27:本当の涙
翌朝、東の空がようやく赤く色づき始めた頃、密島は池のほとりにいた。
横に並んで歩き始めた密島を見て、成見は一瞬驚いたような顔をしたが、結局何も言わなかった。
「知らなかったの、結婚してたなんて」
しばらく歩いたあと、まるでひとり言のように前を向いたまま成見はそうつぶやいた。
「わたし、片親育ちって言ったでしょう?」
「ああ」
「小二のときにその親に捨てられて、子供のいなかった夫婦に育てられたの。そのがね両親ね、すごく仲が良いんだ。小さな頃から、大きくなったらこんな家庭を作りたいって思ってた。それなのに結果はこれ。わたし、人を見る目がないみたい。離婚した夫も、普段は優しいけど、怒ると手がつけられなくなる人だったし……」
そう言うと、成見は唇をぎゅっと噛んだ。
「両親が弱音を吐いているところなんて、一度も見たことない。本当にできた人たちなの。それなのにわたしは、大人になればなるほど、どんどんあの女に似てくる」
「あの女……」
「わたしを捨てた女。あの女もそうだった。男を見る目がなくて、自分を大切にする気のない男とばっかり恋人になって、捨てられての繰り返し。挙句、自分が産んだ娘の面倒すら嫌になって、子供を捨てたのよ」
成見の目には怒りと共に怯えがにじんでいるように見えた。自分を捨てた母を、ああはなるまいと思えば思うほどに、同じ道を歩んでいるような気がしてしまう恐怖が。
「SNSに書いてあった。母親が恋なんかするなって」
「そんなのっ……」
「腹立つわよ。人間なんだから、恋ぐらいさせてくれって思うわよ。でも、悔しいけど、その通りかもって思っちゃった。わたしが恋愛なんてしなければ、炎上することもなかった。それにこのことが息子の耳に入ったら、きっと辛い思いをすると思う。わたし、母親失格ね」
成見は静かに笑った。その手に塗られたマニキュアはところどころまだらにはがれていた。
「それはあなたが決めることじゃない」
「じゃあ誰が決めるの?」
「息子さんでしょ。あなたでも、わたしでも、もちろん画面の向こうの知らない世間の人間たちでもない。あなたは、あなたの息子にとってたった一人の母親、でしょ」
成見は何も答えなかった。何も言わず口を固く引き結び、ただ黙ってゆっくりと瞬きを重ねた。そして一度俯き、小さな息を吐いた。
「わたしも十八までずっと病院で過ごしてきたから、息子の気持ちが少しだけわかるんだけど……。たぶん、あなたの息子は自分の母親が自分のことでいっぱいいっぱいになってるのに気づいたんだ。でも自分は何もできない。だから、お父さんが欲しいって言ったんじゃないかな。あなたの力になってくれる、お父さんが欲しいって」
「そんなの……」
成見はふっと力が抜けるように前へ倒れこんだ。あわてて支えると、腕の中で声を押し殺し、その細い肩を震わせていた。泣いているのかわからなかった。だが昨日のウソ泣きに比べればずっと真実味のある泣き声だった。
「もう……平気なの?」
「何が?」
「入院してたって」
涙でぐしゃぐしゃになった成見の顔を見て、密島は思わず吹き出した。
「どう見ても平気でしょ!」
「そうだね、ごめんね。でも仕事柄つい心配しちゃうのよ、ひとん家の子でもさ」
もう二十歳も越えているんだけど、と思ったが、今度は口には出さなかった。
「きっと似た者親子なんじゃないかな」
「そう?」
「そうですよ。息子さんそっくりなわたしが言うんだから、間違いない」
すると、成見が立ち上がりながら、ぷっと吹き出した。
「それね、よく見たら、全然似てなかったの」
「……は?」
「ほら、おばさんになると、若い子ってみんな一緒に見えるでしょ? たぶん、うちの子が成長したら、密島くんよりもっと男前になると思うのよね」
「これだから親バカは……」
「でもありがとう」
そう言うと、成見は手をふって森の出口の方角へ走っていった。その後ろ姿が小さくなるまで、密島はずっとそこに立ち尽くしていた。




