嵐の予兆
足跡は西へ向かっていた。
〈こっちにパンピーさんのテントがあるんでしょうか〉
「さあ。でも、誰かに追われている人間は西に行くと聞いたことがある」
人間の脳には、右回りより左回りを好むという性質があると言われている。いわゆる左回りの法則というもので、左回りでは大丈夫だが、右回りをすると気分が悪くなったり、居心地が悪くなるのだという。そのため、陸上競技やスピードスケートのトラック、スーパーマーケットの内装に至るまで、生活のいたるところにこの左回りの法則が採用されているという。
「そろそろ追いつく頃合いだろ」
マウンテンバイクを乗り捨て、数十メートル先に目を細めるとちょうど安藤の赤いパーカーが見えた。予想通り、その前にはパンピーらしき人影も見えた。
「DT、近くに比留間らしき人物は」
〈今のところ、見当たりません〉
密島は木の陰に隠れ、ゴーグルを拡大ズームした。
「あっ」
〈どうしましたか、みっちゃん〉
密島は思わずまばたきをした。
「今、パンピーが安藤の顔を叩いた」
〈え?〉
忍び足で近づくと、たしかにそこにいたのは間違いなく安藤とパンピーだった。だが安藤はうなだれるようにして下を向いていて、パンピーはといえば首をかしげながら空を見上げている。その空気はピリリと張りつめていた。
「ほんと、マジで役立たずっスね」
パンピーは空を流れる雲から目をそらさず、つぶやくようにそう言った。普段のふにゃふにゃとした芯のないしゃべり方からは想像もできないような、冷ややかで、研いだばかりのナイフのような鋭い声だった。
「密島パイセンを仲間にしてこいって言ったのに、なんでカードだけ交換したんすか? しかも笠原パイセンまで置いてくるし」
「すみません! 俺はてっきり……」
「言い訳は聞きたくないっす」
パンピーは、はあ、と重たいため息をついた。
「自分はお前みたいな使えない雑魚が嫌いなんすよね。どうしてそんなにうかつなんすか。雑魚なら雑魚らしく、せめて自分がうかつで役立たずな使えない雑魚ってことを自覚するべきじゃないっすか」
「……すいません」
「あーあ、テンションがた落ちっす」
パンピーがそう言い捨てると、一瞬、密島のいる方角を見たような気がした。密島は出していた顔を引っ込め、身を固くした。バレていないと思っていたが、気づかれていたのだろうか。
「……とりあえず、笠原パイセンを探してください」
「は、はい! あの……」
「なんすか?」
「もう一回、叩いてもらえませんか」
「キモイ」
パンピーがどこかへ行ってしまうと、密島はそっと安藤に近づいた。
「おい」
「うわぁ!」
安藤は突然現れた密島に一瞬顔をほころばせたが、密島が銃を突きつけると、「待て待て待て!」と両手を上げて後ずさった。
「俺を撃たない方がいい! さっき、別のやつに見つかって、今俺のカードは4だ」
「誰に負けた」
「八重咲寧々だよ」
「八重咲?」
頭の中でどんな人物だったかを思い出す。あの元アイドルとかいう若い女だ。また、油断したとしか思えない相手にとられたものだ。すると安藤は密島を睨み、「笑うな!」と吠えた。
「あんた、なんでパンピーとつるんでるんだ? 優勝の手伝いをすれば分け前でもくれると言われたか」
「ちがう。金のやり取りは約束してない」
「じゃあ、何」
「能力があると判断できれば、あの人の会社で使ってくれると言われた」
「会社?」
「知らないのか?」
密島が頷くと、イヤホンの中でDTが補足説明をくれた。
〈パンピーさんは会社を経営されているんですよ。PNP株式会社という会社の代表取締をされています。事業展開はスマートフォン向けのアプリ開発や産業製品ブランド“女子大生発明家PANPEE”の商品開発、販売などですね。オフィスは六本木の一等地にあります〉
「今、失業中なんだ。このゲームに誘われるまでは結構なブラック会社にいた。毎日終電帰りで残業代はなし、ボーナスももう三年もらってなかった。でもずっと思ってたんだ。俺はこんなところで終わる人間じゃないって」
「昨日一緒にいた奴は?」
安藤は一人だった。だが、密島が追ってきた足跡は二人分だったはずだ。
「見ての通りだ。あいつも笠原も、あんたのカードを奪うことができなかった。だから捨てられた。あの人は優秀な人間しか周りに置かない。ま、俺も首の皮一枚ってとこだけど」
「いいのか? 簡単に他人を切り捨てる人間は、何度だって同じことをするぞ。自分だけは特別だなんて思っていたら痛い目を見る」
「ご忠告どうも。でもあんたはあの人の凄さを知らないからな」
「凄さ?」
「そうだ。あの人は不可能を可能にする魔法使いだ」
「なんだそれ」
〈PNP株式会社の企業キャッチフレーズです〉
「とりあえず顔、冷やした方がいい。保冷剤でも頼んで……」
「やめろっ」
端末を操作しようとすると、手を安藤に素早く叩かれた。
「これは勲章なんだ」
「……はあ?」
イカレてる。
密島は呆れ顔でため息をついた。密島がそのまま歩き出そうとすると、後ろから呼び止めるように
「あの人は全プレイヤーがどこにいるか、すべて把握しているぞ!」
という安藤が言った。
「どういうことだ?」
「ドローンだ。パンピーさんはエースってやつのドローンに紛れて、自分のドローンを飛ばして、そこにつけたカメラで森中の様子を把握している」
「そんなもの、エースが買わせるわけがない。それに購入履歴には……」
「自作したんだよ、パンピーさんは」
安藤は勝ち誇ったような声で言った。
「しかもあの人のドローンは、エースの物とほとんど違いがない。ま、パンピーさん本人から教えてもらった俺には見分けがつくけど」
「そんなこと、人にぺらぺらしゃべっちゃって、もしかして逆に自分を蹴落とそうとしてるんすか?」
ハッとして声のした方を見ると、赤い舌で下唇を舐めながら、パンピーが立っていた。




