ライディング・レイド
それは発煙筒だった。DTが見繕った「頑張れみっちゃんアンタ絶対キングになれるよグッズ」の中の一つだ。
〈絶対に役に立つと思ったんです!〉
得意げなDTの言葉をよそに、密島はライターで火をつけた発煙筒三本を地面に放り投げた。すぐに外国のお菓子のような毒々しいピンク色の煙が木の下に充満する。
叫び声あがり、プレイヤーたちに動揺が走ったのがわかった。こうなればもうこちらの勝ちだ。
密島は地面へと着地すると、目の前にあったマウンテンバイクを奪った。
「待て!」
すぐに追っ手は追いかけてきたが、その差は十メートル近く空いているはずだ。もし相手がツールドフランスの出場選手でもない限り、このまま引き離せるだろうと密島は踏んだ。
だがそのとき、予想もしないことが起きた。急にペダルを漕ぐ力が軽くなり、視界が上下に揺れた。車輪を支えていた地面が突然消え、バランスを失った密島はハンドルを握ったまま前のめりのような体勢になった。
「あっ」
咄嗟にハンドルから手を離し、頭を庇って、そのまま堅い土の上へと転がる。だが着地したときに強く打ったようで、腰に鈍い衝撃が来た。
〈大丈夫ですか!?〉
「……ちょっと腰が痛い。落とし穴に落ちたみたいだ」
立ち上がりながら、落ちた穴を見回した。人工的に掘られた穴のようだ。三メートル近くある竪穴で、触ってみると泥はサラサラとこぼれた。これでは自力で這い上がるのは難しそうだ。お構いなしに顔にあたる雨粒と腰の痛みに顔をしかめていると、突然イヤホンからDTの焦ったことが聞こえた。
〈みっちゃん! 上!〉
「え?」
そう言われて顔を上げると、「うわあっ」という情けない悲鳴と共に、重量のあるマウンテンバイクと七十キロ近い人間が見えた。そしてそれはあろうことか密島の真上に落下した。
「いたた……」
「いたた、じゃない! 早くどけ、デブ!」
「デブって酷いなぁ、ちょっとメタボなだけで……」
「いいから、早くしろっ……!」
冗談じゃなく圧死する。こんなところで死にたくはないが、太ったオッサンの下敷きになって死ぬなんてますます嫌だ。密島が叫ぶと、小太りの男は慌てた様子でぴょんと横にどいた。どうやら密島の体がクッションになったおかげで、男の方には目立ったケガはなかったようだ。
「あの、大丈夫ですか?」
心配そうに顔を覗きこんできた男に、咄嗟にセンサーのついた腰を庇う。すると、男は人のよさそうな笑みを浮かべ、
「ケガしてる人からカードを奪おうなんて思わないよ」
と手をヒラヒラと横にふった。
「ちょっと待ってて。今、ドローンで梯子を持ってきてもらうよう頼むから」
「待て。そんなことをしたら、あんたの仲間に落とし穴に落ちたことがバレる。それにもしほかの誰かに見つかっても、こんなところにいて上から狙い撃ちされたんじゃひとたまりもない。日が暮れて、今日のゲームが終わったら、ドローンを呼ぶ」
日暮れまではあと一時間と少しだ。穴から出たところでどのみちたいして動けないだろう。
〈この人を信用して大丈夫でしょうか?〉
「さあ……」
密島は男の顔を盗み見た。どこか緊張感のない、のんびりとした顔だ。ぽよんと突き出た腹が余計にそう思わされるのかもしれない。それはこの森に来てから初めて出会った、何の計算もない人間の表情のように思えた。もしこれが演技だったら、ずいぶんな役者だ。だが、相手は落とし穴まで掘って用意周到に密島をとらえようとした奴らだ。
「何か?」
「あ、いや、なんでもない」
男と目が合い、咄嗟にそらすと、
「もし足とか痛むんでしたら、言ってください。僕、テーピングは得意なんで」
と、やはりふんわりとした笑顔を向けられた。
「この穴はあんたとあんたの仲間が掘ったんだよな?」
「そうです。ここに貴方を追い詰めて、カードを交換する作戦だったので。でもたくさん掘った中の一番遠い穴なので、見つからないと思います」
「どうして自分が掘った穴にあんたまで落ちてるんだ?」
「それなんですよね」
男はたはは、と笑って恥ずかしそうに頭をかいた。
「いつもこうなんですよ、僕は。ツメが甘いっていうか、どこか抜けてるっていうか。僕、笠原広志って言います」
笠原と名乗った男は、木々の間からのぞく曇天の空を見上げ、ため息をついた。
「雨、やみませんね」
「ああ」
「退屈だから、少し世間話でもします?」
密島が無視していると、すかさずイヤホンから
〈……フレンドリー〉
というDTの低い声がした。
「世間話、しようか」
口やかましい姑みたいだ。
「じゃあ、密島さんはどうしてこの番組に参加しようと思ったんですか?」
「別に理由なんて……。まあ、こういうのが好きなんだ」
「こういうのって、サバゲーってこと?」
「いや……」
密島が言いたかったこととはちがったのだが、面倒だったのでそのままにしておくと、笠原は「あー」と納得したように頷いた。
「そっか、密島さんってサバゲーの達人だったんだ。どうりで動き慣れてると思った」
「達人って……。じゃあ、あんたはどうして参加したんだ?」
「僕?」
「こう言ったらなんだけど、あなたはなんていうか……まともに見える」
こんな番組に参加しようと思う奴にろくな人間はいない。金に困っているか、これをきっかけに一旗揚げたいと思っているか、あとはモテたい奴か目立ちたがり屋かだ。だが、目の前の男はそのどれにも当てはまらないように思えた。
笠原は少し考えたあと、口を開いた。
「僕もね、別にお金が欲しかったから参加を決めたわけじゃないんですよ。ただ、面白そうだと思って」
「面白そう……?」
「うん。僕の人生って、一言で言うととっても平和だったんです。そこそこ裕福な家に生まれたから、生活に苦労したこともないし、進学や就職で挫折を味わったこともない。運よく結婚もできたしね」
「結婚、してるのか」
「こう見えても、一応。まだ子供はいませんけど」
笠原は前に突き出た腹を撫でながら、はにかんでみせた。
「不満なんてないと思ってた。平和が一番、僕は恵まれてるって。でも、あの手紙が送られてきて、まるで子供のようにワクワクしちゃったんだ。これから、今までの人生ががらりと変わるような何かが起こるのかもしれないって思ったら、ドキドキして眠れなくて」
そう語る笠原の目は、たしかにクリスマスの前日の子供のようにキラキラと輝いていた。
「ああ、でも、柔道を辞めたのは唯一の挫折だったかな」
「柔道をやってたのか?」
そうは見えない。すると密島の考えがわかったのか、「意外ですよね」と笠原は頭をかいた。
「僕、こう見えても柔道一家で生まれ育ったんです。知らないかな、笠原克彦って。元オリンピック選手で、テレビにも十年くらい前まではよくコメンテーターとして出てたりした。それが父なんです。兄が上に二人いて、僕ら兄弟は全員三歳の頃から父の知り合いの道場に入れられました。兄は二人とも選手になって、今は指導者として未来の柔道界を支える若手育成に力を注いでる。でも僕だけは才能がなかったみたいで、高校まで続けたけど国体にも出られなかった。だから父のツテで入った公益法人で、今は事務の仕事をしています」
笠原はフッと小さく微笑んだ。それはどこか自嘲気味な笑みだった。だがすぐにもとの晴れやかな顔に戻り、
「十年働いて、こんなに長い休みをもらうのは初めてなんです。ゲームが終わったら、きっと仕事に行くのが嫌になるだろうな」
と笑った。
「あなたは? どんな人生を送ってきたの?」
「わたしは……外国で育った。その国は一年の三分の一が冬の雪に覆われた寒い国で、日本よりずっと貧しい国だった。でもほとんどの人達は、--もともと複数の民族が入り混じって生活している国だったし、自分たちとはまったくちがう見た目のわたしにも優しくしてくれる、寛容で大らかな人々だった。わたしはその国で、人間として生きるうえで大切なことをすべて学んだ」
「どんなこと?」
「飽きずに毎日ひらすらジャガイモを食べ続ける方法とか、凍ったシャワーを壊さないでお湯を出す方法とか」
「どうやるの?」
「我慢と諦めが大切」
密島の言葉に笠原はぷっと吹き出した。
「生涯の友も得た。少し年の離れた友人で、国の補助でアメリカの大学に留学していたエリートだった。まああの国ではそんな人でも働き口を見つけるのは大変だったけど。貧しいながらも、それなりに楽しく暮らしていた。でも……徐々に状況が変わっていった」
日用品を売る店の品物が少しずつ減っていった。
通りの物乞いたちがいつのまに姿を消した。
軍に入る若者が増えた。
それらはどれも見過ごしてしまうような小さな変化だったが、新雪のようにじわじわと降り積もっていった。
「そのうち隣国でクーデターが起きて、外国人だった父は国外退去を命じられた。父はなんとかわたしと母を故郷へ連れて行こうとしたけど、それは結局叶わなかった。政府の締め付けはどんどん苦しくなり、この国でも革命を望む声が増えた。親友が革命組織の中心メンバーをしていて、わたしもそこに年齢を偽って加わった。自由のために声を上げなければならないと思ったんだ」
みんな気持ちは一緒だった。大切な人たちと、その人たちとの生活と、美しい風景を自分たちの手で守るために戦いたいという思いを抱えていた。
「だけど、計画の途中で、隣国で非暴力のクーデターが起きて、まだ準備が整っていないのに民衆が勢いづいた。一度できたうねりは止められなかった。わたしはたまたま民主化運動の専門家に話を聞きに行っていて無事だったが、首都にいた組織のメンバーは全員死んだ。親友も、死んだ」
「そんな……」
今にも泣きそうな顔でこちらを見つめる笠原に、密島はついに我慢できず吹き出した。
「ぷっ」
「……えっ?」
「っていうあらすじの小説を退屈まじりに読むくらいには、わたしもあなたと変わらない、平凡な一生を送ってきたよ」
密島が巾着から取り出した文庫本を見て、笠原は脱力したように顔を手で覆った。
「なんだぁ、信じちゃったじゃないか」
「笠原さんがあんまり目に涙ためて真剣に聞いてくれるから、冗談だって白状するタイミングが見つからなかった。あまり人をすぐに信じない方がいい」
「でも親御さんが外国人なのは本当でしょう?」
「え?」
「だって目が、灰色がかって……」
笠原はきょとんとしてこっちを見た。そして「あれ? 勘違いだったみたいだ」と頭をかいた。
そのとき、ちょうどよくスピーカーからホイッスルの音声が流れ、「本日のプレイは終了です」というエースの声がした。
「結局密島さんの身の上話は聞けなかったな」
「でも紛れたでしょう? 退屈は」
梯子を注文しながら言うと、笠原は「そうだね」とにっこりほほ笑んだ。




