果たして彼は照れ隠しするかのように頬を掻いて、緊張感もなく相好を崩した。
「……あはは。勇者、様に、畏まって言われると、何だか気恥ずかしくなりますね。取り敢えず、立ち話もなんですし、中でお話しませんか? 妻もきっと、勇者様と会えるなら、喜んでくれると思うので。ああ、申し遅れました。僕はカルトと言います。ただのカルトです」
歓迎の意を示し、少年――カルトは、手放しの笑顔を浮かべる。それはジェイクが今まで守ってきた民草に類する、平穏に属する者の、全幅の信頼。カルトという名前に何処か覚えを感じながらも、ジェイクは目の前の少年の純朴さから、その警戒を解いた。
その時点で勇者にとって、少年は守るべき多くの一つになった。
森の何処かで、獲物を勝ち誇るかのように、獣が高く啼いていた。
カルトはまず、空腹も何ですからと、長旅のジェイクに料理を振る舞いたいと申し出た。客人に喜々として接してくる少年に、ジェイクも断る理由など上げられる筈もなく、願ってもないことだと受け入れた。旅の装備を外した軽装で、居間の長机でカルトを待つ。
そして、ジェイクの対角の席に、カルトの“妻”と呼ばれる女性は座っていた。
彼女を見た時、ジェイクはこの家を見つけた時とは別種の驚愕に襲われた。それは有り体に言えば丹精に作られた調度品や、湖の煌めきを眺めた時に覚える感動であり、“美しい”という表現に集約された。
豊かな銀髪に、色素の薄い肌。彫り込まれたように整った鼻筋や顎の線は、壮麗に過ぎて何処か作りものめいている。唯一瞳の持つ赤だけが、彼女の色らしきものだった。
同じ机に着いてから、彼女――カルトはエルラと呼んでいた――は、一音も発していない。それがより人形染みた印象を手伝って、ジェイクに話し掛けることを躊躇わせた。
カルトが厨房についてから幾らか時が流れ、香ばしい匂いが室内に満ちた頃、彼が皿を両手にやって来る。芳しい香りはジェイクには未だかつて覚えが無いもので、胸を期待に高鳴らせてくれた。カルトのそっとした手付きで、料理が並べられていく。
ジェイクの第一印象は“白い”、だった。
湯気の立ち上るそれは、肉や野菜がなみなみとしたスープに煮込まれた、やはりジェイクには見慣れない一品。自分が食する分や、人数分の匙を運んで、カルトはジェイクの違和感を汲むように説明した。
「これは僕の故郷の料理で、シチューと言うものです。具材なんかはこの世界のありあわせですが、味は保証しますよ。毒も入っていません」
さらりとにこにこ笑顔で物騒なことを言うカルト。冗談としても始末に悪いと思いながらも、今しがた耳を流れた“この世界”の部分にジェイクは若干引っ掛かる。しかし人畜無害を絵に描いたような少年に、それ以上の追求はしない。何より空腹の身に、鼻腔をくすぐるこの匂いには、あまりにも耐え難かった。
「心配無用。毒には慣れている」
「勇者様も大変ですね……」
取るに足らない言葉を交わして、ジェイクは一口啜る。とろみを増した液体が喉を通って、夜の旅に冷えた身体に熱を運んでくれた。「美味い」ジェイクの口を、思わず感嘆が飛び出る。
「お口に合って幸いです」
「いや大した腕だ。いい嫁になるぞこれは」
「うーん、そういう冗句って、世界を越えて共通なんですね……」
口調は困りながらも、笑みは素直なカルトの隣で、エルラも粛々と味わっている。心なしか先ほどまで静止していた表情は、何処か柔らかさに包まれているように見える。ジェイクも場に和んで、二人に心を許した。
「奥方も喜んでいる、よい夫婦だ」
「それは……減相もない。勿体無いお言葉です」
「して二人は、何時からこうして暮らしているのかね。いつ魔物に襲われるとも知れぬ、この深い森に」
ジェイクが本題を促すと、カルトは居住まいを正して語った。
「何分こんな僻地ですから、時間の感覚も曖昧ですが、エルラはもうずっとここにいますよ。僕は後から住まわせて貰ったんです。意外と魔物にも遭わず、こうして平和に過ごしています。怖いのは、明日の献立くらいですかね。僕からも一つ、いいですか?」
「こうして胃を握られた口だ。一つと言わず、なんなりと」
「そんなご大層なものでも。では、お言葉に甘えて」
ひと呼吸挟んで、柔和な目を細めて、カルトは述べる。
「――勇者を名乗る者が、度々この森を訪れます。ジェイクさんもその一人です。僕が耳に齧った限りでは、勇者は異世界より召喚された一人の筈ですが」
尤もな疑問だと、ジェイクは頷く。
カルトの知識はこの世界の常識のようなもので、不安を抱くなというのが無理からぬ話だった。世間に放置された少年に、ジェイクは包み隠さずに伝える。
「ああ、ずっとここで暮らしているのなら、無理もない。件の勇者とその一行は目下行方不明でね。魔王に敗れたと噂されている。民が怯えを増す都度にこれはいかんと、腕に覚えのある者が我こそはと勇者を名乗り出たんだな。君の前に現れたのは、そういう輩だろう。かくいう私もだがね。若い頃も戦ったが、これはこれで、老後の張り合いにはなる」
「この歳でご隠居生活の僕には、耳に痛いですね」
「ハハッ、魔王の膝元で暮らす若造が、涼しい顔で何を言うか」
快活に笑って、ジェイクはまた一口、また一口と味わう。腹の潤いに機嫌を良くして彼は、若い夫婦が危険な場で暮らす不自然を、あっさりと受け入れていた。
「他に外界で分からぬことがあったら何でも聞きたまえ。うん。それにしても美味い。旅の土産話くらいでは、お代になりそうにもないな」
「お代なんて、そんなの結構ですよ。それと、」
カルトの目を見つめる、ジェイクの視界が一瞬揺れる。
立ちくらみのように遠のいた感覚が、頭の中を永続する。
突如として身に起こった異変に、ジェイクの手から銀の匙が零れた。
ジェイク・ハルバードは善良な人間だった。それは時に長所であり、時に短所になった。意識が切れる寸前まで、彼は毒の類を疑わなかった。
ただ、もう一口が惜しい。
「貴方、もういいですよ」
カルトの青い瞳が淡い光を放つ。瞬間、ジェイクの全身が弛緩する。
口に運びかけだったシチューに対する悔みだけが、この場においての、ジェイク・ハルバードの最後の思考となった。
◆
高ランクの《剣術》スキル、それと話に出た《毒耐性》。老齢の経験を培った他様々な生活的スキルが、今しがたジェイクさんから《剥奪》した全部だった。
瞼の裏に浮かぶスキル群を閲覧して、僕は脳を駆け巡る記憶に耐える。
《毒耐性》が未熟だった頃に無茶をして三途の川を渡りかけた記憶。
《剣術》スキルを上げるために、血の滲むような努力をした記憶。
僕が所持している《剥奪》のスキルには、こうして他者の、スキルを使用してきた思い出が、奪った際に付き纏う。この記憶は時に僕の人格さえも侵食してきて、おかげで困ったことにもなったけど、それももう昔の話だ。
多用さえしなければ、僕は僕を保てる。
スキルランクSSS、《剥奪》スキルはそれだけ危険な代物だった。
「にしても、僕って結構忘れられてるんだなぁ……」
ジェイクさんは最後まで気付かなかった。
行方不明の勇者の実態に。
まぁ、他に勇者をやってくれる人がいるのは、健全なことだと思うけど。
発動した《昏睡》スキルで倒れた爺さんは、ぐうすかと夢の中だった。
「――相変わらず、見事な手際よのう、従僕」
高位な者の舌に馴染んだ、僕の存在を見下ろすような、声。
エルラの語り掛ける言葉は、僕にとって福音のようだった。
そう感じられるように、魔法で僕は作り変えられている。
「これしか取り柄がないからね、僕は」
奪って奪って、奪い続けるしか能がない。
隣のエルラに目を向ければ、彼女は客人には一切見せなかったある種邪悪とさえ言える口の吊り上げ方で、笑顔の紛い物を作っている。真っ赤な瞳は僕を見据えて、面白がるように頬杖を突く。彼女はそうして、他者の運命を弄ぶのに愉悦を覚えることを、世界に許された人種だ。
何せ彼女は、魔王の娘なのだから。
「しかし心は痛まぬのか? 明日には記憶も取り除いて、スキルもない真っ裸と変わらぬ有様で、この森に分け入る後ろ姿を何食わぬ顔で見届けるのであろう? 魔王、父上より残酷よな、貴公は」
「きっとその通りだね。言い返す言葉もないよ。今更元勇者ですなんて、世間様には顔向け出来ない。でもね」
こんな僕にも、譲れないことがある。
奪った記憶に心を塗り潰されそうになる僕の、たった一つだけ確かな物。
澄まし顔のエルラに、僕はそれを伝える。
「もしも魔王が倒されたら、次に脅かされるのは君なんだ。そんな悲劇に陥るくらいなら、僕は喜んで悪役を引き受けるよ。君を守るって、決めたんだ」
真っ直ぐ見る僕に根負けしたのか、エルラがすぐに顔を逸らす。陽光を知らないみたいに肌の白い彼女の横顔は、朱に染まるとよく映える。シチューが熱すぎて火照ってるのかもしれない。吐いて捨てるように、彼女は僕の決心を評した。
「奴隷の分際で騎士のままごとか。そんなことをせずとも、あの父上は敗れんよ。それにしてもお主、何故その老体を《洗脳》しなかった? 今度はやりおおせると息巻いていたではないか」
エルラが話す事柄は、前回、前々回と僕が失敗したことに起因する。《洗脳》スキルは強力で、今までの自称勇者様にも掛けたことがあるのだけど、加減を間違えて頭がハッピーなことになってしまった。解けるまで付き合う気力もなかったので、すぐにお帰り頂いた。
息災でやってるといい。本心だ。
それはそれとして、彼女の疑問に答える。
「いや、僕のシチュー、本当に美味しいと思われてるのか、確かめたくてね。折角の機会だったから」
「……殊勝なことじゃ。励めよ下僕」
「仰せのままに。ああ、それと、洗脳しなかった甲斐がもう一つあったね。よき夫婦だってさ、僕達。奴隷と主人なのに、可笑しなことだね」
あまり冗談では笑ってくれないエルラでも、これには同調すると思った。意外にも彼女は項垂れて、その豊かな銀髪に顔を隠した。消え入りそうな声が、何事かを釈明する。
「……余人の前では、そう振る舞えと命じたのは妾じゃ。そう見えなくては、演じ甲斐もなかろうて。え、ん、ぎ、じゃからな? 鼻の下を伸ばすでない、奴隷!」
エルラに言われて、咄嗟に鼻から下を隠す。
ぺちぺちと叩いてくる彼女の手は勢いだけで、ちっとも痛みを伴わない。
そんなプチ暴力に抗う為に、僕は自家製のシチューをスプーンで掬った。
「これでお許し下さい、お姫様」
エルラの前にそれをかざすと、彼女は一度僕を上目遣い、そしてスプーンに視線を彷徨わせて、
「…………はむ」
景気良く頬張った。
胡乱気な目が、恨みがましく僕を批難している。
彼女の手が、迷うことなく自分のスプーンを握った。
僕と同じように、お皿のシチューを掬う
それが僕の口の前に突き出されるのは、自然の流れだった。
数瞬迷う。
「……へむ」
迷ったことを後悔するくらいの味わいが口内を満たす。
自家製シチューと、エルラのスプーンの味がした。
「はむは、はむはむは」
エルラがスプーンを頬張ったまま喋る。味わえ従僕、と訳した。
スキルじゃないぜ。
伊達に奴隷してないぜ。
「へむへむへむへ」
美味しゅうございます、と返した。エルラが頷く。
そのまま僕達は、互いのシチューを相手の口に運び合った。
冷めてたけどアツアツだった。まままで言わせるな。
学生辞めて勇者になって、人間辞めて、その癖勇者の名札も取り下げて、僕は現在畑で野菜を耕しながら、こうしてエルラの奴隷をやっている。彼女の赤い瞳の奥が何で満ちているか、それを確かめるのが、これからも続く僕の日常だ。
今まで他人のスキルを奪ってきた僕には、お似合いの末路。
夢と可能性を食い潰されながら、僕はエルラに、心奪われている。